【KAC4】紙とペンと彼の叔父さん

 マンションの玄関をあけた瞬間、人好奈子ひとよしなこは思わず悲鳴をあげた。買物袋がドサリと落ちる。


ぜんさん! 善さん――!!」


 夫の善さんがリビングからひょっこりと顔を出した。じつにのんきな、平和そのものみたいな顔をして。


「あ、奈子さん。おかえり」

「ただいま。じゃなくて! どうしたの、これ!」


 廊下にちらばる、新聞紙にコピー用紙にチラシに――とにかく紙、紙、紙、紙だらけである。まさに足の踏み場もない。


「ああ、ごめんごめん。ちょっと探しものをしていて……」

「探しもの……」


 ――なんだ。探しものか。


 どうやら、古紙回収に出そうとまとめておいたものをぜんぶばらしてしまったようだ。急に力が抜けて、奈子はへなへなと玄関に座りこんだ。


「えっ、奈子さん! どうし……うわっ」


 ツルツルのチラシに足をすべらせた善さんがすってーんと尻もちをつく。マンガでもなかなかみかけない、見事な転びっぷりである。痛がりながらもすぐにからだを起こして、今度は四つん這いで玄関までやってきた。


「どうしたの、奈子さん。イタタ……」

「どうもこうも……強盗かなにかはいったのかと思った」

「なんだ、心配性だな」


 善さんはそう笑うけれど、奈子の心配は根拠のないものではない。なにしろ彼の実家はとんでもないお金持ちなのだ。お金持ちはそれだけで狙われる可能性が高まる。それに一代で財を成したというお祖父じいさまは、今でこそ人畜無害に見える好々爺だけども、きれいごとだけでそんな資産をきずけるはずもなし、それなりにうらんでいる人間がいたっておかしくないのだ。

 なにかのきっかけで、そういう人間のうらみスイッチがはいってしまったら、孫の善さんが狙われる可能性だって十分あるじゃないか。ただでさえ物騒な事件が多い世の中だ。心配にもなる。……まぁ、きのう見たドラマがそんな内容(資産家の家族が次々に襲われるミステリー)だったからかもしれないけど。


「でもごめんね、すぐかたづけるから」

「なに探してたの?」

「ああ、この前届いた叔父さんからのエアメール。雑誌にはさまってた。よかったよ、回収出す前に気がついて」

「みつかったんだ」

「うん」


 善さんの叔父さんは、『おれはペンで世界と戦うんだ!』とかなんとかわけのわからないことをいって家を飛び出し、世界を放浪しているらしい。本人はジャーナリストのつもりらしいけれど、彼の記事がどこかに掲載されたという話は聞いたことがない。

 どんな一族にもひとりはいるよね――というタイプの風来坊で鼻つまみ者であるが、善さんはこの叔父さんを慕っていた。 

 高校進学のお祝いにもらったという万年筆は十年以上たった今も大切につかっているし、叔父さんのほうも帰国すれば必ず会いにくる。そして、旅先から気まぐれにふいと送ってよこしたりするエアメールも、こんなふうに家の中をめちゃくちゃにしてまでも探してしまうくらい大切にしているのだ。


「よかったね」

「うん」


 ――うれしそうな顔しちゃって。……べつに、妬いてなんかいない。


 とりあえず靴を脱いで、善さんと一緒にそこらじゅうにばらまかれている大量の紙を回収していく。


 お祖父さまの奥さんであるはなさんは、善さんの中学時代の同級生だ。自宅の敷地内にフクロウ博物館をつくってしまうくらいお祖父さまはフクロウが好きで、華さんもそれに負けず劣らずフクロウ愛が強い。フクロウが結んだといってもいい年の差夫婦であるが、善さんにとって華さんは初恋の人でもあって、当時はそうとう悩んだらしい。それはそうだろう。五十五歳差だ。まさか祖父に初恋を奪われるなんて想像すらできなかっただろう。

 そんな、いちばん苦しかった時に彼の気持ちによりそってくれたのは、ひとつ屋根の下に暮らしていた両親ではなく、ふらふらと行方のさだまらない風来坊の叔父さんだったのだという。


 ――うらみごとでもグチでもなんでもいいから、思ったことぜんぶ紙に書いてみろ。で、書いたらやぶいて捨てちまえ。

 うらみつらみはな、後生大事に抱えてると、そこから腐りはじめてそのうち健康なとこまでぜんぶ腐らせちまうんだ。だから、しまうな。ぜんぶ出しちまえ。んで、やぶいてまるめて捨てちまえ。


 ――叔父さんがいなかったら、ぼくはじいちゃんをうらんで、高嶺さん(華さんの旧姓)を憎んで、腐っていじけて、奈子さんと出会うこともできなかったかもしれない。と、それはもうことこまかに、赤裸々に過去を語ってくれたのだけど、どうやらそれは奈子に叔父さんを嫌ってほしくなかったから――らしい。いったいどんだけ叔父さん好きなの――!? と、思いっきり叫んだのはいうまでもない。


 でも、奈子もこの叔父さんには感謝しているのだ、いちおう。

 善さんが、いじけずひがまず、お祖父さんと華さんを祝福できるようになったのも、奈子にまっすぐな愛情をそそいでくれるのも、彼の心が健康であるからこそで、それはたぶん叔父さんのおかげなんだろうから。

 苦しんでいた善さんを、叔父さんは紙とペンで救ってくれた。感謝している。……いますとも。


「あ、あれ? 奈子さん、なんか怒ってる?」


 どうやら、顔がふてくされているらしい。


「怒ってないよー」

「え、いや、怒ってるよね?」

「怒ってませんー」


 ――うらみつらみは書いてやぶいて捨てちまえ……か。わたしも実践してみようかな。


「あ……もしかしてやきもち」

「じゃない!」


 夜中に、白い紙に真っ黒いペンでキュッキュッと書くのだ。

 叔父さんのバカー!! 善さんのバカー!! と。

 想像したら、なんかたのしくなってきた。


「……かわいいなぁ、奈子さん」

「……妬いてないってば」

「はいはい」


 ……だから、ちがうってば。


 善さんがさっきよりうれしそうだとか、『かわいい』に反応したとか、けっしてそういうことじゃないから。断じてちがうから――!




     (おわり)


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