第22話

「さあ皆、準備はいいかしら?」


 何故か朝っぱらからテンションの高い大石先生の言葉に、皆はもごもごと返答した。

 合宿に出発するにあたり、それが遠出であるのは分かる。だが、どうして集合時間を朝の五時なんかにしたのだろう。いくらなんでも早すぎる。

 まあ、低音パートは寝覚めの時の方が響きがいい、っていうし、これはこれで妙案なのかもしれない。が、だったら他のパートはどうなる? やっぱり先生の気まぐれか。


 あの日、定演の録音を聞いた日から、俺たちは一層精力的に活動してきた。まずは、曲目の決定。これはすんなり決まった。課題曲は、混声四部合唱の宗教曲。自由曲は、童謡の合唱編曲版だ。


 合宿前の時点で、皆それなりに歌えるようにはなっていた。が、『それなりに』だ。県大会に臨めるクオリティには程遠い。それを一気に基礎から叩き直し、発声やら何やらから見直そうというのが、今回の合宿の主な狙いである。


 移動には、先生が自前の大型車を使ってくれることになった。大家族向けの八人乗り。部員六人+大石先生、それにキーボード数台を助手席に置いたことで、ちょうどいい具合になった。が、皆それぞれに大きな荷物を抱えているので、結局すし詰め状態になってしまった。


 集合場所は、高校の教職員用駐車場。俺がスポーツバッグを抱えて乗り込むと、先に奈央が乗り込んでいた。


「奈央、隣、いいか?」

「……」

「奈央?」


 まあいいか。奈央は俺をシカトしているのではなく、楽譜に見入っているのだ。一秒たりとも無駄にしない、という意志の強さが感じられる。俺も見習わなくては。


「あれ? 凛子ちゃん、遅いわね」


 先生が呟いたその時、


「わあーーーっ! ごめんなさーーーい!」


 凛子が駆けてきた。スポーツバッグと、小振りなポーチを肩からかけている。凛子は勢いそのままに、俺の隣に飛び込んできた。奈央の反対側だ。

 って、あれ? これって。


「啓介殿、羨ましいものでござるな」


 後ろから、恨み言のような声が聞こえてくる。哲司だ。


「え? 何?」

「両手に華とは、まさにこのことでござる」


 俺は右を見て、左を見た。うむ。確かに。


「って待て待て待て! これは偶然だ!」

「まったく啓介殿、とんだ色男でござるな」

「だから偶然だって!」

「飽くまでシラを切るつもりか!」


 俺は盛大にため息をついた。

 だが、ここで違和感を覚える。この会話に混ざってくるべき人間がいないのだ。

 蓮が割り込まないのはいつものこと。しかし、幸之助が口を挟んでこないのは、一体どうしたことか。


 俺が後部座席を見ると、幸之助と目が合った。にも拘らず、彼は曖昧な表情を浮かべただけで、何も言わない。やはり、部長としての重圧を感じているのだろうか。合宿という一大イベントを前にして、緊張しているのだろうか。昨日までは、普通の幸之助(魔王モード)に戻っていたんだがなあ。


「皆、乗り込んだ? 忘れ物はないわね? よっしゃあ、飛ばすわよ!」

「せ、先生? 安全運転でお願いし……どわあっ!」


 俺の願いも虚しく、先生の愛車は猛スピードで発進した。


「ったく、荒っぽいんだから……。なあ?」


 俺は凛子の方に顔を向けた。が、凛子は俺と目を合わせるや否や、すぐさま視線を逸らしてしまった。微かに頬に朱が差している。

『一体どうしたんだ』と尋ねようとして、俺は自分の二の腕と、凛子の肩が触れ合っていることに気づいてしまった。


「あ」


 あれ? どうして俺は顔が火照っているんだ? 狭いんだから、多少身体が触れてしまうのは仕方ないだろうに。そう思ってはみたものの、頭には血が上るばかり。加えて、二の腕がジリジリと焼かれるような感覚に囚われる。


 俺は軽く咳払いをして、しばし口を閉じることにした。


         ※


「うい~、着いた着いた!」


 情け容赦のない運転の後、真っ先に車外へ出たのは大石先生だった。

 

「ほ、ほら、凛子、降りてくれよ」

「あっ、は、はい」


 俺が促すと、凛子ははっとした様子でドアをスライドさせた。何をぼんやりしているのだろう? 眠っていた様子でもないようだし。って、他人のことを言えた口ではないが。


 後部座席の野郎三人組は、皆沈黙していた。蓮は車酔い、哲司は爆睡、幸之助は緊張感ゆえに。


「ほら! 皆しっかりして! 幸之助先輩、そっちの二人、お願いします」

「おう。蓮、大丈夫か?」


 幸之助が動き始めたことを確認してから、俺もまた外に踏み出した。

 外は、見事なまでの夏だった。快晴の空の中央から、太陽光が燦々と降り注ぎ、三六〇度を蝉の声で包囲されている。森林の濃い緑の匂いがして、アスファルトは焼き肉ができそうなほど熱せられているように見える。


