【KAC8】いつもありがとう

「やった。やった……!!」


 人好奈子ひとよしなこはぴょんとちいさく飛びあがった。そわそわと行ったりきたり廊下をくるくると歩きまわる。捧げるように両手で握りしめているのは妊娠検査薬だ。


 ぜんさんと結婚して、もうすぐ三年になる。どちらのからだにも問題はみつからないのになかなか妊娠しなくて、最近は周囲――おもに親類縁者から寄せられる無神経なプレッシャーについふさぎこんでしまうこともふえていた。そんなタイミングでの陽性反応である。


 ――お、落ちつこう。落ちつくのよ、奈子。えっと……まずはなんだ。産婦人科。そう、産婦人科に行かなくっちゃ。


 善さんに知らせるのはそれからだ。



 *‐*‐*‐*‐*



「え、じゃあまだ人好さんには連絡してないの?」

「うん」

「なんで! まっさきに知らせなきゃだめじゃない。おめでたいことなのに」


 産婦人科から足をのばしてやってきたのは、中学時代からの親友である千井紗菜子ちいさなこが暮らす商店街の喫茶店だ。

 今では半分以上の店が閉店してしまっているシャッター商店街にあって、この喫茶店と紗菜子の実家である惣菜屋はしぶとく生き残っている。


「だから、よ。もうすぐ結婚記念日だから、その時に発表しようと思って」

「あー、なるほどぉ。そっかそっか、人好さんにはまだいえないけど、うれしくて黙ってらんないからここにきた、と」

「そうそう」


 受診の結果は、妊娠六週目だった。すぐに善さんに電話しようとして、はたと思いついた。結婚記念日までとっておこう、と。きっと、いちばんのプレゼントになる。


「じゃあ、コーヒーはやめたほうがいいかな。紅茶もカフェイン入ってるし……なに飲む? ジュース?」


 カウンターの中にいるのは、この店のマスターであり、紗菜子の幼なじみで恋人でもある見守忍みもりしのぶだ。奈子と紗菜子を『なこなこコンビ』と名付けた人でもある。


「ううん、コーヒーください。ちゃんと先生に聞いてきたから大丈夫。コーヒーも一日一、二杯なら飲んでもいいんですって。あ、でもいつもよりちょっと薄めにしてください」

「無理しなくていいんだよ?」

「無理じゃありませんよ。ここにきたら見守さんのコーヒーを飲まないとわたしの気がすまないの」

「そっか……ありがとう」


 ちょっとうれしそうにほほ笑んで、見守さんはハンドミルにコーヒー豆を手際よくセットしていく。カウンターに頬杖をついてその手元をにこにこと見ていた紗菜子が、ふと思い出したように奈子を振り返った。


「つわりとかは?」

「今んとこ特にない。いわれてみれば、ちょっとダルいかなぁーってくらい」

「そっかぁ……奈子もついにママかぁ」

「……うん。でもまだ、安定期に入るまでは安心できないからね」

「奈子の子だもん。大丈夫だよ」

「そうかな」

「そうだよ」


 コリコリと豆を挽きながら、見守さんが苦笑している。


「そこは人好さんもいれてやれよ」

「あ、そうか。うん。人好さんと奈子の子だからね! 大丈夫!!」


 律儀にいいなおす紗菜子に笑ってしまう。幼なじみという近すぎる距離感のせいで、ふたりがつきあうまでには言葉ではいいつくせない山やら谷やらがあった。


「そっちはどうなの?」


 奈子は結婚三周年だけど、じつはふたりも恋人になってまる三年なのだ。なにげなく聞いただけだったのだけど、ふたりはちょっと顔を見合わせて、それから紗菜子がちょっぴり姿勢を正した。


「ノブちゃんの誕生日に入籍しようと思ってる」


 フィルターをセットしたドリッパーに挽きたてのコーヒー粉をいれて、見守さんもうなずいた。


「その日でちょうど三年だから」


 ちょっと照れくさそうだ。


「それでね、奈子と人好さんに婚姻届の保証人頼みたいと思って、近いうちふたりでお願いに行くつもりだったの」


 一瞬思考が停止する。今得た情報が脳に浸透するまで数秒の時間をようした。――婚姻届。保証人。入籍。このふたりが……!! まじか……っ!!


「お」

「……お?」

「おめでとう!! やだ、もう、はやくいってよ!! 結婚式は? いつ? やるよね!?」

「お、落ちついて奈子」

「落ちついてなんていらんないわよ! あー、もう、そうかぁ……結婚かぁ……」


 コーヒー粉にお湯をしみこませるように、ゆっくりとドリッパーにそそぎながら、見守さんが口をひらいた。


「おおげさにやるつもりはないんだ。おれたちはふたりともこの商店街で育ったから。この近くの適当な場所で、家族と商店街の人たちと、ごく親しい友だちだけで簡単なパーティでもできればいいと思って、少しずつ準備してる」

「そのころには奈子のおなかもおっきくなってるねぇ、きっと」

「そのへんも考えて場所探そう」

「うん」


 ――ああ、どうしよう。うれしい。妊娠がわかっただけでもうれしいのに。なんか、いろいろうれしすぎて窒息しそうだ。



 *‐*‐*‐*‐*



 それから数日。


「ほ、ほんと? ほんとうにほんと? ど、ドッキリとかじゃなくて?」

「ふーん。善さんはわたしのこと、そんな意地悪なドッキリをしかけるような女だと思ってんだ。ふーん」

「ち、ち、ちがうよ! ちょっと驚きすぎただけで! ていうか、じゃ、じゃあ、安静にしないと。明日から、いやもう今日から家事とか買い物とかぜんぶぼくがやるから」

「いやいやいや、妊娠は病気じゃないからね? むしろ多少は動かないとだめなんだからね?」

「そ、そうなの?」

「そうなの」


 際限なく過保護になりそうな善さんである。想定内ではあったけど、やっぱり笑ってしまった。


 こんなにしあわせでいいのだろうか。


 三回目の結婚記念日。

 四回目にはきっと家族がふえている。


「あ、そうだ。紗菜と見守さん結婚するんだって」

「えっ、ほんとに?」

「うん。それで、婚姻届の保証人になってほしいって、近いうちこっちにくると思う」

「うわー、そうかー、とうとう結婚かぁ。あー、なんか、いろいろうれしすぎて窒息しそうだよ」


 その言葉のチョイスに思わず吹き出した。数日前の奈子とまったくおなじことをいっている。夫婦は長年一緒にいると似てくるというけれど、三年でこれか。


「あれ、なんか、すっごい笑われてる。どうしたの、奈子さん」

「ううん。いいの。うれしかっただけ」

「?」

「これからもよろしくね、善さん」

「こちらこそだよ。いつもありがとう奈子さん」




     (おわり)




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