【KAC3】失恋したいんです
土曜の夕暮れ時。ドアがひらいて、チリンチリンとカウベルが鳴った。
「お? さな坊。ひさしぶりだな」
「ちょっと! うら若き乙女に向かって坊はないでしょ! いい加減やめてよ、もう」
「はいはい乙女坊」
「もー」
ぷりぷり頬をふくらませて、カウンターのスツールによじのぼる。……いや、さすがによじのぼるはいいすぎだけども、なにしろこの自称乙女の
「なんか食うか?」
「いらない」
「……いちおうここ喫茶店なんだが」
「いまにもつぶれそうな、でしょ」
「うっさいわ」
「吐きそうなくらい苦いコーヒーちょうだい」
「……なんだ、失恋でもしたか」
コーヒーミルに豆をセットしながら
この喫茶店と惣菜屋は、半分以上の店が閉店してしまっているこのシャッター商店街での数少ない生き残りである。
「そう! 失恋! したいのよ!」
「……うん? 失恋した……のまちがい」
「じゃない! 失恋したいのよ、わたしは!」
「えーっと、ごめん、意味わかんない」
「だから、別れたいの! 不倫なんて不毛な恋、おわりにしたいの! だけど、顔見ちゃうとダメなの。流されちゃうの。口うまいのあの人」
うわーん! と、カウンターにつっぷして、紗菜子は子どもみたいに泣きだしてしまった。……これはいったいどうすれば。
不倫相手と急に別れる気になったのは、たぶん彼女の親友である
小柄な紗菜子と、すらりと背の高い奈子。忍は『なこなこコンビ』と呼んでいた。
この場合さいわいというべきか、客は紗菜子だけである。とりあえず忍はカウンターを出て、店のドアにClosedの看板をかけた。
紗菜子はまだわんわん泣いている。これは、コーヒーより紅茶――ロイヤルミルクティーかなと、忍はカウンターの中に戻った。
熱湯で茶葉をひらかせ、手鍋にいれたミルクと水を火にかける。沸騰直前に、ひらかせておいた茶葉をいれて火をとめた。軽くかきまぜ蒸らしているうちに、どうやら紗菜子もすこし落ちついてきたようだ。
「なあ、さな坊」
「……坊じゃない」
「……紗菜ちゃん」
「なに」
「ほんとうに、本気で別れたいんだな?」
「うん。ほんとうに、本気だよ。もう、イヤなんだよ」
あたためておいたカップに、茶こしをつかってそそぐ。仕上げにハチミツをたらして、そっと紗菜子のまえに置いた。
「なら、おれが一緒に行ってやる」
「……へ?」
不倫なんて、ほんとうはずっとやめさせたかった。だけど、やめろといえばいうほどムキになってしまう紗菜子の性格を熟知しているからこそ、これまでいえなかったのだ。
「おれとつきあってることにすればいい」
「そん」
「あっちは妻子持ち、こっちは独身。文句いわれるすじあいないし、それでもごちゃごちゃいうようなら奥さんにバラすとでもいってやればいい」
「や、ちょ」
「なにもほんとうにつきあうわけじゃない。フリをすればいいだけだ」
ぽかんと紗菜子のちいさな口があいてしまった。
「……そっか。ノブちゃんも男の人だった」
「…………」
なんか今、すごくおかしなセリフが聞こえたような気がするんだが。
「あ、ちがうよ、そうじゃなくて……なんか、ノブちゃんのことそういう目で見たことなかったから……」
――……そのためにおれがどんだけ努力してきたと思ってんだ。
「そうか……ノブちゃんとわたしがつきあっても、おかしくないんだ……」
しみじみいうな。――ダメだ。とうぶん立ち直れないかもしれない。
紗菜子はカップを包みこむように両手をそえて、ふーふーと息を吹きかける。猫舌なのだ。
「……ノブちゃん」
「……なんだよ」
「ほんとにいいの? いやじゃない? フリでもわたしの恋人になるなんて」
「そういう自虐いらないから」
「だって」
「いやなら最初っからこんな提案しねーよ」
「……ふ」
「……ふ?」
とまったと思った涙がまたポタポタと目から落ちて、ふぇーんとふたたび泣きだしてしまった。
「ノブちゃんのばかあぁー!」
――……おれのせいなのか、これ。まあ、いいや。どうやら今度のは苦しい涙じゃないみたいだし。ここまであけっぴろげに泣かれると、いっそすがすがしい。
「一緒に行くか?」
「……いぐ」
「よし。じゃ、好きなだけ泣け」
――そのあいだに、ミルクティーでもいれなおすか。それとも、とびっきり甘いカフェオレでもいれてやるか。
「……ノブちゃん」
「ん?」
「……ありがと」
「……うん」
(おわり)
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