冬が深まり、凍える日々がやって来た。木々は萎れた葉を落として、冷たい風がそれをどこかへ連れ去っていった。もう地面にその痕跡を探すことすら難しい。太陽は低い軌道を描き、半年前よりも随分と弱くなった光を投げ掛けていたが、それももうすぐ落ちるところだった。

叔父から届く絵画、そこに描かれる果実は時とともにその豊かさを増し、季節の陰りを感じさせなかった。それどころか、いよいよもって勢いを増す豊穣の氾濫のようでもあった。その筆致から感じられる丁寧さは深い祈りに似て、果実はそれに捧げられる供物として描かれているように見える。僕は畏れた。以前叔父が持っていた生活への無関心さとは違って、度を越した熱心さによる危うさを感じさせた。

様子を見ようと訪れた叔父の家は、想像以上に様変わりしていた。調度品は少ないながらも見事に整えられ、清められ、そこには荘厳な神殿の空気があった。視界を覆うように並んだ絵画を通して、あらゆる時間、あらゆる場所への扉が開かれている。その全てが彼女に捧げられたものだと分かった。

 それらに囲まれて、彼女はただ静かに座っている。それは神像の役割だ。その隣には描かれたばかりの果実が墓碑めいて立ち、色と香りを忘れまいとしていた。

「来たか」

叔父は僕の来訪を予期していたようだった。身体は痩せ、髪からも脂が抜け、その膚は黄みがかっていた。明らかに健康ではない。しかし弱々しく背中を丸めたりはせず、動作の端々からは異様な活力が感じられた。その浅い吐息には酒精が含まれ、叔父の生命が燃えて煙となって吐き出されているようにも思える。扉を開けた時から感じていた甘い香りは、果実や彼女だけでなく、叔父からも発散されているようだった。その手は今も果実を刻んでいる。

「やめなよ。死ぬよ」

「僕は」

叔父は乾いた唇を開いて言葉を押し出した。その声は酩酊を感じさせることなく、静かな力を湛えていた。

「僕はきっと探していたんだ。この愛を注ぐことのできる誰かを。そして出会った。もう後戻りはできないんだよ」

彼女に果実を与えることを言っているのだと分かった。この家のどこを見ても彼女への愛の大きさが分かる程であったが、その中でも果実は叔父にとって特別な重みがあるのだろう。しかし、それは叔父の命を蝕む。

「彼女に果物を与えること自体は別にいいよ。だけど、酒は明らかに飲み過ぎだよ。何も全部飲むことないだろ」

 なおも動き続ける叔父の手を掴んで止める。叔父の眼が僕をしっかりと捉えた。その奥にある愛の深さに、輝きに、僕は怯んだ。

「捧げた愛のしるしを棄てるつもりはない。僕は僕の愛そのものを愛おしく思う。それにきっと、愛の重みは自分自身で背負うべきものだ」

 愛の重みは他人へと向かう。しかし、彼女はその身に愛を受け、何ら感ずるところなく排泄する。そして、愛の重みは叔父自身へと戻っていく。叔父の愛は他人を潰すことがない。叔父は愛さない理由を失ったのだ。

愛に目覚めた叔父は以前のように生活に対して無関心ではなくなったが、そこには新たに、殉教者めいて愛のために死んでしまう覚悟が芽生えていた。

「僕は、叔父さんが死んだら寂しいよ」

その言葉には倫理や正しさなんてなくて、これは僕の感情に任せた泣き落としだった。被害者ぶって愛の重みを押し付ける言葉だということは分かっている。しかし、叔父は優しく微笑んだ。

「それでもお前は、僕の愛を祝福してくれるだろう?」

僕が我儘を言いつつも自分の勝手を押し通せないことを、叔父は知っていた。僕にはもう叔父を止める手が無かった。いや、手立てはあるが、それを選択しないことを、叔父も僕も分かっていた。僕は口を開いて、言葉を探した。何を言おうとしているのかは分からなかった。なおも叔父を引き留めようとしているのか、あるいは愛への賛辞と祝福の言葉か。結局、出てきたのはそのどちらでもなかった。

「少し、歩こう。彼女も連れて、少し散歩をしに行こう」

叔父を止めることはできないけれど、せめて今だけは、叔父がその愛に押し潰されていく様を見たくなかった。叔父も、この願いを聞き入れてくれた。

「分かった。支度をしている間に、玄関から車椅子を持ってきてくれないか。彼女を連れて歩く時はそれに乗せるようにしているんだ。強めに手を引いたり背中を押したりすれば歩いてはくれるけど、どうにも乱暴な感じがしてね」

 僕達は、冷たい風に備えてしっかり着込んで外へ出た。車椅子に乗せた彼女にも、お洒落な外套を着せていた。死者が寒さを感じることは無いし、そもそも体温が低いので外套を着せたところで温かくもならないが、これも愛の形なのだろう。

既に太陽の気配は去って、遠い宇宙の星々がその姿を見せていた。その世界の広大さはかつて想像することすら難しかったが、叔父の絵が幾多の時間と空間を繋ぎ合わせていたあの部屋に比べると、むしろ狭くて落ち着くほどだった。

