第26話
蓮が心配げに俺を見ている――ような気がする。
哲司が気遣わし気に声をかけてくる――ような気がする。
幸之助がそっと俺の肩を叩いている――ような気がする。
だが、それらは一向に無意味だった。せっかく励ましてくれた皆には申し訳ない。が、『自分が一番、皆の足を引っ張っている』という事実は、それほど俺にとって大打撃だった。
そのせいだろう、俺は頭がぼんやりとして、皆の気遣いをまともに感じられる状態ではなかった。
大石先生や青木先生は関与してこない。この問題は、生徒同士で解決してもらうしかないと思っているのだろう。だとしたら、それは大当たりであると同時に大外れだ。
生徒の身でなければ、俺の気持ちは分からない。だから俺に対する処置を生徒に任せる。その判断はいい。
だが、俺たちに評価をくれるのは先生方だ。その二人が沈黙してしまっては、俺はますます、練習方針を立てられなくなってしまうというものだ。
「はあ……」
俺は冷たいため息をついた。涙はもう止まっている。ゆっくりと顔を上げ、あたりを見渡すと、この共有フロアにはもう誰もいないことが分かった。そのまま窓の外を見る。すると、太陽は完全に山の向こうに没していた。ヴン、と軽い音を立てて、自販機の照明が灯る。
「顔でも、洗うか」
一人、そう呟く。立ち上がった直後、少しばかり足が絡まり、転倒しそうになる。俺は無言で長机に腕を着き、バランスを取り直す。
その時だった。小柄な人影が、自販機に照らし出されているのに気づいたのは。
「大丈夫ですか、啓介先輩」
「凛子……」
俺は彼女の名を呼んでみる。しかし、果たしてそれが自分の喉から発せられたものなのか、極めて怪しい。それほど感覚が麻痺していた。
「あたし、この高校の合唱部に入って、本当に良かったと思ってるんです」
「は?」
いきなり何を言い出すんだ、こいつは?
「先輩たちは面白いし、奈央ちゃんはいつも練習に付き合ってくれるし、先生たちも熱心だし。でも、一つだけ困ったことがあって」
おいおい、今精神的に参っているのは俺の方だぞ。悩みを相談されても困る。
だが、そこで奈央の言葉が甦った。『凛子を支えてあげてほしい』と。
「どうしたんだ?」
掠れた声で、俺は一応尋ねてみる。次の瞬間、凛子から発せられたのは、予想だにしない言葉だった。
「一番頑張り屋の、憧れの人が苦労しているのに、あたしが何の力にもなれない、ってことです」
一番頑張り屋? 憧れの人? 誰のことだ?
俺が首を傾げると、凛子はふっと大人びた笑みを見せた。いつもは子供っぽい彼女が、いつになく真剣な眼差しをくれながら微笑んでいる。
「私が言葉だけでお話できるのは……うーん、精々こんなところですね」
肩を竦める凛子。すると、その場ですっとしゃがみ込み、背負っていたものを下ろした。いつかカラオケの時に見かけた、ギターケースだった。
「正直、自分でもどうしてこんなことをしているのか、よく分かりません」
語りながら、取り出したアコースティック・ギターの試し弾きをする。耳に優しい和音が形成され、それだけで俺は救われるような、不思議な感覚に陥った。
「あたしの、一番好きな人に聞いてもらいたいんです。啓介先輩、よかったら」
その真っ直ぐな瞳に惹き込まれるようにして、俺はこくり、と頷いた。
そして、そっと目を閉じた。曲名は聞くまでもない。『Let It Be』だ。
窮地に陥った主人公に、誰かの――恐らくは亡くなった母親の声が語りかけられる。『なすがままに』と。
この曲を歌っている時の凛子は、とてもいつもの彼女とは思えない。まるで二重人格を宿しているかのようだ。そんな心の深さ、包容力を、凛子は有している。
三番に入る頃には、俺は再び落涙していた。
凛子の優しい声音が琴線に触れたのか。昼間の悔しさが甦ったのか。原因はよく分からない。だが、分かる必要もない。こうして感動し、凛子の心情に共鳴できる自分がいることを、俺は心から嬉しく思った。
凛子の演奏は、長いような短いような、不思議な感覚を俺にもたらした。それだけではない。凛子の奏でる弦の響き、それに甲高さを押さえた、落ち着きある声。 それが時に、浅く深く、広く狭く展開する。
そして、それがだんだんと収まっていき、穏やかに終焉を迎えた。
凛子は黙り込む。俺も、語るべき言葉を見つけられない。いや、探そうともしなかった。これは、不快な沈黙ではなかったのだ。音楽を通じた、意識の共有とでも言うのだろうか。
ゆっくりとギターをケースに戻した凛子に、俺はしっかりと頷いてみせた。感謝の意を込めたつもりだ。しかし凛子は再び肩を竦めてみせる。どういたしまして、とでも言いたいのだろう。
「あたし、啓介先輩のことが好きです」
「俺も、凛子のこと、好きだよ」
ん? 俺は今何を聞いた? そして何を言い返した?
