第28話
「ふむ……」
練習用の会議室に、ため息が響く。誰のものかも分からないくらい、微かなものだが。
俺が婆ちゃんが入院したことを、皆に告げたところだ。
「それで、命に別状はない、というのは本当なのでござるな?」
念押しする哲司に向かい、俺は『ああ』と短く返す。
「皆、なんだか悪いな。テンション下げちまって」
「なあに、お主が謝る必要はないぞ、啓介。お主が我が臣下である以上、我輩はお主の味方だ。よくぞ伝えてくれたな」
幸之助の言葉に、ふっと涙が出そうになる。が、ここでしんみりしてしまったら、余計士気に関わるだろう。
「じゃ、じゃあ!」
ここで、果敢にも声を上げる者がいた。なんと、蓮だった。
「だったら、皆でカラオケにでも行くってのはどうでしょう? 好き勝手歌えば、ストレスも減りますし!」
「それだ!」
賛同したのは大石先生だ。
「県大会本番まで、あと三週間! 今なら喉を枯らしても、大した問題にはならないわ!」
おいおい、日頃喉を使う俺たちがそれでいいのか。と、ツッコミを入れたくなったものの、俺は言葉を飲み込んだ。これは皆が、士気を保ち、俺を励まそうとしてくれているのだ。ありがたく皆の言う通りにするか。
「俺も久々に大声出してえんだよな。先生、早速行きますか? 皆から異存がなければ」
すると、今まで黙っていた奈央が『異議なしです』と言って手を挙げた。しかし、残る一人、凛子の顔色は優れない。
そんな彼女の様子を知ってか知らずか、先生は『今日は奢るわよ!』と言って振り返り、ずんずんと会議室から出て行った。皆もそれに続く。俺もついて行こうとしたのだが、凛子のことが気にかかって、いや、心配で、すぐには動けなかった。
哲司が気遣わし気な一瞥をくれながら退室するのを見て、俺は凛子の元へ。
「大丈夫か?」
「先輩こそ、大丈夫ですか」
凛子は俯いたまま、俺と目を合わせようとはしない。
「先輩、お婆さんと仲よかったんですよね。奈央さんが話してくれました。小さい頃の先輩と、お婆さん――吉山タキ先生のこと、よく覚えてるって」
「そう、か」
よくそんな話が回ってきたな。奈央が学年トップクラスの成績である、ということは聞いたことがある。だが、そんな昔のことを、よく覚えていられたものだ。
凛子は、抑揚を欠いた声で続ける。
「先輩は平気なんですか。お婆さんが倒れたっていうのに、皆でカラオケに行こうとするなんて、酷いと思わないんですか」
「そ、そりゃあ……」
次の瞬間、凛子はキッと目を上げて、涙ぐんだ瞳で俺を睨みつけた。
「先輩がそんな冷たい人だなんて、知りませんでした!!」
そのまま駆け出そうとする凛子。だが、その足はふっと止まってしまった。
気づいた時には、俺は凛子の腕を掴んでいた。極めて強く。好意を抱いている相手に対してこんなことをするとは、我ながら信じられない。
しかし反対に、確信したことがある。
凛子は、とても優しいのだ。いつもはテンションの高さ故に、他人にそれと意識させることはない。だが、感情的になればなるほど、彼女は自分の胸に秘めた優しさを開花させていく。
そして今、その優しさは、俺と婆ちゃんの関係に注がれている。それに気づいて、俺は凛子の腕を離した。
「啓介くん、凛子さん、皆待ってるけど……」
ゆっくり顔を覗かせた蓮に向かい、俺は
「ああ、悪い。ちょっと急用が入った」
と言ってスマホを取り出し、あからさまな嘘をついた。『また今度、誘ってくれ』と告げることも忘れない。蓮は半信半疑の様子だったが、了解の意を示して首を引っ込めた。
「凛子」
「はい」
「少し話をしよう。飲み物くらいなら、奢ってやる」
こくん、と頷く凛子。俺は凛子と、二人っきりで話す必要がある。カラオケ組と鉢合わせしないような場所を考えながら、俺は凛子を連れて昇降口に向かった。
※
結局、俺たちが向かったのは、婆ちゃんの入院している病院だった。合宿であったことを話したい、という気持ちはある。だがそれよりも、凛子を安心させてやりたかったのだ。婆ちゃんが無事だということを示して。
「吉山タキさん? ええ、面会できるわよ。ただし、十五分が限度ね」
担当の看護婦さんに頭を下げて、婆ちゃんの病室に向かう。病院に着くまでも、着いてからも、俺と凛子は無言だった。まるで婆ちゃんに対する心配事が悪魔の姿を取って、俺たちから言葉を奪い去ってしまったかのように。
しばらくリノリウムの廊下を歩き、俺たちは婆ちゃんのいる病室の前に立った。