「あっついわね~! さあ皆、荷物を置いて来て頂戴! 男子は二〇二号室、女子と先生は二〇五号室に!」


 俺たちは合宿所の玄関に入り、冷房の恩恵に預かった。その前で、受付の係員と先生が言葉を交わしている。すると先生はお辞儀をして、勢いよく振り返った。


「鍵、借りたわよ! さっさと荷物を置いて、一階の第一ホールに集合!」


 そう言って、先生は女子二人を連れ、意気揚々と階段を上っていった。


 荷物を置いた俺たち男子陣は、階段を下りて再び一階に至った。しかし、俺の隣には蓮しかいない。


「あれ? 哲司と幸之助先輩は?」

「ああ、哲司くんが先輩と話があるから、先に行っててくれって」


 そうか。哲司のことだ、きっと何か考えがあるのだろう。

 俺と蓮が、廊下の表示に従って第一ホールに着くと、ちょうど女声二人組が防音扉の前に立っていた。


「あれ? 大石先生は?」

「先に部屋を出ました」


 奈央が端的に答える。


「どうやら、今回特別に指導してくださる先生がいらっしゃるとか。そのお出迎えに行かれたようです」

「どんな先生だろうね、奈央ちゃん! 優しい先生だといいなあ!」

「凛子、あんまり優しい先生だと、学べることは少ないかもしれないぞ」

「えぇ~?」


 俺の言葉に、大袈裟に肩を落とす凛子。

 そこにやって来たのは、哲司と幸之助だった。


「遅れて失敬! って、先生はまだいらっしゃらない様子でござるな」


 その横で、幸之助は手に提げていたマントを羽織り、『ふん!』と息をついて腕を組んだ。


「うむ! やはり我輩には、この装束が一番似合うようだな! 待たせた、臣下の者共よ! 魔王・倉敷幸之助、ここに復活した!」

「あ、幸之助先輩、さっきまではどうしたんですか?」


 凛子が何事もなかったかのように尋ねる。皆がガクッと体勢を崩す中、幸之助は、わっはっは! と鷹揚に笑った。


「心配かけてすまなかったのう! 我輩の威光は、現在を以て復活し――」

「皆、おっまたせ~!」


 今度は幸之助がすっ転びかけた。


「あ、大石先生!」


 無邪気に手を振る凛子。しかし、先生は一人ではなかった。隣に、長身痩躯の男性を連れている。三十代半ばといったところか。彫が深く、やや青みがかった目をしている。


「さあさあ、こちらの先生のことはちゃんと紹介するから、早くホールに入っちゃいなさい!」


 大石先生に促されて、俺たちはホールに入っていく。が、その前に。

 俺は軽く哲司の肩を叩いた。すると、哲司は満足気に頷き、唇の端をくいっと上げてみせた。やはり、幸之助が復活したのは哲司の差し金だったか。大活躍だな。


 俺は『うわあ~!』という凛子の声に、視線を前方に戻した。同時に、『おおっ』と自分も声を上げる。

 学校の教室の三、四倍はあるだろうか。すごい広さのホールだ。体育館ほどではないにせよ、イメージトレーニングにはちょうどいいだろう。


「はしゃがないで、凛子さん。遊びに来たんじゃないんだからね」

「あっ、ごめん、奈央ちゃん」


 凛子が落ち着いたのを見て、俺たちも定演の時と同じ順番で並んだ。


「さて、皆落ち着いたみたいね!」


 大石先生が、ホワイトボード前の壇に上がる。このスーツ姿の上でも胸が揺れるのが分かるのだから、大したものである。じゃなくて。


「青木先生、どうぞ」


 大石先生に手を差し伸べられ、件の男性が登壇した。穏やかな笑みを浮かべ、すっと背を伸ばす。日本人には珍しく、百九十センチはあろうかという長身だ。


「青木達樹と申します。大石先生とは、音楽大学時代に声楽サークルで、切磋琢磨させていただいた仲です。この度、そのご縁で、皆さんの指導にあたらせていただく運びとなりました。どうぞよろしく」


 声域は、バリバリのベースだった。しかし呼吸が穏やかながら深い。意外と高音域も担当できるかもしれない。


「ええと、皆さんの大会での課題曲と自由曲は暗記させていただきました。早速、お聞かせ願えますか?」


 え? 楽譜を暗記? 最大六パートまで展開する楽譜を、暗記したというのか? この男、只者ではないな。


「さあ皆、じゃんじゃん歌ってじゃんじゃん指摘を受けるといいわ! じゃあ、まず課題曲!」


 部屋の隅に置かれたグランドピアノの鍵盤を叩く大石先生。青木先生の指揮の元、俺たちは大きくブレスして、一気に歌い出した。

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