第31話

 県大会当日、明朝。

 俺はお袋と婆ちゃんに見送られて家を出た。自転車で県民音楽堂へと向かう。俺たち光方高校合唱部は、大石先生を含めても七人しかいないから、現地集合ということになったのだ。


 到着してから、駐輪所に自転車を預ける。喉に手を当てながらハミングしてみたが、どうやら調子はいいようだ。スマホを見ると、新規メッセージは届いていない。時刻は午前八時を示している。まだ早いが、音楽堂のエントランスにでも行っておくか。


「おーい、啓介くん!」


 声のした方を見ると、俺よりも先に蓮が到着していた。俺は片手を挙げながら足早に近づき、『あんまり大声を出すなよ』と告げておいた。当然、喉に負荷をかけないようにするためだ。

 俺は小声で、蓮に尋ねた。


「他の皆は?」

「多分そのうち――」


 と言いかけたところで、背後から肩を叩かれた。


「あ、哲司と幸之助先輩、お疲れ様っす」

「只今参上!」

「うむ!」


 二人は電車組だ。簡単な挨拶を交わしている間に、奈央の姿が視界に入った。


「おはよう、奈央。調子はどうだ?」

「お陰様で、上々です」


 相変わらず不愛想な顔つきだが、背後からは今日の演奏に懸ける気迫が立ち上っていた。


「凛子は? 今日は来られるんだろ?」

「ええ。間違いありません」


 などと話し合っている間に、目の前の駐車場に何台ものバスが滑り込んできた。他校の合唱部員たちを運んできたのだ。それに混じって、見覚えのある大型乗用車が視界に入ってくる。


「おっはよー、皆!」


 案の定、大石先生だった。


「昨日はよく眠れたかしらん?」


 哲司や幸之助は、自分の健在ぶりをアピールした。二人共、ちょんまげとマントをそれぞれ装備している。俺と奈央はぐっと頷き、蓮もまたそれに倣った。


「凛子ちゃん、まだなのね?」

「はい。私たちが早すぎたのでしょうけれど」


 と、奈央が淡々と述べた直後のこと。


「おはようございまーす!」


 威勢のいい声が、駐車場に響き渡った。振り返ると、小柄な人影が小走りでやって来るところだった。

 それが誰なのか? 太陽光線の逆光で、その人物の輪郭を捉えることができない。が、あの声を聞き間違えるはずがない。


「凛子!」


 俺はいつの間にか、その人影に向かって駆けだしていた。


「お前、もう大丈夫なのか?」

「はい! 先輩のお陰です!」


 いや、それは違うだろう。風邪薬とネギと自身の免疫力のお陰だ。


「さて、全員揃ったわね! それじゃ、最後の練習場に行きますか!」


 くるりと振り返った先生の後に続き、俺たちは音楽堂のエントランスに足を踏み入れた。


         ※


「光方高校の皆さん、こちらが控室になります。この扉が閉まったら、音を出しても構いません。それでは」


 会場スタッフに案内されたのは、十畳ほどの小振りなホール。学校の会議室より狭いが、特に支障はない。残るは微調整のみ、しかも小声で行われる。

 俺たちの演奏は、午前の部の最後だ。今からイメトレや精神統一を行っても、早すぎるということはあるまい。


 凛子の声は、先日まで風邪で寝込んでいたとは思えないほど透き通っていた。芯があり、しかも柔らかさがある。

 至極簡単な確認作業の後、先生はその大きな胸を張ってこう言った。


「じゃあ、一人一人決意表明をしてみようか! 蓮くんから!」

「え?」


 驚いたのは蓮だけではなかった。というか、部員全員だろう。しかし、蓮は慌てることなく、落ち着いた様子で咳ばらいをし、語りだした。


「えっと、僕は勉強と部活の両立が苦で、皆にだいぶ迷惑をかけてしまったと思います。でも、今こうしてここにいられることが、とても嬉しいです。今日のトップテノールは任せといてください!」


