第24話
午後の練習は、かなりキツイものになった。これから一ヶ月、どのような筋トレをしていけばいいのか、それを青木先生にミッチリ叩き込まれたのだ。
脱力。呼吸の意識。不随意筋の使い方。そのどれもが皆にとって必要不可欠であり、また、マスターできていない部分でもあった。
その中でも、青木先生が悪人でないことは確認できた。始めに指揮をした時と違い、俺たちを指導する目には力があったのだ。奈央がこの場にいて、指導の様子を見たら、すぐにでも青木先生への評価をひっくり返すかもしれない。
とはいっても、今ここに奈央はいない。これでは、当然ながら青木先生との意思疎通はできない。それに、奈央は一番の経験者だ。今回の指導がなくても、日課として筋トレを行っているかもしれない。
「ま、頑固な奴だしな……」
誰に聞かせるともなく、俺は呟いた。
適宜休憩を取りつつ、時間は午後六時となった。夕飯の時間だ。
「それでは、今日の練習を終わります。皆さん、今日一日で、何をすべきかしっかり掴めたものと、私は確信しています。また明日、今度は音程の合わせ方について、練習を重ねましょう」
青木先生の言葉に、勢いよく返事をしたのは凛子だ。まったく、こいつの体力は無尽蔵なのか。
食堂にて、俺たちは夕食にありついた。合宿にはありがちなカレーライスだったが、これが美味いのなんのって。疲労回復のため、皆が一度はおかわりをした。
「さて皆さん、食べながらで結構ですので、自己紹介をさせてください」
そう言って姿勢を正したのは、青木先生だ。当然、今日が初対面である俺たち。その間にある心理的な壁を、青木先生は埋めようとしているのだろう。是非とも拝聴しようと思い、俺はスプーンを置いた。
「私の生まれは東京、日本人です。母もまた、根っからの江戸っ子でした。しかし、父親はイタリア人で、少しは名の知れたボーカリストだったのです」
ふむ。その特徴が、青木先生にも遺伝したわけか。恵まれた体格や、澄んだブルーの瞳として。
「修行のため、私は世界中を転々としましたが、どうしても父を超えられなかった。だからこそ、私は自分が目立つことを止め、教育者としての道を選択しました。私と縁のある音楽関係者の方々には、最善を尽くして、音楽の素晴らしさを広めてもらいたい。そう思ったのです」
おお、これは熱い展開だ。俺は声楽家を目指しているわけではない。それでも憧れを感じずにはいられない。奈央も早く戻ってきてくれれば、青木先生への誤解(というか不快感)をなくすことができたのに。腹も空かしているだろうから。
その後、大浴場で汗を流し、野郎四人は自分たちの部屋に帰還。誰からともなく布団を引っ張り出し、すぐに眠りに就いてしまった。
今日は疲れた。全身運動をあれだけ長時間行ったのだから、無理もないことだ。当然、枕投げもプロレスごっこもなし。俺たちは馬鹿だから、そんな低俗な遊びをして寝不足に陥るのでは、などと思っていたのだが、その心配は杞憂だったらしい。
そこまで考えて、俺もまた深い眠りの底へと落ちて行った。
※
奈央が、歌っている。完璧な音程と完璧なタイミングで。楽譜に書いてあることを、機械的に処理しているように思える。
おっと、バリトンの出番だ。俺も歌い出さなくては。しかし、こうして歌っているのは二人だけ。俺と、奈央。
やがて俺は違和感を覚える。奈央の声に、感情がないのだ。まるで、結婚披露宴の聖歌隊で、機械人形とアルバイトをしているような錯覚に陥る。
俺は胸の中で問うた。
奈央、お前はそれでいいのか? こんな無感情な歌い方で、他人を感動させることができると思っているのか? それが、お前やお前の姉さんが求めたことなのか? しかし、当然ながら今この段階で尋ねることはできない。
その時だ。俺は足元から、何かがせり上がってくる感覚を得た。それは冷たく、硬く、何かを拒絶するような感覚。
これは何だ? しかし、視線を落とすことはできない。今は歌唱中なのだ。
やがて、曲が最高の盛り上がりを見せる時、俺ははっと気づかされた。自分の声が、無味乾燥であることに。
そんな馬鹿な。あれほど練習してきたのに、どうしてこんな不愛想な歌い方しかできないのか? これでは、披露宴はおじゃんになる。せめて、一緒に歌っている奈央が、もっと感情的になってくれれば。