「ここか」
「見れば分かります」
どこか棘のある言い方をしながら、凛子が応じる。
「失礼しまーす」
俺が軽く会釈しながら入室すると、凛子は律儀にも手先を消毒するところだった。
婆ちゃんは窓際のベッドで、上半身を起こし、ぼんやり外を眺めていた。
「婆ちゃん、大丈夫かい?」
俺が声をかけると、婆ちゃんはゆっくりと振り返った。『あら、啓ちゃん!』と声をかけてくる。昨日の体調不良が嘘のようだ。
「だから、『啓ちゃん』は止めてくれよ……」
婆ちゃんは、人工呼吸器や車椅子を必要とはしていなかった。点滴のチューブが一本、その細い腕に刺さっているだけだ。
俺が『大丈夫かい?』と繰り返すと、婆ちゃんは意外にも、こう問うてきた。
「啓ちゃんこそ、合宿は大変じゃなかったかい?」
「え? あ、まあ」
俺は軽く面食らったが、すぐに話に戻った。青木先生とのことも話しておく。
「ふうむ、バリトンは難しいからのう」
先輩と同じことを言う婆ちゃん。
「ところで、そちらのお嬢さんはどなたかね?」
「あ、こいつは――」
「あたし、桜野凛子と申します! 啓介先輩には、いつもお世話になっています!」
と、勢いよく自己紹介した。
「馬鹿! ここは病院だぞ!」
「まあまあ、そう気にせんでも構わないよ、啓ちゃん。もうこの部屋の爺さん婆さん方とは、仲良くなってしまったからのう」
「え?」
気づいた時には、俺と凛子の二人に、病室中の目が集中していた。
「ほう! べっぴんさんじゃのう!」
「これ! 何言っとるんじゃ、このスケベ爺!」
「あんたがタキさんのお孫さんかえ? 似とるじゃないか」
顔から火が出る思いの俺。それに反し、凛子は『あ、どーも!』と声を上げてニコニコしている。挙句、手を振り始めた。
「おい凛子! じゃ、じゃあ婆ちゃん、俺は大丈夫だから! ほら、帰るぞ凛子!」
しかし、そんな凛子を婆ちゃんは引き留めた。
「凛子さん」
「はい!」
婆ちゃんはしばし、穏やかな目で凛子を見つめてからこう言った。
「啓介を、どうかよろしくお願いします」
「!?」
っておいおいおい、これじゃあ俺と凛子が婚約の挨拶に来たみたいじゃねえか。
「ちょ、婆ちゃん! 何言ってんだよ!?」
「はい! 啓介先輩のことは、任せてください!」
「お前も調子に乗るな!」
俺は凛子に軽くチョップを喰らわせ、『ま、また来るから!』と告げて、慌てて病室を出た。いつの間にか、自分が凛子と腕を繋いでいることに気づくのに、しばしの時間がかかった。
※
その日以降、部の結束はより高まったように思う。
蓮は積極的に意見するようになったし、哲司はそのフォロー役を的確に務めた。俺の音程の甘さは奈央が指摘してくれる。そして、幸之助と大石先生は、協力して凛子に基礎を叩き込んでいった。
「そうそう凛子よ、かつての『Let It Be』を思い出すのだ。あの柔らかい発声を、合唱でも目指すがよい」
「で、でもそうすると芯が通らなくなっちゃて……」
「大丈夫よ凛子さん。腹斜筋を使えるようになれば、柔らかさを維持したまま響きを保つことができるわ」
「わ、分かりました、大石先生!」
と、いった具合である。
「啓介先輩、ピッチ下がってます。後輩のことが気になるのは分かりますが、今は自分に厳しくお願いします」
「わ、分かってるよ、奈央! ちょっと油断しただけだ!」
ふふん、と鼻を鳴らす奈央。俺と凛子のことについては、察しがついているのだろう。調子に乗りやがって……! ま、険悪な空気にはならないからいいんだけどね。
「皆さん、そろそろ休憩しませんか? 水分補給は大事です」
「蓮殿、いいことをおっしゃるでござるな! 昼食にしてもいいのではござらんか?」
「哲司くんの言う通りね。じゃあ、午後一時から練習再開!」
上手くこの場を切り上げた先生に、俺たちは声を揃えて返事をした。
「はいはーい! ラーメン食べにいく人、お手上げー!」
「おい凛子、あんまり食いすぎると、腹筋使った時に気分が悪くなるぞ」
「えー? 啓介先輩、来ないんですかぁ? 流行に鈍いとモテませんよぉ?」
「なにおう!?」
合唱の練習中にラーメンを食うことが流行だというのか!? って、今から凛子に振り回されてたまるか!
と、考える程度には、俺の中で凛子の存在は重要なものになっていた。
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