 お辞儀をする蓮に向かい、誰からともなく拍手が浴びせられる。すると、哲司がずいっと前に出た。


「拙者、皆との交流を円滑にすべく、やれることをやってみた所存でござる。それがどれほどこの部に貢献することになったのか、それは分かりませぬ。が、少なくとも悔いのない生活を送れたでござる! 本番よろしく!」


 ん? ああ、パート的には俺の番か。


「んーっと、上手い言葉がみつからないんすけど……。俺たち、なんだかんだ言って、随分中身のある青春を送ってたんじゃないかと思います。苦労もしたけど、今は自分のパートがバリトンでよかったと実感してます!」


 拍手の間を置いて、幸之助が語りだす。


「うむ! 歴戦の猛者共よ、よくぞ申した! 我輩がこの世界に君臨し、歌唱を通して日々を楽しく過ごせたのも、諸君ら臣下のお陰である! 倉敷幸之助、心中より礼を申し述べる所存である!」


 さて、次は新入生の番だな。案の定、凛子が勢いよく手を挙げた。


「はいはーい! あたし、このメンバーで歌うことができて、本当によかったです! 一人が欠けてもいけない、っていうポリシー、あたしは大好きです! 何部に入るか迷った時期もあったけど、やっぱりあたしには、皆さんとのお付き合いが一番楽しかっただろうな、と思います! 本番、頑張りましょう!」


 俺は士気が上がった、というよりも安堵した。この状態の凛子なら、風邪を引く前よりも高い、いや、今までで最高のパフォーマンスを見せてくれるかもしれない。


 最後に口を開いたのは、奈央だった。


「皆さん、本当に今までお疲れ様でした。と、申し上げたいのですが、私は県大会で終わるような演奏をするつもりは全くありません。今日は飽くまで通過点です。私たちの本気、この世に轟かせてやりましょう」


 今度ばかりは、拍手が起きなかった。皆、緊張と興奮がごちゃ混ぜになって、それどころではなかったのだ。

 すると意外なことに、奈央はたまたま隣にいた俺の腕を小突いてきた。


「な、何だ?」

「いえ。何故か静まり返ってしまったので。啓介先輩を叩けば、何かネタが出てくるかと」

「俺はガチャポンじゃねえ!」

「あーっ! 奈央ちゃんずるい! あたしも先輩と遊びたい!」

「ぶふっ!」


 凛子の言葉に、思わず噴き出してしまう。顔を上げると、哲司と幸之助が不穏な目で俺を睨んでいた。また『両手に華』扱いか。

 

「はい! 緊張が解けたところで、皆行くわよ!」


 先生が拳を突き上げる。そうか。凛子によって場の雰囲気をぶち壊し、緊張感をなくすために、奈央と先生は俺を生贄にしたのか。とんだ策士である。

 先生から一拍遅れて皆が、二拍遅れて俺が腕を掲げる。先生は腰に腕を当て、大きく頷いた。


 まさに次の瞬間のこと。


「光方高校の皆さん、次です! 舞台袖に移動してください!」


 と、会場スタッフが伝えてくれた。こまめに時計は確認していたが、あと十分後には舞台に立つことになっているとは。俺は深呼吸をして、パチンと自分の両頬を叩いた。


         ※


 それは、不思議な体験だった。

 どこまでも続く雲の上を滑り、両腕を広げているような。

 凪いだ海面を割って、穏やかな水圧に包まれているような。

 柔らかい地面から顔を出して、日光に顔を照らされているような。


 それらに共通しているのは、暖かいという感覚だ。

 仲間がいる。歌がある。その先に――とても陳腐な言葉だけれど――感動がある。


 ああ、そうだ。お袋と婆ちゃんは観に来てくれているんだったな。日頃世話ばっかりかけてるけど、少しは俺の声で、孝行できているといいな。


 そんなことを考えている間に、俺たちの演奏は終わっていた。万雷の拍手が、俺たちを優しく共鳴させる。

 他者と感動を共有したい、そして伝えたいという気持ちの一片は、ホールにいる観客も受け入れてくれたのかもしれない。


 綺麗にお辞儀をした先生に続き、俺たちは来た時とは反対側の舞台袖へ、ゆっくりと歩んでいった。

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