第21話【第四章】

 翌週、月曜日の放課後。

 俺は意気揚々と、音楽準備室に向かっていた。お袋が録画していたハンディカメラのSDカードを握って。これを見直すことで、今の自分たちの実力を見極めようと思っていたのだ。


 少し図に乗ってしまったきらいはあったが、概ね実力は発揮できていたはず。これが、俺たちの県大会へ向かう起爆剤になれば。そう期待してのことだった。まずは、大石先生に先に観ておいてもらった方がいいかもしれない。


 俺は足取りも軽く、階段を上り切って音楽準備室の前に立ち、ノックしようと拳を上げた、その時だった。


「これじゃあ、全然駄目ですね」


 ……え? 


「そうね。改めて聞いてみると」


 理由は分からない。だが、それがまさに、俺たちの定演でのパフォーマンスの件であることは察しがついた。

 しかし駄目、ってどういうことだ? あれだけ好評を博したというのに? いや、それよりも、一体誰が会話をしている?


 片方、女性は大石先生だ。だがその相手、男性の方は誰だろう。よく聞く声ではあるのだが、何故か脳内で人物特定に失敗してしまう。


「苦労するわね、幸之助くん」

「いえ」


 俺ははっとして息を飲んだ。そうか、この声は幸之助のものだったのか。いつも魔王的な演出を自分にかけていたから、素の声というものが分からなかった。

 だが、これで状況が分かった。顧問と部長が、揃って自分たちに駄目出しをしている。それも、こんなにバッサリと。


 会話は続く。聞きたくないし、逃げ出したいのは山々だ。が、俺は足から根っこが生えたように、その場から動けない。


「これじゃあ、OBやOGの方々に顔向けできませんね」

「私の方にも非はあるわ。今年だけ、特別に体育館での定演を実施したんだもの。あなたたちには、普通教室や音楽室でやるよりも、大きな負担をかけてしまった」

「それはそうかもしれません。でも、大会に出ることを考えれば、体育館程度の広さで十分なパフォーマンスができていないのは、やっぱりマズいでしょう。県大会まで二ヶ月を切っているんです」


 冷たいため息が、幸之助の口から漏れる。


「でも、どうしてそれで幸之助くんが落ち込むの? 今までは記念参加みたいなものだったじゃない、大会なんて」

「まあ、そうですけど」


 不満があるのか、しばし口を閉ざす幸之助。


「今年は何か違うんですよ、先生。凛子はすごい頑張り屋だし、奈央はやたらとシビアに自分たちを見ているし……。彼女たち二人が、俺たち合唱部に新しい風を吹き込んでくれたんです。だからこそ、ですよ。今までの先輩たちに負けるわけにはいかない。覚悟して大会に臨まなければ」


 淡々とした幸之助の語り口に、俺は呆然とした。と同時に、自分が足元から崩れ去っていくような錯覚に囚われた。

 俺が、自分たちは上手くやり切ったと思っていたのは、一種の幻覚だったのだ。せめて家にいる間に、自分だけでも定演の映像を確認しておくべきだった。そうすれば、まだ自覚を促す時間を持てただろうに。


