第25話
合宿二日目。
今日もまた、活動場所は第一ホールだった。僅か一日しか使用していないのに、だいぶ身体に馴染んでいるように思われる。それだけ、昨日の練習は密度の濃いものだったということだろう。
今日のお題は、ズバリ『呼吸と脱力』。歌唱、特に合唱において、一番重要といってもいい要素だ。俺たち六人と大石先生、青木先生は、互いによい刺激を与えあった。
まず、青木先生が口頭で、脱力の重要性と呼吸のイメージを伝える。それを皆で行いながら、大石先生が俺たち一人一人に合った助言をしてくれる。
見事なコンビネーションだ。
「蓮くん、そこまで緊張することはないわ。今は練習だもの」
「は、はい!」
「哲司くんは問題なさそうね。でも、その髪型で本番に出るの?」
「はっ、拙者、そのつもりでござる!」
半ば呆れ、それでいてどこか期待を込めた目つきで、大石先生は哲司を見遣った。
「啓介くん、何度かジャンプしてみて」
「え?」
「身体の重心を意識するの。脱力しやすくなるわ」
「はい!」
「それで――」
大石先生は、今度は幸之助の前で立ち止まった。
「うん、そうね。幸之助くんもよくできてはいるのだけれど、本番でもマントを羽織るつもり?」
「無論! これは我輩が、歴戦の猛者であることの証明である! 他校を威圧するのに、これほど適した装束はあり得まい!」
柄にもなく、眉間に手を遣る大石先生。だが、その横から声をかけた人物がいる。青木先生だ。
「私はいいと思いますよ、幸之助くんの心構えは。まあ、押してばかりではいけませんが」
「うむ! よくぞ仰って下さった、青木先生! 魔王たる我輩は、やはりこうであらねばな!」
あーあ、中二病精神にギアが入っちまった。
それはさておき。俺は指導された通り、何度かその場でジャンプした。肩幅に足を広げ、ストン、と着地する。力むなよ、と自分に言い聞かせながら。
ふと、横を見ると、凛子の姿があった。そばには奈央が控えていて、凛子の腹を押している。『腹から声を出せ!』というのは、肺を大きく広く使うための、理に適った論法なのだ。
一年生同士の、協力し合う様子。それを見て、俺は心に穏やかな温風が吹き抜けていくような感覚を味わった。
頑張れよ、凛子。お前はちゃんと、上手くなりつつあるんだからな。
「ん? 啓介、どうかしたのか?」
俺はびくり、と肩を震わせた。
「幸之助先輩! 話しかけるならまずノックしてください!」
「いや、ここに扉はあらん。ノックというと、貴様をノックダウンしろということか? それでは話ができなくなるであろう?」
面倒な展開だな、おい。まあ、俺が血迷って『ノックしてください』なんて言ったのが悪いのだが。
その時、ようやく察した。俺は凛子のことが気になっていたのだ。
「とっ、とにかく、なんでもありません!」
俺はそう言って、再びジャンプを繰り返した。
※
午前中の練習は、昨日の筋トレの総復習をやった。お陰で、身体の節々が痛い。不随意筋、恐るべし。昼食は麻婆豆腐で、これまたとんでもなく美味かった。
そこまではよかったのだ。そう、そこまでは。
再びホールでの練習にて。
青木先生指揮の下、俺たちは課題曲・自由曲を一度ずつ歌った。
「大まかなところは分かりました。それでは、課題曲から細かく見ていきましょう」
練習の主な中身は、いわゆる『肉付け』だった。音程や音符の長さだけでなく、指示記号、すなわち強弱や伸ばし方、難しい音階などをじっくり見ていくのだ。
ちなみに、課題曲は四パート、自由曲は六パート編成の曲を選んでいる。課題曲は選択の余地がなかったにしても、何故自由曲は六パート編成、などという無茶な選択をしたのか。
それは、一人一人が責任を持って歌うことで、士気が上がると考えたからだ。
課題曲の練習中、俺はとにかく楽譜にメモを取りまくった。ここの盛り上がりが甘い。ここの跳躍が下手だ。ここでブレスをしておくべきだ、などなど。
こうして、課題曲の粗探しは順調に進んだ。明日は、今日練習で得た箇所の確認が主となる。幸之助との連携を図っておかなくては。
十分間の休憩の後、俺たちは自由曲に取りかかった。この自由曲は、そもそも一人一パートでは難しい編曲だ。そのため、個人個人がチェックされることとなる。まずは凛子、次に奈央、蓮、哲司と続き、俺の番がやって来た。
俺は楽譜を置き、青木先生の指揮に沿うようにして、歌い出した。自由曲の肉付けはまだだ。今は、音程だけ気にすればいい。それだけのことは、定演直後から一ヶ月間、散々やってきたじゃないか。
しかし、事態はそう簡単には運ばなかった。
まず違和感を感じたのは、序盤の跳躍だ。目標の高さまで届いていない。すると今度は、そのやや低いピッチのまま、声がだらだらと続いてしまった。俺は、焦った。早く体勢を立て直さなければ。
こめかみに手を遣り、顎の展開状況を確認。
同時に自分に呼びかける。脱力だ、脱力しろ、と。だが、そう思えば思うほど、肺の動きは鈍くなり、喉が硬直する。まるで、柔らかい布で、ゆっくりと確実に締めつけられているかのようだ。
焦りが、俺の胃袋の底をジリジリと焦がし始める。
「はい、結構です」
青木先生は手を止めた。はっとして口を閉ざす俺。
「啓介くん、自由曲は難しいですか?」
「……はい」
「ふむ」
青木先生は、また空中に視線を彷徨わせた。楽譜上の音程と、俺の実際の音程との誤差を見計らっているかのように。
「確かにバリトンは難しい。この自由曲では、特にそうです。取り敢えず、練習を計画通り進めましょう。幸之助くん、自由曲の準備はいいですか?」
「はい」
どこか憂いを帯びた声音で、幸之助が返事をする。そんなに俺のバリトンは駄目だったのか? 俺はくらり、と後方にぶっ倒れそうになったところを、なんとか足を踏ん張って耐えた。誰にも悟られていないといいのだが。
「啓介くん。啓介くん?」
気づいた時には、大石先生が俺の眼前で手を振っていた。意識があるかどうかを確かめるように。俺は、自分でもよく分からない、もごもごとした音を喉から絞り出した。
「気分が悪いんだったら、部屋に戻って寝ていてもいいわ。幸之助くん、鍵を――」
「まだ歌えます!!」
自分でも驚くほどの大声で、俺は大石先生の言葉を遮った。さっきの口ごもる感覚は、一瞬で破られていた。
「お、俺はまだ歌えます! だって、一パート一人しかいないんだから……!」
俺がいなくてはならない。そう言おうとした。しかし、そこから先は言葉にできなかった。胸中で渦巻く、自己嫌悪によって。
「落ち着いて、啓介くん」
そう言葉をかけてきたのは青木先生だ。
「私は、あなたの歌唱力を否定したわけではありません。ただ、もっと練習が必要だと知らせたかったのです。この合宿以降、県大会までの間に、私があなた方に指導できる機会があるかどうか、分かりません。だからこそ、常日頃、この難しいパートに挑戦してもらうため、釘を刺したのです」
淡々と述べる青木先生に便乗し、大石先生も言葉を投げかけてくる。
「そ、そうよ! 誰もあなたが悪いなんて――」
「じゃあ、どうして僕だけ駄目出しされたんです?」
「そ、そんなことはありませんぞ、啓介殿! 我々だって青木先生からご助言を頂戴したでござる! 練習が必要なのは、拙者たち全員でござる!」
ここで哲司が仲裁に入るのは予想できていた。だが、その声に素直に応じるだけの余裕はない。
そう、余裕がないのだ。難しい音階によって。発声の未熟さによって。皆の足を引っ張ってしまう、という事実によって。
もしかしたら、俺自身、薄々勘づいていたのかもしれない。いずれにせよ、こんな状況では歌えない。
俺は大石先生にヘッドバットを喰らわせかねない勢いで頭を下げ、『自主練してきます!』とだけ言って、すぐさまホールをあとにした。
暴走した部員は、合宿中では奈央の次、二人目になる。
しかし、孤立しつつも練習していた奈央と違い、俺は楽譜もキーボードも置いてきてしまった。これでは、何もできない。まさか、忘れ物をしたと言って、ホールに戻るわけにもいかない。
俺は昨夜、奈央と会った共有フロアに直行した。どすん、と椅子に座り込む。それから長机に肘を着いて俯き、頭を掻きむしった。
畜生、どうして上手くいかないんだ? 確かに毎年、バリトンは難しいと言われてきたが、こうまで皆の足を引っ張るようなことを、先輩たちはしなかった。
「くそっ……」
悔し涙を流したのは、生まれて初めてのことだったかもしれない。
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