第27話【第五章】

「はいはーい! ここで青木先生とはお別れです! またいずれ、お世話になると思うけど、今回はこれまで! 皆、礼!」

「ありがとうございました!」


 大石先生の号令一下、俺たちは実に清々しくお辞儀をした。


「こちらこそ、ありがとうございました、皆さん。久々にお若い方々の指導を担当できて、よい刺激になりました」

「では皆、荷物を持って乗車! 忘れ物のないようにね!」


 俺たちが勢いよく返事をするのを確認してから、二人の先生は玄関を出た。部員たちも後に続き、大石先生の車に乗り込む。


「さあ、帰りも飛ばすわよ!」

「うげっ!」

「おい蓮! 言葉だけで酔うな!」


 俺がツッコミを喰らわせたのと同時に、哲司が蓮の背中を擦り始める。幸之助は何が楽しいのか、わははと高笑いをしている。


「失礼しまーす」

「おう、凛子」


 帰りはたまたま、来た時と同じ席の配置になった。当然、俺の隣には奈央と凛子。俺は何事もないかのように、凛子の横顔を見てみた。真っ赤に熟れた林檎のような色艶をしている。

 って、もしかしたら俺も赤面しているのだろうか? 奈央ならまだしも、他の野郎三人組に、俺と凛子のことを悟られるわけにはいかない。少なくとも、今はまだ。


 しばらく山道を下ったところで、奈央が口を開いた。


「皆さん、私からお話したいことがあります」


 そして、自分の過去について語り始めた。俺に聞かせてくれたのと同じ内容の話だ。流石にその間は、皆口を挟まなかった。蓮も、酔いを忘れて聞き入っている。


「奈央殿、それは我々が聞いてもよかったのでござるか?」

「もちろんです。皆さんには、絶対に話しておかなければと思っていましたから」


 どこか気の抜けた声で答える奈央。肩の荷が下りたように思っているのだろう。

 少しばかりの沈黙を破ったのは、幸之助だった。


「うむ! よくぞ語ってくれた、奈央よ! これで我々の結束は、より強力なものとなったであろう!」


 いつもならツッコミを入れるところだが、今はそんな気分ではなかった。幸之助は、この雰囲気を正すために、口を開いてくれたのだ。よくできた部長ではないか。相変わらず魔王っぽく自分を演出しているのが痛いところだが。


