創世記:マズローグ
@toggleani
スラム
──この世界はMが支配している。
ダウンタウンの売店で、昼食の支払いを左手首に装着したウォレットリングで行いながら、ジャンは思った。Mとはこの世界の通貨単位の通称。正式名称であるMeme(ミーム)の頭文字をとってM。
ジャンが購入したのは、ニュートリションバーと水。これは彼にとって1日に摂取するべき最低限の食料だった。それでも、しめて800Mになる。日当が高々2000Mの彼にとってはバカにならない出費であった。
ウォレットリングの残高は12000M。30000Mの家賃を払った後とはいえ、これが自分の全財産かと思うと正直心もとない。
何か、うっかり中級以上の違反を起こしたが最後、残高がゼロ以下になり確実に“下”に落とされる。
しかし、幸運にも彼は違反による罰金を払うことが滅多にない立場にあった。下級とはいえ、政府公認の治安維持部隊・コレポリーの隊員だったのだ。コレポリーとはバベル内の治安秩序を一手に担う組織である。
バベル。西暦2819年の現在、人類唯一の居住区域とされる超大型建造物。今から400年ほど前から、地球の汚染環境はほとんど全ての生物にとって深刻なレベルに達していた。そんな折、人類は居住区域を外界から完全に遮断し、かつ循環可能なエコシステムを保持するバベル内に限定する事によって快適な住環境を確保する事に成功したという。
バベルは五つの階層から構成されている。
下から、第一階層”ガベージ” 。文字通りゴミ溜め(Gabage)の無法地帯。治安維持組織の管轄外で、暴力が支配している。人々は集落を作り、非文明的な生活をしている。ウォレットリングの数値が一定期間以上0以下の人間は破産したとみなされ、もれなくここに落とされる。
第二階層”スラム” 。ジャンが暮らしているエリア。貧困街の様相を呈している。住人の多くは肉体労働で生計を建てるが貧しい。ただ、治安維持部隊の存在や密告制度が機能しているため表向きの治安はそんなに悪くない。
第三階層"エステート”。多くの住民はオフィス街とベッドタウンを行き来する生活をしている。生活水準が高い反面、生活コストも高い。エステートに住んでるというだけで、スラムの人間からは羨望の眼差しを受けることになる。
第四階層、”ポリス” 。下の階層への税金等の政策を担う人間が住む、区域。ここから上の階層は特権階級以外は立ち入ることすらできない。
第五階層、”ヘブン”。塔の創造主が住むと言われているエリア。今だかつてここから降りてきた者がおらず、謎に包まれている。
と、バベルの概要を彼は幼少期に母親から聞かされていた。
これが快適な住環境ねえ。と、錆びた鉄クズによって構成された殺風景な街の景観を眺めながら、ジャンは思う。歩いている人間は、どこか陰鬱な影を帯びているか、おかしな薬をやっているとしか思えない連中かの二択だった。日中にも関わらず、辺りは薄暗い。このことも、街の悲壮感を強調するのに一役買っていた。エステート以下の階層は日光がほぼ差し込まないので、街灯だけが人々を照らしていたのだった。
「どうした、今日のランチはまた随分と質素じゃん?」
味気ないニュートリションバーをかじっていると、背後から、同僚のカズオが声をかけてきた。若くして(と言っても、ここでは平均寿命が40歳前後なのでジャンの母親が特別短命というわけではなかったが)母親を失くしているジャンにとっては心を許せる唯一の人間であった。カズオはジャンと同時期に入隊したのだが、持ち前の頭脳と要領の良さで、組織内でメキメキ頭角を表し、同期で一番出世が早く、最年少で部隊長になるのも間近だと皆が噂するほどだった。
「ちょっと、今月の寮費払ったばかりで苦しくてさ……」
「そっか。じゃあ、俺のエナジーグミやるから元気出せよ!」
エナジーグミは子供向けのゼラチン質の菓子だったが、ジャンの好物だった。
「おお、ありがとう、カズオ!けど給料入ったら絶対返すから」
「そっか。じゃ貸しってことで。菓子だけに」
「ギャグセンスないのがカズオの唯一の欠点だな」
「うるせーよ」
ジャンは、スラムの人間にしては珍しく生まれてこのかた借りたものを返さなかったことがない。それは能天気なジャンが持つ数少ないポリシーの一つであった。
黄金色のグミを一粒自らの口に放り込む。
