第3話 取引
慶太も友樹も、声の出し方を忘れてしまったかのように言葉が出なかった。
整った顔立ちは同性でも目を奪われるほどだが、それよりも先に目が向くのは、やはり、人にはないはずの耳と尾だ。
一瞬、作り物かと思ったものの、頭上の耳は音がした方に向いたり、尾も緩やかに動いている。とても偽物とは思えない。
「狐、男……?」
「ははっ。人間は様々な呼び方をするものだ。私にはお前達に名乗る名はないが、種族としては『妖狐』と呼ばれることが多いかな」
自身を見て驚く人間は珍しくはないのだろう。狐男は人当たりの良い笑みを浮かべて言った。
だが、その笑顔だけで親しみを持てるほど、慶太の適応力は高くはない。未知の者を前に、何が起こるか分からない恐怖で一杯だった。
「ゆ、友樹、帰ろう……」
「そうそう。私に会えたら満足なのだろう? 怖じ気づいた友を連れて帰るといい」
「っ! そ、そうだよ。友樹、帰ろう?」
冷やかしてきた妖狐に羞恥心が込み上げたが、すぐに「逃げなければ」と警鐘を鳴らす本能に従った。
ただし、慶太より先に進んでいた友樹は、帰ろうにも妖狐のそばを通る必要がある。
一向に動く気配のない友樹を見て、慶太は彼を引っ張ってでも連れて帰らなければと思った。だが、肝心の足は地面に縫い付けられたかのように動こうとしない。
(なんで、こんなときに動けないんだ!)
自身の情けなさに涙が出そうだ。
すると、漸く我に返った友樹は思いもよらない言葉を発した。
「な、なぁ! お前、会った人に力をあげてるんだよな!?」
「力……?」
「なるほど。お前が私を呼んだからだったか」
突然、友樹の顔色が変わったかと思いきや、彼は縋るように声を上げた。
慶太が聞いたのは、狐男に会えば人生が変わるというものだ。力を得られるとは聞いていないため、何のことかと怪訝に眉を顰める。
妖狐はなぜか合点がいっており、「呼んだ」という言葉には先ほどとは違う意味が含まれているようだ。
「俺、力が欲しいんだ!」
「ちょっ……友樹! 何を考えてるんだ!?」
「ほう? 力を得てどうする?」
切羽詰まった様子は、ただの好奇心からとは思えない。
妖狐は笑みを消し、友樹を見定めているのか、すっと目を細めた。
一度、感情を抑えるように息を吐いた友樹は、しっかりと妖狐を見据えて言う。
「俺の家族を騙して、めちゃくちゃにした奴に復讐してやりたいんだ」
「え……?」
慶太は自分の耳を疑った。友樹の家とは家族ぐるみの付き合いだが、彼らが誰かに騙されたなど、慶太の家族は勿論、本人からも聞いたことがない。
また、友樹が誰かを憎んだところも見たことがない。彼はいつでも周りを見て他人を気遣い、誰にでも分け隔てなく接する、いつもクラスの中心にいるムードメーカー的存在だ。そんな彼が、今、剥き出しの敵意を誰かに向けている。
妖狐は考えるように一度目を閉じた。
三人の間に沈黙が流れる。風が吹き抜け、木々がざわめく。
ゆっくりと目を開いた妖狐は、再び友樹を見据えると妖しく笑んだ。
「その願い、しかと聞き入れた」
「ま、待って! 力ってなに!?」
慶太は友樹へと向いた妖狐の背に向けて叫ぶ。せめて、打開策が見つかるまでの時間稼ぎに、と思ったが、残念ながらその策は思いつかない。
そんな慶太を見て少し思案した妖狐は、ゆったりとした口調で説明してくれた。
「この世界には、ここ、人間界とは別の世界……『
「幻妖……」
「私達、妖狐も、その幻妖の一種だ」
物語の中だけの存在と思われていた妖怪や空想上の動物を、全てまとめて『幻妖』と呼ぶ。通常、人の目に映ることはないが、力の強い幻妖に関しては、自らの意思で人の目に映るようにもできる。また、一部の力ある幻妖は、人にその力を分け与えることができると妖狐は付け足した。
まるで夢を見ているようだと錯覚しかけた慶太だが、すぐに友樹がそんな幻妖から力を貰った結果に気づいて声を上げる。
「友樹、本気なのか!?」
「本気だ」
「なんで……」
『力を貰う』ということは、『普通の人ではなくなる』ということだ。
ただ友樹から話を聞いただけなら、本当に力を得られるのかと疑っただろう。しかし、『妖狐』という非現実なものを目の前にして完全否定はできなかった。
「『なんで』? ああ、そっか。お前は俺みたいな目に遭ったことないもんな」
友樹は慶太を嘲るように見た。
その視線すら初めてで、慶太は言葉を失った。
「何かあったら困るからって口止めされてたけど、もういいだろ」
友樹の家に何が起こっていたのか。どうして、今まで何も言ってくれなかったのか。
そんな言葉が慶太の頭の中で繰り返される一方、友樹はずっと隠していたことを明かした。
「父さんの知り合いに、警察関係の奴がいるんだ。その人がさ、金に困ってるからって少し助けてやったらしいんだけど……返されるどころか、その要求はどんどん増えていったんだ」
友樹の家は裕福な家庭ではなく、一般的な家だ。限界はすぐにやって来たものの、それでも相手は「警察官」という肩書きを利用して両親に脅しさえかけてきた。
その結果、会社を左遷された父は県外へ単身赴任となり、母は少しでも家計の足しにと朝から晩まで働いたが、元々体が弱かったこともあってすぐに倒れてしまった。医大を目指していた姉も進学を諦め、今は別の仕事をしている。
友樹も高校には行かずに働く気だったが、それを家族は反対した。
