【KAC7】はじめての朝

 ずっと、意識の外にいた人。だけど、家族より、友だちより、誰よりも近くにいた人。

 その人は文字通り、紗菜子さなこがこの世に『生まれた時』からそばにいた。商店街の喫茶店の息子で、惣菜屋に生まれた紗菜子とは兄妹のように育った。幼なじみの『お兄ちゃん』だと思っていた人。


 だけどその人は――ノブちゃんは、ちゃんと、男の人だった。


 それをはっきり意識したのは、彼――見守忍みもりしのぶが、紗菜子の不倫を精算すべく『恋人のフリ』をしてくれた時だ。

 不倫相手と相対したノブちゃんは、いつも紗菜子に見せるようなお兄ちゃんの顔ではない『男の人』の顔をしていた。


 酔いつぶれておんぶされたこともあるし、ふざけて抱きついたこともあるけど、それまでノブちゃん相手にドキドキしたことなんてなかったのに。

 一度意識してしまったらもうだめで、まともに顔を見ることもできなくなった。不倫女がなにいってんのって、今さら純情ぶったって、あんたがやってきたことが帳消しになるわけじゃないんだよって、もうひとりの自分が嘲笑わらうけど、だめなものはだめで、どうしようもなくて、苦しくて、今までみたいに話せないのがかなしくて、どうしたらいいのかわからなかった。


 ノブちゃんは『お兄ちゃん』なのに。自分は『不倫女』なのに。


 そう悩んでいた紗菜子の背中を押したのは中学時代からの親友だった。単純なことだ。現状を変えたいなら、紗菜子が勇気を出すしかない。



 *‐*‐*‐*‐*



 好きな人の誕生日は前日の夜からデートして、日付が変わった瞬間に『おめでとう』というのが夢――。そんな話をむかしノブちゃんにしたことがある。もしもノブちゃんがその話をおぼえていたら――誕生日前夜のデートに誘った時点で告白したも同然になる。

 だからもう、誘うだけで勇気をつかいはたしそうだったけれど、約束をとりつけられたことでなんとか回復して――その日がやってきた。


 夜間も営業している水族館に行って、ご飯を食べて、ぶらぶら歩いて、いつもの商店街に帰ってきたのは日付が変わる数分前。

 人通りのない深夜の商店街で、子どものころのようにつないでいた手がふっとはなされた。



 ……それだけで、わかってしまった。だって今日は、今この瞬間まで一度も『坊』とは呼ばなかったから。


「この前からずっと考えてた。ようやくわかったんだ。やっぱり、人の旦那盗るような女とはつきあえない」


 ――……ああ、やっぱり。そうだよね。わかってた。わかってたよ。


「もう店にもこないでくれ」


 自分の気持ちどころか、『おめでとう』もいわせてもらえなかった。


 ――これは、罰だ。身勝手なわたしへの罰。


 どうしてもっと早く気づかなかったんだろう。

 もう、とり返しつかないのかな。だめなのかな。

 幼なじみでいることも、できないのかな。


 ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――――



 *‐*‐*‐*‐*



「――な! さな……! 紗菜子!!」


 がくがくとからだを揺すられて、紗菜子はばちっと目を覚ました。目を覚ましたということはつまり眠っていたということで、じゃあ今まで見ていたのは――


「……ゆ、め」


 ぼう然とつぶやくと同時に視界がぼやけた。夢。夢か。

 一回、二回と、ゆっくりまばたくと、水滴がこめかみに流れてまくらに落ちた。視界がクリアになる。


「……そんなに怖い夢だったのか」

「……ノブちゃん……?」


 気づかわしげにのぞきこんでいるこの人は、はたして本物のノブちゃんだろうか。それとも、夢の中のノブちゃんだろうか。ほとんど無意識に、紗菜子は両手を伸ばして彼の首にぎゅうっと抱きついた。