力の衰えた叔父に代わって僕が彼女の車椅子を押して、僕達はしばらく無言で歩いていた。不意に、叔父が口を開いた。

「お前が気に病むことはない。僕の人生は僕が決めて、僕が責任を持つものだ」

 返事を求めている様子ではなかった。叔父の死が僕の重荷にならないように、言葉を残しているのだろう。僕の手を振り払っていくことに気が咎める部分もあるのか、釈明めいた響きもあった。

「生きていくのは楽しかったよ。正直なところ死ぬのは惜しい。でも、それがこの愛と引き換えになるというのなら、僕には選択肢なんて無いんだ。満足に誰をも愛することのない、山ほどの時間に僕は耐えられない」

 かつての叔父は、ただ気が付いたら生きていて、死ぬ理由も無いから生きているような人だった。その叔父が生きることを楽しいと言ったことが、僕には少し嬉しかった。叔父はその命に価値を感じなくなったから死ぬわけではないのだ。その変化を支えたのは、やはり彼女への愛なのだろう。感情には力があり、多くの人が囁くように、愛はその中でも強い力を秘めているらしい。ただ、強い力を持つことと、万人に良い結果をもたらすこととは別だ。愛は素晴らしいかもしれないが、叔父のそれは、一人の人間が背負うには重すぎる。

「彼女が来てから叔父さんは少し変わって、何て言うか、しっかり生きていくのかなって思ってた。子供ができた親みたいに」

 叔父の愛が取り返しのつかないほど深まる前に気付いていれば、何か変わったかも知れない。これは言い訳や懺悔に近かったけれど、僕はそんな後悔が声音に滲まないように気をつけた。今になって僕の苦い気持ちを伝えたところで結末は変わらず、叔父の心に影を落とすだけだ。それは僕の望むところではない。

「子供か。子供は僕には無理だよ」

 叔父は困ったように笑った。

「僕は誰かを幸せにする約束なんてできない。自分のことさえ定かでないのにね。誰かにそんな一生を押し付けてしまうのが怖かった。誰かを殺したら奪った未来に責任を持たないといけない。誰かを産んだら与えた未来に責任を持たないといけない」

人は他人の人生を歩むことはできず、できるのはただ支えることだけだ。子供の未来に責任を持てる親がどれほど居るだろう。けれど、責任を持つ能力が無くても、責任を持つ覚悟が無くても子供は産めてしまう。なるべく多くの親が、そういった覚悟を持っていることを祈った。

「冷えてきたね。そろそろ戻ろうか。お前が帰る時間も考えないといけないし」

 しばらく歩いた頃、叔父はそう言った。僕は戻りたくなかった。叔父の家に戻れば、叔父はまた果物を刻み酒を注いで、殉教の儀式に取り掛かることが分かっていた。無駄だと知りつつも、僕はそれを一秒でも二秒でも遅らせたかった。でも、結局は引き返した。

 叔父は死んでいく。僕はそれを受け入れた。それは彼女がきっかけではあったけれど、決して彼女のせいではない。彼女はただ死者として、そこにあっただけだ。そして、僕もまた彼女の影響を受けて変わったように思う。

「僕は善い人間になりたかったんだ。だから、従うべき明確な倫理が欲しかった。倫理は個人的な感覚ではなくて、客観的で共有できる善悪の指標であるべきだと思う。物事の善悪が論理的に判断できて、数値みたいに比較もできればもっと良い。正しい前提から正しい論理で導かれる結論は正しいから、最初の前提になる正しい倫理を探してた」

 僕はそれを過去の事として語った。

「でも駄目だね。結局は善い人間になりたいっていうのも欲のひとつで、僕のそれは最後には他の欲に負けてしまう」

 善い人間になりたいというのも、きっと自分を肯定し、承認するための手段に過ぎないのだろう。これは僕の挫折であった。

「お前は聖人じゃない。完璧でもないから、幾つも罪を重ねながら生きていくだろう。それでも、お前は良い子だよ」

 叔父の言葉は暗い預言であると同時に、赦しの言葉でもあった。これから僕は、自分が叔父の言うように良い子でいられているか問いながら、そして幾度も赦しを求めながら生きていくのだろう。僕はこの言葉を、この夜を忘れないように、一歩ずつ心に刻むように歩いた。

夜が深くなるにつれて、全ての輪郭が曖昧になっていく。曖昧になった部分を想像力が補って、見えていないということを隠していく。世界は本来の物の形を離れて、虚像が支配するようになる。

街灯の届かない建物の隅で影が走っていく。きっとそこには何も居ない。それは彼女の内に僕達が見るものの仲間なのだろう。様々に姿形を変えて幾度も顔を見せるけれど、どれほど追いかけても、決して捕まえることはできない。どうにか絵に閉じ込めたと思っても、そこに居るのは気が付けばよく似た偽物だ。

虚像の中を歩くうちに、宗教画の中に居るような気分になった。車椅子に乗った神と、そのそばを歩く殉教者。僕はそれらに仕える従者だ。これが最後の旅になると感じた。この短い旅が終われば、叔父と僕はもう会うことはないだろう。信仰と殉教の物語はそこで幕を閉じる。それでも、僕の人生は続いていく。

白い吐息を追って、空を仰ぎ見た。あの星々の輝きだって、ここに届くのは長い年月をかけて遥かな旅路を経た光で、本当の今の姿を僕は知らない。星座がそれらを線で繋いで、夜空をばらばらに分割していく。

叔父は流れ落ちていく星のようで、眩しく、儚く、美しかった。

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