「『せめて、高校くらいは行っておかないとダメだ』って言われて、今はこうして通わせてもらってる。でも、噂で俺達を騙した奴が出世してるって聞いたとき、どうしても許せなかったんだ」
「そんなの、なんで警察に相談……あ」
相手は警察官。それも、出世しているならそれなりの地位にいる者だ。何かを申し立てたとして、果たして正しく受理されるのか。
答えは既に出ている。
「だから、力を得て復讐をしたいと?」
「ああ」
「なるほど」
妖狐は小さく息を吐き、僅かに視線を落とした。だが、すぐに友樹に向き直って続けて言う。
「先も言ったが、力は与えよう。ただし、条件がある」
「条件?」
「タダでくれてやれるほど、簡単なものではないのでね」
(やめろ……)
話は進んでいく。
慶太はそれを止めたいのに、言葉は口から出なかった。体も凍りついたように動かない。
そんな慶太を無視したまま、妖狐は右手の人差し指だけを立てた。
「まず、力を与える機会はこの一度きり。どんな力が発現しようとも変えられない上、二つは得られない」
「分かった」
「そして、対価として、お前が過ごすはずだった『人としての人生』を貰おう」
「人としての、人生……」
「勿論、私がお前の人生を貰ったところで、人として生きられるわけではない。ただ、見て楽しませてもらうだけだよ」
友樹は、改めて突きつけられた事実を繰り返して視線を落とした。
このまま生きていった場合の未来はなくなってしまう。良いことも悪いこともすべて。
だが、それを犠牲にしたとしても、友樹はやり遂げたかった。
「分かった。やるよ」
「友樹!」
「……ごめん、慶太」
やっと声が出た慶太を、友樹は困ったように笑って見る。
名前を呼んだのは、謝罪の言葉が聞きたかったのではない。
「やめようよ……。おじさんもおばさんも、お姉さんだって心配するよ?」
「そうだとしても、俺はアイツを許せないんだ」
友樹の目に、強い憎しみの色が滲む。今までそんな素振りを見せなかったのは、下手に知られれば周りにも迷惑を掛ける可能性があったからだ。
妖狐は慶太にも視線を向けると、小さく笑みを浮かべて小首を傾げた。
「お前は、力は要らないのかい?」
「い、要らない! 友樹だって――」
「慶太!」
「っ!」
突然、名前を大声で呼ばれて言葉が詰まった。
友樹を見れば、彼は悲痛に顔を歪めていた。
「お前を連れてきたのは、俺がどうなったかっていうのを父さん達に伝えて欲しかったからなんだ」
「そ、んな……」
「もう、嫌なんだよ……」
両親や姉の姿を見ていると、どうしても家族の平穏を壊した原因を憎んでしまう。警察関係者を見ると、怒りや憎しみが込み上げてきて、凶行に走りそうになってしまう。
方法はこれしかないと、噂を聞いたときに直感した。
「妖狐、頼む」
「待って……」
「無事に覚醒することを祈っておくことだ」
友樹に歩み寄った妖狐が彼の額に手を翳す。
やがて、手のひらと額の間に光が生まれ、眩く発したそれは友樹を包み込んだ。
「友樹ー!」
慶太の叫びが辺りに木霊する。木の枝で休んでいた鳥が一斉に羽ばたいた。
光はすぐに収まり、糸が切れた操り人形のように友樹はその場に膝をつく。
「友樹! 友樹、大丈夫!?」
「…………」
虚空を見つめたまま呆然とする友樹に駆け寄り、傍らに膝をついて肩を揺する。
ぼんやりと慶太を見た友樹は、ゆっくりと視線を自らの手に落とした。
そんな二人を見下ろした妖狐が、仄白い光が収まった水晶玉を空に翳して眺めながら言う。
「ふむ。お前、道を誤ったやもしれんな」
「か、返して……」
妖狐の言葉にハッとした慶太が妖狐から水晶玉を取ろうとするも、玉は妖狐が袖から取り出した懐紙に吸い込まれた。
浮かび上がった黒い線は墨で書かれた文字のようだが、慶太には何と書かれているか読めなかった。
「返さないよ。これはお前と私で交わされた取引ではなく、そこの友樹なる者と取引した対価だ」
妖狐は地を軽く蹴っただけで、数メートル上の木の枝まで飛び上がった。
二人に背を向けながら、どこか楽しげに言葉を続ける。
「祝ってやれよ、友人。『
「よりびと……?」
「幻妖の力を持つ人間のことだ。ではな。お前も、私が必要になれば呼ぶといい」
「だっ、誰が頼るもんか!」
妖狐は旋風を起こすと、一瞬にして姿を消した。
林の中が静寂に満ちる。陽は落ちてしまったのか、辺りは夜の闇に包まれていた。
慶太は慌てて友樹に向き直って、未だ呆然とする彼の肩を揺すった。
「友樹! 大丈夫!? 友樹!」
「……すげぇ」
「え?」
友樹が小さく呟いた。
意味が分からず聞き返した瞬間、肩を掴んでいた手が払い除けられる。
「は、はは……ははははっ! すげぇ! まだ何も使ってないのに、力があるって分かるぜ!」
「ゆ、友樹? ねぇ、何が起こってるの?」
「……ワリィ、慶太。ちょーっと、痛いだろうけどさぁ――」
「っ!」
ゆらりと立ち上がった友樹が浮かべた笑みに、背筋がぞっとした。本能が鳴らす警鐘に従うよりも早く、慶太は友樹に肩を押されて地面に倒れる。
そのまま慶太の上に跨がった友樹は片手を振り上げた。
月明かりでぼんやりと見えた手。それはもはや人のものではなく、大きさ、指の長さからして何倍もの大きさがある、鋭い爪を持つ異様な手だった。
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