 しかし、幸之助は意外なことを言い出した。


「まったく、部長として情けないです。皆に指導が行き届いていなかったとは」


 俺は危うく、音楽準備室に突撃しそうになった。

 先輩、あんたは悪くない。俺たち全員の練習不足だ。自分だけを責めることはやめてくれ。

 だが、それは言葉として発せられることはなかった。いきなり何者かに、背後から腕を回されたからだ。


「啓介せーんぱい! 何やってるんですか?」


 俺が慌ててその腕を振り払うと、そこには凛子が立っていた。悪戯っぽい笑みを浮かべて。


「り、凛子! 馬鹿、少し黙ってろ!」

「えー? そんなつれないこと言わないで――」

「シッ!」

「むぐ!」


 俺は凛子の口に手で蓋をした。


「おや? 誰か来てるのかしら」


 先生の声がする。マズい。

 俺は凛子の腕を引き、慌てて階段を逆走し、踊り場にまで退却した。


「ちょ、ちょっと! 何するんですか先輩!」

「馬鹿野郎、今はそれどころじゃ――」


 と言いかけて、俺は続く言葉を失った。凛子に対して、自分たちの駄目っぷりをどう伝えればいいのか。いや、凛子は頑張っていた。問題は俺たち上級生にある。

 凛子が訝し気な視線でジロジロを俺を見つめる中、


「啓介先輩、何かあったんですか?」


 階段下から声が響いた。

 振り返ると、奈央を先頭に蓮、哲司が立っている。


「あれ? 啓介くん、今日は定演の反省会だよね? 音楽準備室、って聞いたんだけど」

「え? あ、ああ、そうだな。蓮の言う通りだ。じゃあ、行くか」

「啓介殿、何やらトラブルがあったものと推察致すが……」

「いや、哲司は気にしないでくれ。ほら、行くぞ、凛子」


 すっかり機嫌を損ねてしまった凛子が切り込み隊長となって、俺たちは音楽準備室へ。

 奈央が無言を貫いているのが気にかかるが、きっと思うところがあるのだろう。取り敢えず、全員で顔を揃えなければ。


 俺がそう思った時には、凛子が『失礼しまーす!』と威勢よく音楽準備室のドアをノックするところだった。


         ※


 定演が実際、無惨なクオリティだったことは、皆で聞いてみるなり明らかになった。

 俺は、だんだんと自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。ハモっていない。皆必死に、自分に与えられた音符を追っているだけだ。ただ、観衆が盛り上がっているお陰で、辛うじて『お祭り騒ぎ』くらいにはなっている。だがそれ以上の出来ではない。


 音楽準備室の中央に置かれたラジカセからは、そんな出来損ないの声しか響いてこなかった。ラジカセの載ったテーブルを囲むように置かれたソファには、大石先生と凛子、奈央、それに幸之助が腰かけ、俺と蓮と哲司は呆然としたまま立ち尽くしていた。


 聞き入っていた時間は、演奏当日と同じ丸一時間。できることなら耳を塞いでしまいたかったが、残念ながらそうもいかない。立ちっぱなしであるにも関わらず、俺は全く疲労を感じなかった。感じる余裕すらない。そんな冷たい現実、すなわち俺たちの実力不足が、目の前に立ちはだかっている。


 ――このまま県大会に臨むなんて、無茶だ。


 最後のアンコール曲であるアニソンが終わったところで、ラジカセはぷつりといって沈黙した。

 すると、のっそりと幸之助が立ち上がった。何事かと思い、ゆっくりと顔を上げる皆。そして、幸之助は口を開いた。


「皆、申し訳なかった」


 突然の謝罪の弁に、誰もが呆気に取られた。奈央でさえ、眉間に皺を寄せている。


「部長である俺が、もっと皆を鼓舞して、練習環境を整えるべきだった。すまない」


 ゆっくりと腰を折る幸之助。


「え、えっ?」


 慌てたのは凛子だ。戸惑うのも無理はない。いつもの魔王然とした空気を封印し、口元を歪めた幸之助の言葉は、いつもの彼の調子とは大きく外れていた。先ほどの俺と同じように、蓮や哲司までもが、動揺を隠せずにいる。


「幸之助先輩、あなたと啓介先輩のベースはしっかりしていました。問題があるとすれば、私です」


 視線を下げ、空中のどこかを見つめながら、奈央が呟く。他人よりも前に、自分を責めてしまっている。

 きっと、他パートに対しても、言いたいことは山々だろう。が、それを露呈させたところで、他人を傷つけることにしかならない。それはきっと、奈央がこの三ヶ月で学んだことだ。


「だ、だったら!」


 次に声を上げたのは哲司だった。


「拙者のテノールだって、怪しいものでござる!」

「いいや、僕がもっと上手く凛子さんを支えていれば……!」


 蓮までもが自分を責めている。

 そんな中、一人だけ落ち着いた様子の先生が声を上げた。


「合宿でもしない?」

「は?」


 皆が同時に声を上げた。

 

「だから、合宿だって。よく吹部が使ってる学習施設があるの。車で二時間くらいの山の中にね。まあ、三泊四日もあれば十分でしょう、夏休みに入ったらすぐに始めるから、皆、忘れないでね」

「ちょっ、合宿って、いきなりどうしたんですか?」


 俺はやや声を引きつらせながら、疑問を呈した。何故いきなり合宿になるんだ? 去年まで、そんなイベントはなかったぞ。


「難しいことは考えないの! いい、啓介くん? 一つ屋根の下、同じ釜の飯を食えば、自然と協調性が高まるってもんよ。これ、先生の経験談。納得してもらえないかしら?」


 俺は喉から『はあ』という音を絞り出した。


「じゃあ、先生は早速日程調整に入るから。幸之助くん、後、頼むわね」

「分かりました」


 すると先生は、『まったね~』と陽気な声を上げて、音楽準備室をあとにした。


「あ、あの~、幸之助先輩?」


 控え目な声を上げたのは、凛子だった。


「大丈夫ですか」


 その声を引き継いだのは奈央だ。確かに、マントを羽織っていないと、幸之助のキャラが崩壊するような気がする。


「ああ、俺……いや、我輩は大丈夫だ。逆に、皆に問いたい」


 幸之助は立ち上がり、俺たちの顔をゆっくりと見渡した。


「こんな我輩ではあるが、ついて来てもらえるか?」

「もちろんでござる!」


 真っ先に声を上げたのは、哲司だった。

 

「今日まで矢面に立って、拙者たちの活動を見守ってくださったのは、幸之助殿ではござらんか! 合宿だろうが県大会だろうが、ずっとついて行く所存でござる! なあ、皆の衆!」


 異を唱えるものはいなかった。しかし――合宿って、何をするんだ?

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