第23話

 青木先生は、実に淡々と指揮をした。俺たち自身が、今までどのように緩急をつけてきたのか。それを少しずつなぞるように、皆と視線を合わせながら、先生の手は機械のように動く。


 やがて自由曲まで歌い終わった俺たちを前に、『はい、結構です』と一言。何か分かったのだろうか?

 つるりとした顎に手を遣った青木先生。その視線は宙を彷徨っている。まるで、そこに楽譜が浮かんでいるかのように。

 数秒後、青木先生は視線を下げ、俺たちと目を合わせた。


「ソプラノ、桜野凛子さん。課題曲の前半、お一人でお願いできますか?」

「あっ、はい!」


 元気に答える凛子。だが、そこにいつも以上の緊張感が込められているのを、俺は察した。確かに、皆の前で一人で歌うのは――そして試されるのは、気分のいいものではあるまい。どこか圧迫感を与えるような雰囲気が、青木先生から放たれている。


 ピアノのそばで控えていた大石先生が、ソプラノパートの鍵盤を押し込む。ハミングで音を取る凛子。青木先生は身体を凛子の方に向け、再び機械的な指揮を始める。それに合わせて、凛子は歌い出した。

 俺は自分の楽譜上の、ソプラノパートを目で追った。同時に凛子の声を分析する。音程はだいたい合っているが、緊張のためか、微かに震えている。あの凛子を緊張させるとは――繰り返すようだが、この青木という先生、只者ではない。


「はい、結構です」


 青木先生は手を止めた。そして一旦目を落とし、再び顔を上げて真っ直ぐ凛子の方を見た。

 そして一言。


「凛子さん、あなたの発声は、合唱には向いていないようですね」

「……?」


 言葉の形を取らない空気音が、凛子の喉から発せられた。彼女のみならず、俺たち全員がなんらかの音を発したと思う。

 それに構わず、青木先生は続ける。


「県大会まであと一ヶ月です。修正は困難を極めるかと思います。桜野凛子さん、あなたはそれでも出場を望みますか?」

「ちょっと待ってください!」


 皆の視線が俺に集中する。それでようやく、今のが自分の言葉だということに、俺は気づいた。


「どうかしましたか、吉山啓介くん?」


 青木先生は、涼しい顔をして俺に目を向けた。ええい、喋ってしまえ。


「い、いくらなんでもそんな言い方はないと思います! 皆、頑張って練習してきたんです! それなのに今更、出場するかどうかを訊くなんて、あんまりです!」

「今のソプラノは響きが鋭すぎて、他のパートから大きく乖離しています。あと一ヶ月で修正できるかどうかは、かなり怪しいところです。それでもあなたは、凛子さんにソプラノを任せますか?」


 俺は返答に窮した。と同時に、情けなくもなった。できるだけ考えないようにしていたことだけれど、凛子の存在は俺の中で、だんだんその影響力を増していた。俺の心が惹かれている、と言ってもいいかもしれない。

 そんな凛子を擁護しようとして、俺は見事に言いくるめられてしまった。大袈裟な表現かもしれないが、今の俺に、彼女の手助けをできるだけの力はない。


 俺がぎゅっと両の拳を握りしめた、その時だった。

 パン! という、軽くも勢いある衝撃音が、ホールに響き渡った。

 はっとしてそちらを見ると、奈央が楽譜を床に叩きつけるところだった。あれほど楽譜を大切に扱っていた奈央が。


 皆が呆気に取られる中、奈央は振り返り、ホールの奥に置かれたキーボードを手に取った。それから引き帰してきて、楽譜を拾い、青木先生の前を堂々と横切って、ホールの出入り口に向かって行く。


「ちょっと奈央さん、どこへ行くの?」


 これは予想外だったのか、大石先生は口早に尋ねた。


「自主練してきます」


 そう言って、奈央はギロリ、と睨みつけた。大石先生ではなく、青木先生を。


 その時、俺の足は自然と動き出していた。まるで金縛りから解かれたかのようだ。向かう先には、奈央の背中がある。

 凛子はまだ、先生方や二、三年生に教えを乞う余裕があるかもしれない。だが、奈央は完全に我を見失っている。これはマズいだろう。


「お、俺もちょっと!」


 俺は楽譜を片手に、駆け足で奈央を追いかけた。周囲の視線を気にしている余裕はなかった。

 奈央が扉を開け、廊下に出る。閉まりかけた扉の隙間に身体を滑り込ませ、俺はようやく奈央に追いついた。


「奈央……」

「そういえば、皆さんには私の過去をあまり話していませんでしたね」

「え?」

「新入生歓迎会があった日のこと、啓介先輩は覚えていらっしゃいますか?」

「あ、ああ」


 奈央は言っていた。『歌うことで自分の実力を確かめたい』と。


「少し早いですが……というか、唐突ですが、啓介先輩にはお教えします。私がどうして、厳しい姿勢で歌うことに臨まなければならないのかを」


         ※


「私の姉は、梅田真央といいます。結構歳の離れた姉でした。私が小学生の頃、姉は東京の音楽大学に通っていました。それまで、つまり高校時代は、近所の音楽教室でお世話になっていました」