だが盛り上がりは、一向に明るくはならない。冷徹な響きによって形成されている。
そうだ。俺が感情を込めなければ。俺はブレスをし、息を整える。だが、今度は音程が怪しくなってきた。
今度は頭頂部から、不自然に熱い感情が下りてくる。焦りだ。これではいけない。このままでは駄目だ。それが、余計に焦りを助長していく。
これでは、この発表の場は失敗に終わってしまう――。
※
「ッ!!」
気づいた時には、俺はブランケットを跳ね除け、布団から上半身を起こしていた。
呼吸が荒く、嫌な汗をかいている。
「夢……」
俺は額に手を遣った。ぬるり、と嫌な滑り方をする。
周囲を見ると、真っ暗な中ではあるものの、他三人が爆睡していることは確認できた。って、哲司はこんな時でもちょんまげは崩さないんだな。
そんなことはどうでもいい。
この部屋の空気は、今しがた見ていた『無感動な夢』の残滓が沈殿している。ここに居続けることは、とてもできそうにない。
俺はそっと部屋を抜け出し、共有フロアへと向かった。
共有フロアは、廊下の端、階段に繋がる部分に設けられている。自動販売機が二台、長いテーブルが二つ、それに対応するパイプ椅子が数脚。
俺はぼんやりとした頭で(それでも財布を持ってきたのは幸いだった)、自販機の前に立った。並べられている缶ジュースのボタンを指でなぞる。あ、まだ硬貨を入れていない。俺がポケットから財布を取り出そうと横を向いた、その時だった。
「啓介先輩」
「ひどぅわっ!?」
そこには少しやつれた様子の、しかし見間違いようのないツインテールの少女が立っていた。
「ああ、奈央か……。って、お前今まで何してたんだよ!?」
「自主練です」
短く、そして淀みなく答える奈央。うむ。間違いなく奈央だ。聞けば、ずっと女子部屋でキーボードや楽譜とにらめっこしていたという。
「腹、減ってないか?」
「減ってます」
きゅう~、と胃袋が捻じれるような音がする。俺は自分の首がカクンと折れるのを感じた。こうも真っ向切って肯定されるとは思わなかったのだ。
「そ、そう言われてもな、食堂も売店も閉まってるし……」
「構いません。私は大丈夫です」
「嘘つけ! 現に腹、鳴ってるじゃねえか!」
すると奈央は、顔を真っ赤にして俯いてしまった。あ、言い過ぎたか。女子と腹の具合を話し合うのなんて、流石にデリカシーに欠ける行いだ。
「あ、わ、悪い……」
萎縮する俺に向かい、しかし奈央は見事な切り返しを見せた。
「先輩、唐突ですけど」
「なん、な、何だ?」
「私、明日からはちゃんと青木先生のなさる練習に参加します。それは心配しないでください」
「そうか」
俺は、今まで意識の底に沈んでいた問題が瓦解するのを感じた。よかった。これでフルメンバーで練習に臨むことができる。
「でも、青木先生が厳しい方だということは聞いています。私のことはいいですから、先輩は――先輩は、凛子さんのことを支えてあげてください」
僅かに口ごもるようにして、奈央はそう言った。
「え? 皆にとって大変なのはこれからだぞ? 互いに支え合わないと」
「私は大丈夫です」
奈央は決意に満ちた目で、俺の顔を見つめた。しかし、その目の中には、どこか寂し気な色が混じっている。その寂しさは、徐々に複雑な感情に分裂していった。その中に、微かな苛立ちが見て取れる。
「先輩、気づいてないんですか? 本当に?」
そこでやっと、奈央は顔を逸らした。緊張が緩み、呆れた様子だ。
俺が言葉を継げないでいるうちに、奈央はこう言った。
「私は楽譜が恋人で構いません。だから、先輩は凛子さんを大切にしてあげてください」
「え、あ……」
反論の余地はない。というか、『反論する』ということすら思いつかない。
そんな俺を滑稽に思ったのか、奈央はとびっきりの笑顔をみせた。普段の彼女からは想像もつかない。しかし、いざ見てみれば、彼女にぴったりの女子高生らしい笑みだった。
「私はもう寝ますね。先輩も、早く寝た方がいいです。風邪なんて引いたら、何のための合宿だったのか、分からなくなっちゃいますからね。それじゃ、おやすみなさい」
奈央はゆっくりとお辞儀をし、そのまま颯爽とした足取りで去っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます