【KAC5】ルールはやぶるためにあるんです
インターホンを鳴らして数秒。マンションの玄関ドアがいきおいよくあけられた。
「
こちらが挨拶をする間もなく、伸びてきた両腕にむぎゅーっと抱きしめられる。顔が胸に押しつけられて苦しい。でもやわらかい、気持ちいい。そしていい匂いがする。
ぎゅうぎゅうとひとしきり抱きしめて満足したのか、ようやく解放された紗菜子は「ぷはあぁ」とおおきく息をついた。
「あがって!」
「……おじゃましまーす」
中学時代からの親友である奈子が、
ちなみに、紗菜子にとって兄のような存在である幼なじみの
「どう? 結婚生活は」
ダイニングテーブルで、紗菜子がおみやげに買ってきたショートケーキをぱくりと口にいれて、奈子は「んー」と首をかしげた。
「善さんがねー、まったくルール守らないの」
「へぇ、たとえば?」
「平日はわたしが食事つくる約束なのに、いっつも朝起きるとご飯できてるし」
「……ほー」
結婚を機に退職した奈子は現在、週に四日くらい近所の雑貨店でパートとして働いている。
「たいてい洗濯物もおわってるし」
「ほうほう」
溺愛されているらしい。
「それで、人好さんはなんて?」
「それがね! ものすっごいまじめな顔して『ルールはやぶるためにあるんだよ、奈子さん』なんていうのよ、もう!」
危うく口にふくんだ紅茶をふきだすところだった。あの
「でも、奈子がかなしむようなやぶりかたはしないんでしょ?」
「……まぁそう……かな」
遅くなるときはもちろん連絡くれるし、定時であがった時も帰る前に必ず連絡あるし、ゴミ出しもしてくれるし……と、ブツブツいいながら指折り数えている。
やっぱり、溺愛されている。
「しあわせなんだ」
「……うん……ていうか! 新婚三か月でしあわせじゃなかったら、そっちのほうが問題でしょ」
「あはは、そうだね」
「わたしのことより、紗菜はどうなのよ最近」
「あー、うん……」
遊びにおいでとずっと誘われていたのだけど、なかなか足が向かなかったのは、新婚家庭をたずねる勇気がなかった……というかなんというか。ほんとうは結婚式だって出ちゃいけなかったのではないか――とすら思うくらい、少しずつ少しずつ自分でも気づかないうちに積みかさなっていた罪悪感に押しつぶされて窒息しそうになっていたからだ。
二か月ほど前に、幼なじみのノブちゃんこと見守忍の前で大泣きしてしまって、その時ようやくそれを自覚した。
「わたし、不倫してたの」
「うん」
「……驚かないの?」
「うーん、なんとなく、そうじゃないかなーと思ってたから」
「ええぇ……うそぉ」
「うそじゃないよー。紗菜、わかりやすいもん。ていうか、不倫してた――ってことは、別れたのね?」
「うん」
「そっか、よかった……で、いいんだよね?」
「うん」
「そのわりには浮かない顔してる」
「うーん……」
別れたことに後悔はない。未練もない。別れられてよかったと思う。ただ、『(不倫相手の)顔を見てしまうと流されてしまう』という紗菜子のために、ノブちゃんがひと肌脱いでくれることになって――ひとことでいえば、紗菜子の『新しい恋人のフリ』をしてくれて、おかげで不倫相手とはスムーズに別れられたのだけど、それからなんだかおたがいにギクシャクしてしまうというか気まずいというか……もしかしたらそう思っているのは紗菜子だけかもしれないのだけど、とにかくどうにも今までみたいに気安く話せなくなってしまったのである。
「なるほど」
――……ん? 気のせいか、奈子がニヤニヤしている。
「そっかー、見守さんにしてはがんばったねぇ」
納得したようにうんうんとうなずく。
「ねえ、ぶっちゃけ紗菜は見守さんのことどう思ってんの?」
「……へ?」
「好き? 嫌い? どうでもいい?」
「え、え?」
「まあ、嫌いなわけないよね。それに、これまでみたいに話せないって悩んでる時点で、どうでもよくもないよね」
それは、うん、そのとおりだ。
「じゃあ、男性としてはどう?」
「……そんなの考えたことない」
「うそ。少なくとも今は考えてる。そうじゃなきゃ『気まずい』なんて感じないよ」
「……むー」
反論できない。
「でも、ノブちゃんはやっぱり『お兄ちゃん』だから」
「そんなの、誰がきめたの?」
「誰って」
「血がつながってるわけじゃない。ただちょっと年上なだけ。しかもたった五歳! 五歳よ? 五十五歳じゃないのよ!? 五歳なんて、そんなの年の差に入らないっての」
……五十五歳はなれているのは、人好さんのお
「いい、紗菜。ルールはやぶるためにあるの」
「ええぇぇ……」
「だいたいね、『お兄ちゃん』なんて、あなたが勝手につくった自分ルールじゃない。そんな誰のためにもならないようなルール、今すぐやぶりすてればいいのよ」
なんか、奈子に変なスイッチが入ってしまった。でも、そういえばノブちゃんが紗菜子のことを『妹』といったことは一度もなかった……かもしれない。いつも紗菜子のほうが、『お兄ちゃんみたいなもの』と、まるで予防線でも張るようにいっていたような気がする。
「こうなったら正直にいうけどね、紗菜」
「う、うん?」
「わたしはずーっと、それこそ高校生くらいのころからずうぅうーっと、こいつらさっさとくっつかないかなあーと思ってたの」
「ええぇ……まじですか」
「まじですよ」
――……そうなのか。ぜんぜん気づかなかった。
「ね、冗談じゃなくさ、ちゃんと考えてみなよ、自分の気持ちと見守さんのこと。ね?」
「……うん」
「約束?」
「約束」
うなずいた瞬間、いつのまにか立ちあがっていた奈子にまたもやむぎゅーっと抱きしめられる。
――今日……これから会いに行ってみようかな。ノブちゃんに。
(おわり)
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