第30話

 ずるっ、と何かが滑る音がして、同時に俺の片足が止まった。否、引き留められた。

 ゆっくりと、腰を捻って後ろを見る。そこには、ベッドから半身を乗り出した凛子がいた。荒い呼吸のまま、床にへばり付いて俺のスラックスの裾を握っている。


 俺は確かに、スラックスの繊維がミシリ、と千切れかかる音を聞いた。今の凛子の身体のどこに、そんな力が残っていたのだろう。俺は、以前凛子を引き留めるために、思いっきり腕を握りしめた時のことを思い出した。


「いか……で……」


 凛子は何かを伝えようとしている。俺はごくりと唾を飲んで、聴力に意識を集中した。


「行かないで、先輩」


 今の凛子に、顔を上げるだけの余力はないらしい。辛うじて呟きが聞こえるだけだ。だが、そこに込められた思いの強さは、先ほどの腕の強さとして現れている。

 俺はしゃがみ込み、そっと凛子の手を握った。その細くて白い指を、一本一本、スラックスから外していく。

 その作業は、思いの外すぐに終わった。その時にはもう、凛子の腕は脱力していたのだ。代わりに両腕を床に着き、今度こそ凛子は顔を上げ、振り返った俺と目を合わせた。下半身もベッドから落ち、床にへたり込む格好になる。


 その時の、凛子の潤んだ瞳――以前から俺を惹きつけてやまなかった、純粋で深く、広い瞳。俺は魔法にかけられたように、視線を逸らすことができなくなった。


「私、本番では歌えます」


 普通なら、無茶を言うなとでも言い返すところだ。しかし、俺にはそれができない。合宿の時、俺はバリトンをいう難しいパートを担当しながら、なんとか皆について行こうと必死だった。

 きっと、今の凛子も同じ心境なのかもしれない。そう思えば、誰が彼女を責められるだろうか。いつの間にか、昨夜の怒りは霧散していた。


「お願いします、啓介先輩。私を県大会へ連れて行ってください」


 じっとりとした汗がうなじに浮かぶのを感じる。蒸し暑いのとは別な原因で。それは、瞬く間に俺の肩甲骨を越え、背中を滑っていった。


「分かった」


 俺はようやく、口を利くことができた。先ほどとは打って変わって、その声には重苦しさはこもっていない。

 凛子の目が見開かれる。彼女を前に、俺はこう言った。


「ただし、風邪は完璧に治すんだ。今は休んでくれ」


 それ以外に、一体何が言えただろう? キザな台詞のストックは、生憎俺のような朴念仁には搭載されていない。

 俺はぽん、と凛子の頭に手を載せて、すぐに立ち上がった。振り返って、鞄を拾い上げる。そして、退室への一歩を踏み出す。その時だった。


 背中が、柔らかい感覚に包まれた。それが凛子の身体であり、つまり俺は背後から彼女に抱き着かれたのだと理解するまで、しばしの時間を要した。


「りん……こ……?」

「ごめんなさい、先輩。本当だったら、先輩に抱きしめてもらうのを待ってなくちゃいけないんですけど」

「あ、ああ、いや」


 凛子の額が、俺の背中に押し当てられる。彼女の髪の香りが、ふわり、と俺の嗅覚を惑わせる。


「約束、破っちゃいました」


 ん? どういう意味だ? ああ、そうか。


「それは違うんじゃないか、凛子」

「え……?」

「約束したのは、県大会を突破できたら、俺がお前を抱き締める、ってことだ。誰も『お前から俺に抱き着く』のを禁止してるわけじゃない」


 むしろ嬉しいくらいだ。だが、そこから先は下心が混入しそうなので考えないでおく。

 俺はしばし、凛子をそのままにしてやった。しかし、今度は先ほどの沈黙とは違う。穏やかで暖かい空気に満たされたような静けさだ。


 それを破ったのは、部屋に備え付けられた壁掛け時計だった。ふとそちらを見ると、時刻は正午を回っている。


「じゃあ凛子、俺はそろそろお暇するよ。練習があるからな」

「分かりました」


 そっと俺から腕を離す凛子。


「じゃあ、くれぐれも安静にな」

「はい」


 その時の凛子は、いつもの元気いっぱいの凛子、ではなかった。しかし、その穏やかな笑みは、どこか大人びた穏やかさを有していて、いつもの彼女とのギャップに俺は目眩を起こしそうになった。


「じゃ、じゃあな!」


 それだけ乱暴に言い放ち、俺は桜野邸をあとにした。


         ※


 それから四日間、俺にはまともな記憶がない。

 先生の指導や、部員間で行われた助言などは頭に入っている。だが、それらと実生活の間には大きな隔たりがあるように思われた。

 正直、上手くなること以外はどうでもよかった。これで、凛子さえ戻ってきてくれれば。


「ちょっと、啓介? 啓介!」

「え、あ?」

「なにボサッとしてんのよ。話、聞いてたの?」


 そう言って俺の顔を覗き込んできたのは、お袋だった。今、俺はリビングで夕食にありついている。豚カツだ。純粋に『勝負に勝つ』という意味合いで、お袋が作ってくれたのだろう。