すると凛子は、きらりとその瞳を輝かせた。
「ふふっ、本当は先輩に先に言ってほしかったんですけど」
「え? いや、俺は、その、お前のことは……」
「嫌いだったんですか?」
「そ、そんなことねえよ!」
俺の慌てた様子がおかしかったのか、凛子は片手を背中に、もう片方の手を口元に当てて、くすくすと笑い声を漏らした。馬鹿野郎、告白した直後に笑えるなんて、どんな神経してんだよ。
「啓介先輩、お願いがあります」
「な、何だ?」
「来月の県大会、もし金賞を取って関東大会に進めたら、ご褒美ください」
「ご褒美?」
俺は首を捻った。駅前にあるスイーツ店の、ジャンボパフェでも奢ればいいのだろうか。
「あの、抱き締めてくれますか?」
「ッ!?」
自分の周囲で、時の流れが止まるのを感じた。お、俺が? 凛子を!?
俺が硬直していると、凛子は『駄目、ですか?』と言って口をへの字にした。瞳がいつの間にか潤んでいる。
「……分かった」
半ば潰れた喉を起動させて、俺はそれだけを呟いた。すると凛子は、『やったあ!』と言って拳を振り上げ、その場でジャンプした。
「っておい! 騒ぐなよ!」
「分かってます。今日は、素直に部屋に戻ります。先輩も、早く休んでくださいね」
「あ、ああ」
それだけ告げて、凛子はすっと振り返り、そのまま歩み去っていった。
※
翌日。
俺は部員の誰よりも早く起きだし、第一ホールに向かった。練習したかったのだ。
音程を取るのが難しい箇所は分かっている。そこを重点的に叩く。わざとキーボードの音量を絞り、聴力を研ぎ澄ませる。
俺が一番、県大会における不安要因になっている? 結構。だったら、自分で自分を叩き直すだけだ。
キーボードを取り出した俺は、電源を入れ、簡単な和音を響かせる。
「ふうーーーっ……」
俺がこの部を救ってみせる。仲間の努力を結実させるために。指導にあたってくれた先生方の恩に報いるために。そして――いや、これは敢えて言うまでもあるまい。
凛子のことを抱き締めたかったから? ふむ。実際そうかも。現に、事故とはいえ奈央は抱き締めてしまったしな。
二股をかける気は毛頭ない。が、恋人でもない女性にそんな行為をしてしまった以上、凛子にも同じことをしてあげなければ。
と、いうのは建前で、やはり凛子にそばにいてほしい、というのが俺の本音なのだろう。身体も、心も。
さて、練習だ。
「自由曲、二ページ目の跳躍だな」
俺は一旦楽譜を手離し、キーボードに向かった。そして、跳躍の前と後の鍵盤を交互に叩く。目を閉じ、聴覚に全身全霊を集中させて。今、俺の真っ暗な視界には、音符が二つ浮かんでいる。
ハミングで両方の音を取り、また弾き直す。慎重に、と自分に呼びかけながら、微かに声帯を震わせる。この音だ。狙って、跳躍。まだ低い。ここはハモリの関係上、やや高めに取ることが必要とされる。
大丈夫、俺には他人の演奏に感動できる心の柔軟性がある。だったら、他人を感動させるだけの技量を身に着けることだってできるはずだ。凛子が伝えたかったのは、きっとそういうことなのだろう。彼女自身、言葉にすることはできなかったようだけれど。
しばらく音取りに集中している間に、ホールの入り口が開かれた。
「吉山啓介くんか」
「あ、青木先生……」
『おはようございます』と言いながら、俺は立ち上がる。だが、青木先生は手を顎に遣り、言葉を発しようとはしない。
「どうかされたんですか?」
「いや。啓介くん、君という少年がどれほど忍耐強く、そして勇敢であるか、私は思い知らされた気分だ。正直、私は恐れていた。私のせいで君が歌うことを、ひいては自己表現する機会を忌避してしまうのではないか、とね。しかし――」
「それは杞憂です」
ふっと目を合わせた青木先生に向かい、俺は言い切った。
「我々は合唱部です。いついかなる時も、独りぼっちじゃありません」
すると、青木先生はその整った顔立ちを、笑みの形に歪ませた。
「その言葉が聞けてよかった」
それから先は誰一人暴走することなく、合宿最終日(と言っても帰るだけなのだが)を迎えた。
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