「これでなんとか夜勤も頑張れそうだ。ホント、ありがとう」
「まあ、気にすんなって。あ、てか、代わりと言っちゃなんだけど、お前が持ってるテトラのカード、俺のラッセルと交換しね?」
「カズオ、悪い。それは流石に無理だ。この戦いの女神は俺にとってはお守りみたいなもんだからな」
ジャンは懐からテトラのカードを取り出して言う。このカードは、スタジアムで剣闘を繰り広げる戦士のプロマイドで、運営組織が公式で発売しているものだった。スラムの人間はバベル内において唯一最大の娯楽であるこの剣闘に誰もが夢中になっており、そのカードも非常に人気があった。
「お前、それ持ち歩いてんのかよ。気持ち悪いな。……でも、ラッセルの方が断然人気あるぜ。何せ、史上最強の剣闘士で、今じゃ四騎士の一角だからな。男なら誰だって憧れちまう。テトラなんて、ちょっと前にポッと出てきて、ちょっとの間活躍したかと思えば、なんの前触れもなく消えちゃってさ。お前が、なんでそんなに思い入れがあるか正直わからんね、俺は」
「まあ、愛だな。……てか逆に、お前はなんでテトラ欲しいんだよ?」
「……愛だな」
二人はおかしくなり、顔を見合わせて笑い合う。
「俺、夜勤あるから帰って休むわ。じゃ、またな」
そう言って、ジャンはその場を後にする。
ジャンの自宅は、ダウンタウンにほど近い区域に位置するコレポリー隊員の寮の一室であった。一人用のベッドと、小さな机が置いてあるだけの質素で狭い部屋である。夜勤まで三時間ほど仮眠を取ろうと、腰に下げているザップガンを机に置き、床に就いた。
ガタガタという物音で目を覚ます。二時間半ほど寝ただろうか。目を開け、ドアの方を見やると、人影がまさに部屋から外に出て行くところであった。
緊急事態に先ほどまで停止していた脳も一気に覚醒し、飛び起きる。しかし、人影はすでに部屋を出て、廊下を駆けている。まさか、コレポリーの宿舎に忍び込むような奴がいるとは。そもそも部屋の鍵は、個人のウォレットリングでのみ開錠する仕組みであったので、部外者があのように静かに侵入することなど不可能なはずであった。いの一番にジャンは机を見やる。ザップガンがない。
ジャンの秘密鍵によるロックがかかっているとはいえ、バベル内で厳密に流通が制限されている銃器を盗られたとなると非常にまずいことになる。具体的には、脱退処分が命じられ、そのままカベージ落ちなんてことも十分ありうる。ジャンは物凄い勢いで部屋を飛び出した。
目の端で、侵入者が廊下の窓から飛び降りているところを捉える。
絶対逃すわけには行かない。
そこは宿舎の4階であったが、ジャンは侵入者を追って、決死の覚悟で窓から飛び降りた。着地する際に物凄い衝撃が足から伝ってきたが、アドレナリンが分泌されていたせいか痛みはなかった。ジャンは、足音のする方角へ思い切り走った。
ジャンは足の速さに関してはかなりの自信があった。ポレコリーの入隊試験において短距離走では、自分の代では一位の記録を持っていたし、生まれてこのかた年上を合わせても自分より俊敏な人間にはお目にかかったことがなかった。
侵入者もなかなかすばしっこい奴のようだったが、徐々に距離を詰めて行く。標準生活時間をすぎていたため、あたりは街灯がほとんど消え暗かったが、ジャンにはこの辺り一体の土地勘があった。
侵入者が正攻法での逃げ切りを諦め、裏路地に入ったところで、ジャンはしめたと思った。
馬鹿め、そこは袋小路だ。勝利を確信したジャンは、走る速度を緩め、息を整えながら、隙を作らないように注意しながら、その裏路地をライトで照らした。
が、そこには誰もいない。いや、地面に小さな人影はある。
上か。そう気づいたのも束の間、侵入者に背後に回られ、首筋に強力な手刀をお見舞いされていた。
「クソッ」
ジャンは意識が飛びそうなところをなんとか堪え、侵入者の肩を掴んだ。
しかし、
「あ、まだ意識あるんだ。やるじゃん」
そう言って、侵入者はもう一発、今度は強力な右ストレートをジャンの顎に正確にヒットさせた。その高い声から、侵入者が女であることに気づいたジャンであったが、そんな思考もろとも、その一撃はジャンの意識を彼方へと飛ばしてしまった。
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