第19話
話し合いは、実にスピーディに終了した。言ってみれば、蓮の凝り固まった肩を、哲司が揉み解してやったような感じ。俺はその様子を傍観していた。まあ、二年生会議ということになっているし、俺がその場にいただけでも、何某かの効果は発揮できたのではあるまいか。
具体的には、蓮の勉強スケジュールを哲司が見直してやったのだ。二人の間には、圧倒的成績差がある。もちろん蓮の方が優秀だという意味で。しかしどうやら、『気の持ち方』というものに対する洞察力は、哲司が蓮より、いや、部内の誰よりも広く深く持ち合わせていたようだ。
「つまり、塾のある日は練習が困難、ということでござるな?」
「うん」
随分と申し訳なさそうな態度の蓮。俺は彼の肩やら背中やらをポンポン叩き、リラックスするよう促した。効果があったかどうかは分からない。だが、何もせずにはいられなかった。
「であれば、その練習時間を日曜日に集中させてみてはいかがでござろうか? 平日は一応、活動終了時刻まで、部活に参加はできるのであろう?」
「うん」
蓮は、始めは視線が定まらない様子だったが、だんだん首肯する角度が深くなってきた。自分の中で、納得の度合いが高まっているのだ。
「なら話は早い。蓮殿には、人一倍集中して自己鍛錬に打ち込んでいただく。塾のある月曜と水曜は、練習時間は半分。勉強に集中する。大雑把な案ではあるが、いかがか?」
「うん、それならやってみて、できる、かな……」
「なあに、そう心配めさるな!」
哲司は残り僅かになったポテトをまとめて摘み、『駄目なら別な計画を立てるだけでござる』と告げた。言い終えるや否や、ポテトは一瞬で哲司の胃袋に落っこちた。
正直、蓮だって冷静に考えれば、この程度のプランは立てられたはず。だが、部活と勉強の両方に手足を引かれ、動けなくなってしまっていたのだ。ごくごく軽いパニック症状、とも言えるかもしれない。
それを、第三者である哲司が、蓮から言葉を引き出し、組み合わあせ、『問題なし!』と太鼓判を押してやった。実に尊い行為だと、俺は思う。
そのお陰だろう、ファーストフード店を出る頃には、蓮は実に晴れやかな顔をしていた。
「じゃあ、僕は早速帰って音取りの再確認をするよ!」
「おう! ただし、無理はなさるでないぞ!」
「ありがとう!」
楽し気に蓮の背中に向かい、手を振る哲司。俺はそっと、背後から哲司に近づいた。
「見直したぜ、哲司。お前、前からちょいちょい気の利く奴だと思ってたけど、あんなに簡単に蓮の悩みを解決しちまうなんて」
「なあに」
哲司はさして何でもないことのように、振り向いて肩を竦めた。
「蓮殿のしたいこと、しなければならないことの整理を手伝っただけでござる。大したことはしておらんぜよ」
なんだか語尾の時代考証が曖昧な気がするが、ま、いいか。
「さて、俺も数学の宿題、片づけねえとな」
「うげ。拙者は理科でござる」
俺はふっと口元を緩め、『お互い頑張ろうぜ』と一言。
「言われずともやるわい! せっかく嫌なことを忘れておったと申すに……」
自分のコントロールはままならない、人生相談侍殿だった。
※
「と、いうわけなんだよ、婆ちゃん」
「ほうほう、そうかえ」
婆ちゃんは目を細めて、ゆっくり頷いた。俺が、今回の事の顛末を話していたところだ。
帰宅した時は午後十時半を回っていたし、お袋からは小言を聞かされたが、そんなことはどうでもいい。
俺は、『なんとなく』婆ちゃんと話をしたかったのだ。安心させてあげたい、という気持ちが働いたのかもしれない。
そういえば、この前の古い写真を見つけて以来、俺は婆ちゃんと上手く話せていなかったな。互いに腫れ物に触れるような……というわけではなかったのだけれど。
蓮が抱えていた問題が解決した今、残る問題、主に奈央のことについては、俺は何も情報を得られずにいた。
『うちの婆ちゃんが心配していた』と言えば、もしかしたら奈央は話してくれるかもしれない。自分の胸中にあるものを。だが、そんな訊き方をするのは愚の骨頂だ。
今日、号泣とは言わずとも、涙を見せた奈央。その裏には、きっと心の引っ張り合いがあったはずだ。
自分が上手くなりたいという気持ちと、蓮がなかなか上達しないことから生じる焦燥感。
あの不愛想な奈央とはいえ、一人の女の子であることに変わりはない。彼女は彼女なりに、心が引き裂かれるような思いをしていたのかもしれない。
だが、そんな彼女と歌っていくには、どうにかして確かめなければなるまい。
何故、そこまで実力至上主義になっているのか。彼女の目指す『自分の限界』とは何なのか。『歌う』ということに、どうしてこんなにこだわるのか。
俺がぼんやり思考を巡らせていた、その時だった。
「ゲホッ! ケホッ、ぐぐ……」
俺は反射的に顔を上げ、婆ちゃんを視界の中央に据えた。婆ちゃんは今、コタツに両腕を突いて頭を下げ、咳き込んでいる。
「ど、どうしたの? 大丈夫かい、婆ちゃん?」
そっと手を伸ばし、婆ちゃんの背中を擦ってやる。
「ああ、ああ、薬を……飲み忘れていたようじゃの」
薬? 咳止めか? それとももっと重大なもの、例えば発作を止める錠剤とかだろうか?