「その音楽教室って……」


 奈央は顔を上げ、真っ直ぐに俺を見た。


「ええ。吉山タキ先生、つまり先輩のお婆様が指導してくださる教室です」

「確かそこには、大石先生も?」


 頷く奈央。


「吉山先生のご指導のお陰で、姉は音楽大学に無事入学を果たしました。私たち梅田家の人間は、皆大喜びしたものです。当時、既に音大生だった大石先生も」


『でも』と言いかけて、奈央は俯いた。小柄な体躯が、より小さくなったように見えた。


「姉が大学二年生の時です。交通事故に遭ったのは」


 俺は自分が唾を飲む音が、全身で反響したかのように思われた。


「避けようのない事故でした。加害者も真摯な態度で、これ以上ないと思えるほど、誠実に刑に服してくれました。だからこそ、私は苦しかった」

「苦しかった?」


『悔しかった』『悲しかった』ではなく、『苦しかった』と?


「私にできることは、そうそうありはしません。姉は死んでしまったのですから。だからこそ、私は姉の夢を――世界的な合唱団に入って、人々に感動を伝えることを、自分の生きる目標にしたのです」


 俺は遂に、言葉を失った。これが、奈央が歌うことに関して厳しかった理由なのか。

 しかし、あと一つ疑問がある。それを上手く口にできずにいると、奈央は目だけを上げて、俺の顔を視界に収めた。


「どうして私が光方高校に来たのか、疑問なのですね?」


 図星だった。俺は頷くこともできず、パチパチと瞬きすることで、肯定の意を表した。


「合唱部の顧問が大石綾子先生だと聞いたからです。気心が知れているし、信頼できる。指導力があることは、幼い私にいろんな音楽のお話をしてくださったことで分かっていました。だから私はここにいるんです」


『でも』という接続詞を挟み、奈央は続ける。


「実際に先輩方と活動するようになって、私は自分が、自分のためだけに歌っているということに気づきました。それではいけない。そう考えるきっかけをくれたのは、誰あろう凛子さんです。だからこそ、私はあの青木先生という人が許せない。彼女の努力を踏みにじって……!」


 俺は最早、『言うべき言葉が見つからない』どころではなかった。『何も考えられない』と言った方が正しい。頭がいっぱいになってしまったのだ。婆ちゃんの部屋にあった写真。そこに写っていた大石先生と奈央のお姉さん。

 彼女たちの中で、そんな過去が展開されていたなんて……。


「な、奈央」

「私は大丈夫です」


 奈央はその細い指で目元を拭い、顔を上げた。


「それより先輩は、凛子さんと一緒にいてあげてください。あなたなら、きっと私以上に彼女を支えることができる。お願いします」


 くるりと背を向け、キーボードを抱え直す奈央。


「お前はどうするんだ?」

「さっき言ったでしょう? 自主練です。今日中には戻ります。皆さんに伝えてください」


 素っ気なく言い放ち、奈央はつかつかと廊下を歩いて行った。俺に出来るのは、その背中が小さくなり、階段のところで曲がって消えるのを見つめることだけだった。


         ※


 俺は引き帰し、第一ホールの扉の前に立った。すっと息を吸い、ノックする。


「吉山啓介です。戻りました」


 すると、扉の向こう側で聞こえていた声が止んだ。


「失礼します」

「おお、戻ったか、啓介殿!」


 声を上げたのは哲司だ。


「あれ? 奈央さんは……」


 控え目な蓮の言葉に、俺は『今日中には戻るらしい』ということを告げた。


「で、今の状況は?」

「いやはや、青木先生様々であるな! 的確なご指導をしてくださる!」

「ほえ?」


 幸之助の言葉に、俺は間抜けな声を上げた。そのままカクカクと首を回し、青木先生を視界に捉える。


「いやあ、先ほどはすまなかったね、啓介くん。私の教え方として、まずは強烈に相手の弱点を突く、という方針があってね。奈央さんには合わなかったようだ」

「そ、そうですか」


 いつの間にか、ホールに張り詰めていた緊張感はやや緩んでいる。

 あ、そうだ。


「凛子、大丈夫か?」

「あ、先輩! 今、もっと合唱に適した呼吸法を教えてもらっているんです! 先輩も早く!」


 それを聞いて、俺はその場に膝をついた。


「ちょ、啓介先輩!?」


 これが安堵感からの脱力なのだと説明するのに、しばし時間がかかった。

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