 こうして、俺たちは光方高校の駐車場へと帰ってきた。


「はい、皆ご苦労様でした! 家に着くまでが合宿だからね! 気をつけて帰ってください!」


 大石先生の言葉に、皆が返事をした。流石に疲労の色は隠せないが、その疲労は充実感と表裏一体のものだ。


「よいしょ!」

「大丈夫か?」


 俺は通常の荷物に加え、ギターケースを手にした凛子に手を貸した。すると凛子は、礼の言葉も忘れてしまった様子で俺の顔を見た。だんだん顔が朱に染まっていく。


 って、ちょっと待った。今ここで色恋沙汰のイベントを発生させるわけにはいかない。他の皆に、下手に勘繰られたくないのだ。

 俺は凛子が、きちんとケースを提げるのを見てから、『じゃ、じゃあな!』とだけ言ってその場をあとにした。


         ※


「ただいまー」


 俺は自宅に到着し、がらりと玄関を開けた。


「あら、お帰りなさい、啓介。こんなに早く帰ってくるとは思わなかった」

「うん」


 お袋がキッチンから顔を出した。俺が出かけた時と、何ら変わらない様子だ。

 俺は短い返事をして、荷物を一旦玄関に下ろした。時計を見ると、ちょうど正午になるところだ。


「取り敢えず、荷物を置いていらっしゃいな。洗濯物は、全部洗濯機に入れちゃっていいから。あと、お婆ちゃん呼んできて。昼ご飯まで、あと十分くらいだから」

「えー、俺、今はどっちかって言うと眠いんだけど」

「つべこべ言わない! お婆ちゃん、あんたに会いたがってるよ」


 俺はため息をつきながら肩を竦めた。


「会いたがってる、って……。たった四日間、家を空けただけじゃんか」

「あんたねえ、ちょっとは孫を持つお婆ちゃんの気持ち、考えてあげなさいよ」


 孫を持つ人の気持ち、って気が早すぎるわ。

 まあ、このままお袋にガミガミ言われるのも面倒だったので、『へーい』とだらしない返事をしながら、俺は靴を脱いで上がり込んだ。

 なんだか、数日どころか数年経ったような気分だ。その妙な感覚は、廊下を奥へと進むほど強まってくる。

 やがて、俺は最奥にあたる和室の前に立った。襖を軽く叩き、


「婆ちゃん、帰ったよ。昼飯だってさ」


 と声をかける。返答は――ない。


「あれ?」


 俺は首を傾げながら、再び『婆ちゃん?』と呼びかけた。またしても応答なし。


「婆ちゃん、入るよ」


 そろそろと襖を開ける。そして次の瞬間、俺は奇声を上げていた。


「ば、婆ちゃん!?」


 婆ちゃんは、そこにいた。いつも通り、暑いのにも関わらずコタツに足を突っ込んでいる。しかし、その上半身は横向きに倒れ込み、表情は苦し気で、咳を繰り返していた。


「だ、大丈夫か、婆ちゃん!」


 咄嗟に駆け寄り、手を取ってみる。心なしかその手はか細く、ひんやりしているように感じられた。

 俺は『婆ちゃん!』と連呼しながら肩に手を載せ、かるく揺すってみる。だが、婆ちゃんは顔中の皺を深め、咳を繰り返すばかりだ。


「母さん、救急車! 救急車呼んで!」


 とは言ったものの、結局は俺が一一九番通報することになった。お袋は、苦し気な婆ちゃんを見てパニくってしまったのだ。


「もしもし? 急病です! 婆ちゃんが、咳が止まらなくて……!」


         ※


「肺炎ですね」


 医師の言葉が、短刀のように俺とお袋の胸に突き刺さる。

 通報から約三十分後、市内の大学病院にて。救急車に同乗した俺とお袋は、救急患者検査室の隣の診察室で、医師の言葉を聞いていた。


 肺炎って、六十五歳以上の人にとってはかなり危ない病気なんだよな。婆ちゃんは今年で八十五歳。肺炎を患った際のリスクは低いものではあるまい。


「婆ちゃん、じゃなかった、祖母は大丈夫なんですか?」


 俺が身を乗り出すようにして尋ねると、医師はあっさり『命に別状はありません』と一言。


「ただし、しばらくは絶対安静です。入院が必要でしょう」

「どのくらいの期間になりますか?」


 顔面蒼白なお袋が尋ねると、二週間程度、という返答があった。


「二週間……」

「先ほども申し上げましたが、命に別状はありません。とにかく休息を取られるのが最善策です」

「そ、そうですか……」


 俺たちの表情が曇っていることを気にかけてくれたのか、医師はこう続けた。


「明後日には面会可能になります。お婆様は、肺炎以外は十分健康なお身体をしていらっしゃいますから、大丈夫です」


 その後、細々とした遣り取りがあったが、俺の頭には入ってこなかった。


         ※


 帰り道。

 俺とお袋は、近所のファーストフード店で昼飯を買って帰ることにした。車で来たわけではないので、店内のレジに並ぶ。最初は混み合っているように見えた店内だが、幸か不幸か、時間感覚が混乱して、退店するまでがあっという間に感じられた。


 家に着き、お袋と一緒に紙パックからハンバーガーやポテトを取り出す。既に時刻は午後三時を回っており、普段なら空腹を覚えるところだ。が、胸が圧迫されてそんな感覚は得られない。いざ口にしても、味がしない。するとやはり、空腹は感じられず、そうなると美味しいと思うこともできず。負のスパイラルだな。


 俺とお袋はどちらからともなく、『ごちそうさま』も抜きにして、各々の部屋に向かった。

 

「はあ……」


 俺は、合宿所を出た格好のままでベッドに倒れ込んだ。着替えるのももどかしく、全身が重い。こんな時に、楽譜と勝負する気にはなれない。不随意筋を鍛える運動をするのも億劫だ。せめてできるのは、脱力くらいのものか。


 俺は涙こそ流さなかったものの、婆ちゃんの不在に大きな打撃を受けていた。そこにいるはずの人物がいないのだ。それも、ずっと俺を見守ってきてくれた人物が。

 奈央のことでも話してあげたかったが、俺が帰ってきた時、婆ちゃんはそれどころではなかった。


 そうだ。誰かに伝えよう。それこそ、奈央にでも。合宿初日、あれだけ怒気を発しながらも、翌日には練習に戻って来た奈央。彼女なら、婆ちゃんとも面識があるかもしれないし、事情を話すのが手っ取り早い。


「よっと」


 俺は上半身を跳ね起こし、ポケットからスマホを取り出した。LINEを開き、素早く指を走らせる。


《奈央、ちょっと話せるか?》


 すると、すぐに既読マークがついて、奈央の方から通話があった。


《もしもし、どうかされたんですか?》

「ああ、実は、婆ちゃんが倒れたんだ」


 はっと、息を飲む気配がした。奈央にしては、全く以て珍しいことだ。


《お婆様はご無事なんですか?》

「命に別状はないらしい。肺炎だそうだ」


 そこまで説明して、俺は問うてみた。


「これ、皆に話した方がいいかな?」

《そうですね……。隠し事は避けたいですし、かといって士気を下げるわけにもいきません。皆様に伝えるなら、早い方が》

「分かった。明日の練習で、俺から皆に説明するよ。ありがとう」

《いえ》


 通話はこれで終わった。変に心配しすぎないといいんだけどな。特に、凛子は。

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