俺は婆ちゃんの目の前に、湯飲みが置かれているのを見つけた。手に取ると、まだお茶が残っている。婆ちゃんはといえば、懐から錠剤のパッケージをいくつか取り出すところだった。
「婆ちゃん、これを飲んで。今、水を持ってくるから!」
そんな俺の言葉に、婆ちゃんは咳払いをすることで肯定の意を表した。
襖を開けると、コップを手にしたお袋が立っていた。
「啓介、お婆ちゃんは?」
「今薬を飲んでるところだ。それより水!」
「あっ、はい!」
俺はお袋からコップを受け取り、婆ちゃんの元へ。
「ほら婆ちゃん、水だよ!」
無言でコップを手にする婆ちゃん。唇の端から、僅かに水が零れる。俺はこの時、初めて婆ちゃんの年齢を意識した。いつものんびりしているから実感が湧かなかったけれど、婆ちゃんは八十歳過ぎの老人なのだ。病気の一つや二つ、患っていてもおかしくはない。そして、それが俺に秘密にされているということも。
気づいた時には、婆ちゃんの咳は収まっていた。やや荒い呼吸をしているが、お袋は慌てた様子もなく、背中を擦ってあげている。
その光景を見て、俺は察した。婆ちゃんは、きっともう歌を歌うことはできない。
指導者にはなれるかもしれないが、お手本を示すことは不可能。五、六年前までは音楽教室の先生だったのに、今はそれができなくなってしまった。
信じたくはない。だが、事実は事実だ。
「啓介、あとはお母さんに任せて」
短くそう告げられた俺は、大人しく和室をあとにした。
※
なんだか自室に戻ってきたのが、ひどく前のことのような気がする。現在時刻、午後十一時ジャスト。俺はベッドに腰を下ろし、今日の放課後から起きたことを、脳内リプレイした。
学ランを脱ぎ捨て、しばらくベッドにもたれかかり、哲司の誘いに乗って蓮を説得した。それはいい。だが、今度は『婆ちゃんの体調が悪い』という問題――極めて内輪的な問題が生じてしまった。
いろんなことが立て続けに起こったからだろう、俺の頭の中は、ぐわんぐわんと揺さぶられていた。安心していいのか、不安になっていいのか、よく分からない。仮に不安だったとして、俺にできることは残っていない。
明日、蓮は復調して部活に現れるだろうか? 婆ちゃんのことで、お袋が俺に隠し事をしてはいないか? まあ、これは穿ち過ぎというものだろうが、心配なものは心配だ。
「ん……」
俺は額に手を遣って、かぶりを振りながらベッドに座ったままでいた。
恐らく、十分ほどが経っただろうか。ポケットが軽く振動した。このパターンは、『LINEにメッセージあり』か。
スマホを手に取り、緑色のアイコンをプッシュする。
「凛子?」
そこには、僅か一言、『啓介先輩、大丈夫ですか?』とあった。
一瞬、何のことか分からなかった。が、すぐに思い当たった。きっと放課後の出来事だ。すなわち、蓮がゴミ箱を破壊し、激論バトルが展開され、凛子と奈央が置き去りにされて、俺が罪悪感に駆られて帰宅した(というより逃げ帰った)ことを言っているのだろう。
「大丈夫、蓮のことなら心配するな、っと」
俺はスマホの画面に指を滑らせ、それだけを打ち込み、送信した。
すぐさま既読マークがつき、『分かりました。よかったです』という文章が目に入ってくる。俺は一つ、大きなため息をついて、ベッドに仰向けになった。
だが、一つ疑問が残る。凛子は何故、蓮ではなく俺の心配をしているのだろう?
もちろん、蓮や哲司、幸之助の元にも別々にメッセージを送ったという可能性はある。だが、もしそうでなかったら? 凛子が俺を気にかけてくれているとしたら?
ドクン、と軽く胸が跳ねた。一回だけ。しかし、確かに跳ねた。
「そんな上手い話、ねえよな」
俺はわざと自戒を込めてそう呟き、ホームウェアに着替えて、のそのそと入浴準備を始めた。
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