 ――ああ、ノブちゃんだ。


 あったかくて、かたくて、細く見えるけど肩とか意外とがっしりしてる。その体温にほぐされて、涙がぶわっと目からあふれだした。


「ノブちゃん」

「うん」

「ノブちゃん」

「うん、こちらノブちゃんですよ」

「……きょう」

「うん?」

「きょう、ノブちゃん、たんじょう、び」

「うん」

「ひづけ、変わって、おめでとうって、わたし、いえた……?」

「……うん。いってくれたよ」

「ほんと……?」

「ほんと。……おぼえてないの?」

「ゆめ」

「うん?」

「ゆめで、いえなかった」

「ああ……なるほど。なんか、わかった」


 かすかに笑う気配がして、なだめるように、彼のおおきな手が紗菜子の背中をさする。


「夢の中のおれのせいで、そんなに泣いてるわけだ」

「うぅ……」

「いいよいいよ、無理にしゃべんな」



 *‐*‐*‐*‐*



 ひとしきり泣いてようやく少し落ちついてきたところで、紗菜子はとんでもないことに気づいてしまった。


 背中をさすってくれているノブちゃんの手のひらが。抱きついている胸やおなかにも、ノブちゃんが着ているTシャツがやはり。足にふれるシーツも、だ。


 これは……

 これは……

 どうすれば――!!


 今ノブちゃんからはなれれば、明るい朝日のもとにいろいろまる見えなわけで。だからってこのままずっと抱きついているわけにもいかない。


 ――……ああ、なんか、いろいろ思い出してきた。


 おめでとうっていって。ありがとうって返されて。プレゼントも渡して。そして、自分にはいう資格がないかもしれないけど、それでも「好き」って伝えたくて、だけど伝える前に「それは、おれから先にいわせて」って止められて。それから――いや、だめだ。この先を思い出したら、たぶん羞恥で死ねる。


 とにもかくにも、この状況である。ここがノブちゃんの住居(お店の二階)であることは確かだ。だからどうした――って情報である。ああ、もう! どうしよう!


「……紗菜」

「は、はい?」

「落ちついたんなら、おれ目つぶっとくから、服着ていいよ。ていうか、むしろ着てくれ。おれのために」

「そ、そうだよね。なんか、ごめん」


 昨夜脱ぎ散らかした服を手早く身につける。――なんか、なんか、空気がくすぐったい……! なんだろう、この気恥ずかしさは。というか……


 背中を向けているノブちゃんをチラリとうかがう。スウェットパンツとTシャツ一枚の気が抜けた姿であぐらをかいている。――わたしたち、ほんとうに……うわー、うわー、だめ! 思い出しちゃだめ……! からだに残ってる気だるさなんて感じちゃだめ――!!


「服着た?」

「き、着た」


 ノブちゃんの、見た目よりずっと広い背中からホッと力が抜けたのがわかった。まあ、そりゃあそうか。起き抜けに素っ裸で抱きつかれたらたまらないよね、きっと。


「今日、なにかしたいことあるか?」

「え、お店は?」

「休む。誕生日休暇」

「あ、そうだよ……! 誕生日なんだから、ノブちゃんのしたいことしようよ」

「そうすると、一日中ベッドから出らんないと思うけど、いいの?」

「……じゃ、じゃあ、ふつうのデートがしたい」

「ふつうのデート」

「そう。映画観たり、買い物したり、お茶飲んだり、ふつうのカップルがするような、ふつうのデートがしたい」

「わかった。じゃ、そうしよう」


 ニコッと笑ったついでのように、かぷっと唇をまれた。


「ちょ……」

「コーヒー淹れてくるよ」


 いうが早いかその姿はもう寝室のドアの向こうに消えている。――は、はやわざ……!!




 ――……どうしよう――しあわせだ。


 毎朝こんなことが続いたら、心臓が働きすぎて早死にするかもしれないけれど。こんな朝を、ずっと夢見ていたような気がする。目が覚めた時に好きな人がそこにいて、明るい中で笑いあって。だけどそれだけのことが、こんなにも……泣けるほどしあわせだなんて知らなかったよ。


 ほのかにただよってきたこうばしいコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。


 きっとこれから、何度でも思い出す。

 ふたりの、はじめての朝を。



     (おわり)



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