第29話

 凛子が風邪を引いたのは、大会五日前のことだった。


「んなっ!?」


 そのLINEを回したのは奈央だ。緊張感が高まってきて、だんだん寝つきが悪くなってきた頃。その深夜のことである。うつらうつらしていた俺の脳みそには、落雷に遭ったかのような衝撃が走った。


《凛子さんが風邪で、体調が優れないようです。私がついていながら、申し訳ありません。過度な練習を強いていたのかもしれません》

「そんな馬鹿な……」


 文面を読んでいる俺の口から、煙のような言葉が漏れる。直後、奈央からの二通目が回ってきた。


《登校も厳しいようです。感染を防ぐため、私たちが彼女のお見舞いに行くのも危険だと考えます。明日の放課後、対応策を練るのが賢明でしょう。私からは以上です。皆さん、お気を付けください》

「あいつ……!」


 俺が真っ先に怒りを覚えたのは、奈央に対してだ。この非常時に、どうしてこんな慇懃な文章が書けるんだ? 凛子を見捨てるような気配すら感じられるではないか。

 凛子も凛子だ。きっと、奈央が教えた以上のことをやろうとして、夜更かしでもしたのだろう。どんな環境で練習していたのかは分からないけれど。


「こん畜生!」


 俺はスマホを放り投げた。その先にクッションが置いてあったのは幸いである。

 だが、俺は思った。凛子が無事に歌えるなら、スマホの一個や二個壊れたところで、痛くも痒くもないと。


 凛子、俺はお前に会いに行くからな。誰に引き留められても。

 明日は課外授業も練習もサボってやる。そして、風邪対策グッズで完全武装して、お前の家に乗り込んでやる。誰にも邪魔はさせない。


         ※


 凛子の住まう桜野家は、この周辺では有名な家柄だった。広大な敷地とずっしりとした門を備えた、古風な和風建築。それは、俺たち光方高校の生徒たちの多くが住む新興住宅街にあって、結構な重厚感を醸し出している。だが、その立派な造りゆえに、誰もが違和感を覚えるより先に、圧倒されてしまう。

 早い話、『そういう家系』でもあるわけだ。


 俺は学校に『体調不良』と嘘の電話をかけ、お袋には『今日は課外授業はない』と虚偽の報告をした。それから、夏用のスラックスと清涼感のあるカッターシャツを着て、家中の薬箱を漁った。

 探せばいろいろとあるもので、俺は手あたり次第に薬を鞄に放り込んでいった。さらには、喉の健康にいいと言われるネギをも搭載。それから、訪問に際して失礼にあたらないよう、午前十時前までの時間を過ごした。

 まったく、時間経過がこんなにも遅いとは……。


「ちょっと啓介、何やってんの?」


 とお袋に言われながら、リビングのテーブルの周りをぐるぐると闊歩して時間を潰した。


「よし、行ってきます!」

「あら、行くってどこへ?」

「夕方までかかると思う!」


 お袋と、全く噛み合わない会話をしてから、俺は勢いよく玄関扉を開けた。


         ※


 自転車を漕ぐこと、約十分。


「はあ、はあ、はあ、はあ……」


 俺は息も絶え絶えに、立派な和風建築の門扉の前に立っていた。

 そんなに急ぐことはなかったのだろうが、身体が勝手に、勢いよく駆動していた。理由は単純。凛子のことが心配だったから。

 いや、それは建前だな。凛子に会いたい、という俺自身の欲求からだ。


 乱暴に自転車を停め、門の隣のインターフォンを押す。


《はい、桜野です》


 若い女性の声がした。家政婦さんかと思われる。


「あ、あの、俺、じゃなくて僕、凛子さんの先輩です。め、面会、できます、か?」


 荒い呼吸を押さえ込もうと苦心し、それでも失敗しながら、俺は言葉を絞り出す。


《お客様、申し訳ございません。凛子様は風邪のためお休み中でして――》

「薬、持ってきました!」


 俺は背負っていた鞄を胸の前で抱っこして、カメラの前で揺すってみせる。家政婦さんは半分驚き、半分呆れた様子でこう言った。


《凛子様は、既に必要な措置を取っておられます。ご心配には及びません》

「で、でも!」

《逆に、お客様に風邪がうつったり、凛子様のご負担になったりすることが考えられます。恐れ入りますが、どうかお引き取りください》


 ううむ、単純にして完全な理論武装が為されている。普通なら引き帰すべきなんだろうな。

 だが生憎、凛子は俺にとって普通の存在ではない。互いに好意を抱いていて、それを確認し合った仲だ。恋人かと言われると、微妙だけど……。


 思い切って、フィアンセだとでも言ってやろうか。そんな馬鹿なことを考え始めた、その時だった。


《……誰?》

《ああ、お嬢様! お部屋にお戻りください! まだお加減が……》


 凛子か? 凛子がそこにいるのか?