「明日の県大会、県民音楽堂の大ホールでいいのよね?」

「あ、うん」

「お母さんとお婆ちゃん、聞きに行くから」

「ああ……」


 俺はまともな返答を試みて、間抜けな声を発するに終わった。結局、凛子のソプラノは奈央が担当することになったのだが、なにぶん奈央に合った音域ではない。

こればかりは、奈央の実力を以てしても、どうにもならない。俺たちの士気も低いままだし、演奏は悲惨な結果で終わるだろう。


 そんな俺の思考を察してくれたのか、お袋はそっと俺の肩に手を置いた。


「あんたにできることをやりなさい。ちゃんと結果はついてくるから。少なくとも、お母さんとお婆ちゃんには伝わるわ。無理しないでね」

「……んむ!」


 俺は息が詰まりそうになった。今更ながら、俺を支えてくれたお袋と婆ちゃんには感謝の言葉もない。そう、言葉がないのだ。頭の中で、まともに単語を組み合わせることができない。

 俺は急いで豚カツを頬張り、逃げるようにして自室に戻った。


         ※


 蚊が飛んでいる。こんなガンガンに冷房をかけた室内では、随分寒かろうに。


「よいっしょ……」


 俺は物置部屋から扇風機を取り出してきた。エアコンには、自然と空気を乾燥させる効果がある。それでは困るのだ。喉まで乾燥させられては、間違いなく明日の演奏に影響する。だからこその扇風機だ。


 エアコンを消し、扇風機をベッドのそばへ。そして、冷水を染み込ませた手拭を、縦長に絞って喉に巻く。これもまた、乾燥を防ぐための処置だ。冷水を入れてきた洗面器は、そのまま机の上に置く。これで、それなりの湿度が保たれるはずである。


「はあ……」


 そこまでやってから、俺はベッドに腰かけた。


「明日の俺たち、どうなるんだろうな……」


 ソプラノ不在で混声合唱という、まさかの展開。今こうして諦念に囚われているのは、俺だけではあるまい。野郎共も、奈央も、もしかしたら凛子も。


「風呂、入るか」


 そう呟いて立ち上がろうとした、その時だった。スマホが鳴った。LINEで着信があったらしい。大会前日なのだから、あまり喉を使いたくはないのだが。渋々、ポケットからスマホを取り出し――俺ははっとした。


「凛子!? どうしたんだ!?」

《啓介先輩! あたし、風邪治りました!》

「はあ!?」


 何を言ってるんだ、こいつは? まあ、確かに凛子は、いつものテンションに戻っている様子ではあるが。


「お、お前、喉は?」

《絶好調です!》

《ちょっと凛子さん、突然話し出しても先輩には伝わらないわ》


 落ち着いた声が割り込んでくる。


「奈央、今そこにいるのか?」

《はい。今日の昼過ぎに凛子さんから連絡がありまして。明日歌うから、これまでの練習で注意された箇所を教えてくれ、と》

「お前から見てどうだ、凛子の様子は?」


 呆れたため息が通話に混じる。


《不思議なことに、元気です。本人の言葉を借りるなら、絶好調と言っても過言ではないかと》

「凛子……」


 ううむ、最近言葉に詰まることが多いな。


《先輩、あたし、自分の注意点は頭に叩き込みました! 明日は大丈夫です!》

「それは分かったけど、どうやって治したんだよ、風邪は?」

《先輩が持ってきてくださった『薬』のお陰で》

「はあ!?」


 おい待てよ。それって、俺が持ち込んだ風邪薬をがぶ飲みしたってことか? 脳とか肝臓とかに悪いんじゃねえのか、そういうの。


《とにかく、明日の本番は任せてください! 皆さんにもLINEでメッセージ回しておきますから!》


 なんて無茶苦茶な……。

 だが、俺の気持ちは不思議と高揚していた。凛子が復活し、主旋律パートの人間が戻ってきてくれたとなれば、俄然士気は上がるはずだ。


《んじゃ! 明日はよろしくお願いしますね、先輩!》


 そう言って、凛子は通話を切った。間を置かずして、チャット欄にメッセージが流れ込む。合唱部のグループLINEでの話だ。


《凛子さん! 大丈夫なんだね!》

《よくぞ戻られた、凛子殿! 流石というべきか!》

《ふははは! 凛子よ、お主の復活は予想しておったぞ! 何せ貴様は我が臣下! 風邪ごときで右往左往するほど、器の小さい人間ではあるまい!》

《先輩方、盛り上がるのは勝手ですが、早めに寝つくようお願いします》


 釘を刺したのは、案の定奈央である。

 蓮、哲司、幸之助の三人は、すぐに就寝する意を示して、このネットワークから離脱した。


 俺は、何もしない。ただ、仲間を信じる。それだけだ。

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