「おい、凛子! 見舞いに来たぞ! 少しでもいい、俺と会ってくれ!」

《啓介……先輩……?》

「ああ、そうだ!」


 すると、咳き込むような音と、ややヒステリックな家政婦さんの声が聞こえた。『お嬢様、出歩いてはいけません!』とかなんとか。

 だが、それを打ち消すように、俺は声を張り上げた。


「お前に会いにきたぞ、凛子!!」

《先、輩……先輩! お願い、部屋には戻るから、この人を家に上げてください》


 再び咳き込む音がする。


《いけません、お嬢様! 風邪が悪化したら……!》

《この人は、あたしのフィアンセです! 引き帰せなんて言えません!》

「ぶふっ!」


 俺は思わず吹き出した。あいつ、俺と同じこと考えてたのかよ。


《お願い……》

《は、はあ、かしこまりました。しかし今回の件は、お父様に報告させていただきます。よろしいですね?》


 僅かな沈黙の後、ゴトン、と鈍い音がして、門扉は思いの外スムーズに開いた。一凛の風邪が、桜野邸から流れてくる。


「お邪魔します」


 俺はカメラを睨みつけてから、大股に一歩、踏み出した。


         ※


「やっぱすげえな……」


 池があって、鯉が泳いでいる。石塔があって、砂が敷かれている。瓦屋根があって、平屋建ての縁側が左右に続いている。

 その広大な眺めに、俺はしばし、目を奪われた。

 

 しかし、足は止まらない。玄関と思しき場所に向かって、着実に進んでいく。すると、広い扉が向こう側から開かれるところだった。そこに現れたのは、簡素な和服をまとった若い女性。きっと、インターフォンで俺に対応してくれた人物だろう。


「ようこそいらっしゃいました、とは申し上げにくいのですが」

「いえ、こちらが無理を承知で、凛子さんとの面会を申し出たんです」


 そんな言葉を交わしていると、女性の背後で何かが動いた。長身の家政婦さんの陰からこちらを覗いている。その顔は真っ赤で、長袖・長ズボンのパジャマ姿。そして、叱られた幼稚園児のような雰囲気で立っている。顔は見えなかったが、間違いなく凛子だ。


「お嬢様から伺いました。吉山啓介様でいらっしゃいますね? まずはこれを」


 家政婦さんが差し出してきたのは、一枚の使い捨てマスク。

 俺がそれを着用するのを確認してから、家政婦さんは『お嬢様のお部屋へご案内致します』と言って廊下を歩きだした。


 俺は凛子に声をかけようとしたが、止めた。今口を開けば、凛子に対する叱責の言葉しか浮かんでこないだろうから。

 大会五日前という状況において、コイツは何をやっているんだ。奈央が世話役であることからすれば、無茶をするなとは何度も言われているはず。それなのに……。と、いうのが、俺の胸中にあった言葉だ。


 しかし、そんな事柄なら、凛子自身が誰よりも分かっているはずだ。それを責めたところで、事態は好転しないだろう。

 などなど考えている間に、俺たちは凛子の自室前に到着した。


「お嬢様、すぐにベッドにお入りください。喉が渇いていなくても、水分補給は忘れずに。啓介様、お手数ですが、お嬢様のお手伝いをお願い致します」

「あ、は、はい」


『それでは』とだけ告げて、家政婦さんは去っていった。俺が中途半端なお辞儀をして振り返ると、凛子がドアを開けて待っていた。


「おい、言われただろ。早くベッドに入れ」


 自分でも意外なほど、冷たい声が飛び出す。すると、凛子はますます恐れ入ってしまったようだ。鼻の頭まで掛布団を引っ張り上げて、潤んだ瞳で俺を見る。

 俺は大きくため息をついた。その目は止めてくれ、その目は。


「先輩……、怒ってますよね……」

「まあな」


 後頭部に手を遣りながら、俺は視線を下ろした。嘘をついても仕方ないだろう。

 あれほど薬やネギを持ってきたのに、それを取り出す気にもなれない。蝉の鳴き声と扇風機の唸りだけが、二人の鼓膜を震わせる。


 ベッドで横になり、布団を引っ被っている凛子と、鞄を背負ったまま、何の意味もなく立ち尽くしている俺。

 これでは、俺がいる意味がないな。俺は鞄を下ろし、薬とネギを取り出して、机の上に無造作に並べた。


「じゃあ、今日も練習あるから」


 そう言って凛子に背を向けた、次の瞬間だった。

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