第18話

「今日は帰すことにしたでござる。あれほど荒れていては、話せるものも話せまい。拙者もまだまだでござるな」


 哲司が戻ってきたのは、缶コーヒーがすっかり温くなった頃だった。凝り固まった空気中に、微かに流れが生じる。

 こんな重苦しい沈黙が停滞しているというのに、よくも堂々と入ってこられたものである。まあ、そこが哲司の長所であり、短所でもあるわけだが。

 集団の空気を読まずに、しかしそれ故に、個人の心に寄り添うことができる。見かけも中身も妙な奴だ。だからこそ、俺たちは哲司が戻るまで何もしなかった。


 いや、本当にそうか? 何もしなかったのではなく、『できなかった』のではないか?

 そう思わされたのは、この場にいる『もう一人の問題児』のすすり泣きが聞こえてきたからだ。


「ど、どうしたの、奈央ちゃん?」


 凛子が囁くように声をかける。奈央は姿勢こそ崩さなかったが、俯いたまま、そして涙滴が流れるがまま、ぴくりとも動かない。テーブルには、既に小さな水たまりができている。


「わ、私が……。酷いこと言ったから……。後輩のくせに……」

「そ、それは関係あるまい!」


 割って入ったのは幸之助だった。


「こうして互いを切磋琢磨する必要があることは、皆が承知しておったことだ! 奈央、お主に非はない!」

「あります!」


 突然、奈央はがばりと顔を上げ、幸之助と目を合わせてから凛子の両肩を引っ掴んだ。


「凛子さんが、私みたいな注意の仕方はよくないって、ちゃんと指摘してくれてたのに……。でも、私が上手く歌いたいばっかりに、好き勝手言って……」

「何を言ったんだ、奈央?」


 そう呟いた俺の眉間に、短い激痛が走った。哲司がチョークを投擲したのだ。


「いってぇ!」

「啓介殿、自分が何を言っているか、分かっておいでか!? 奈央殿の心の傷に塩を塗るようなことでござるよ!」

「だからってこれじゃあ分かんねえだろう、誰が何を言ったかなんて! 俺だけ部外者扱いかよ!」

「今はそれより、奈央の心を落ち着かせてやる方が先決であろう! 啓介、哲司、両人とも黙って――」


 俺たち野郎三人がヒートアップした、その時だった。


「先輩たち、落ち着いてください!!」


 キィン、という耳鳴りを伴って、空気がバッサリと斬り払われた。凛子だ。凛子が叫んだのだ。

 俺は無意識に両耳に当てていた手を離し、ゆっくりと目を上げて凛子の方を見た。


「こんなの、誰も悪くありませんよ! 皆、楽しく歌いたい、そして聞いている人に楽しく思ってもらいたい、そのつもりで練習してきたんでしょう? それなのに仲間割れなんて、絶対おかしいです!!」


 再び沈黙する、大会議室。だが、今回の沈黙は、今までのそれとはまったく違う。

 全身、全方向からチリチリと皮膚を焼かれるような、耐えがたい沈黙だった。

 頑張り屋の凛子までが、目に涙を浮かべている。笑いすぎて出てしまう涙ならまだしも、まさか何かを訴えるために、彼女が泣き出すとは。夢にも思わなかった事態だ。


 俺はなんとか頭をフル回転させて――といっても、残された理性は僅かなものだったが――、事態の打開案を考えた。そして、考えついた。


 蹴飛ばすような勢いで、パイプ椅子から立ち上がる。そして、腰から上の上半身を思いっきり反らし、勢いよく前方に向けて頭を振り下ろした。


「申し訳ありませんでしたあぁあッ!!」


 皆が俺に注目し、何事かと戸惑う気配が感じられる。


 頭の中では、口にすべき言葉は既に構成されていた。

 奈央の言葉を生で聞いていなかった俺が、口出しできる問題ではなかったということ。

 にも拘らず、一時的な部外者としての立場を弁えず、好き放題喋ってしまったこと。

 結果、女子を二人も泣かせてしまったこと。


 しかし、俺の口からそれらの言葉が出てくることはなかった。

 言えるはずがあるまい。こんな状況下で、そんな言い訳じみたことをグダグダと。


 今の俺に出る幕はない。そう思い至り、頭を上げた俺は、振り返りざまに自分の鞄を手に取って、大会議室をあとにした。


         ※


「ちょっと、どうしたのよ啓介?」


 声をかけてきたのはお袋である。俺は何も言わず、振り返りもしないで階段を駆け上がった。


「ああっ、たく!」


 鞄を自室の隅に放り投げ、学ランを乱暴に脱ぎ捨てる。そのままベッドに向かい、身を投げ出した。うつ伏せに倒れ込み、思いっきり拳を枕に叩き込む。


 一体何をやってるんだよ、俺は。人が傷ついていることにも気づけずに。さらには新たに傷つけて。

 日頃から、蓮のことを気にかけてやればよかった。あいつは親父さんが医者だし、自分も医者になりたいと言っていたではないか。それなりの勉強は絶対に必要なのだ。時間のやりくりが大変であることは明らかだった。体力的にも。


 そして凛子と奈央の件だ。後輩を泣かせてどうする。俺もヒートアップしてしまっていたとはいえ、そこは先輩として、毅然とした振る舞いをしているべきだったのだ。それなのに、俺はあの場に困惑と心配を広げてしまった。


「畜生……」


 期せずして、俺は蓮と同じ台詞を吐いていた。


         ※


 ビーッ、ビーッ、ビーッ、ビーッ……。

 ポケットでスマホが鳴っている。勝手に鳴ってろ。俺は現在、面会謝絶だ。


 ビーッ、ビーッ、ビーッ、ビーッ……。

 しつこい。実にしつこい。これはメールやLINEではなく、着信だ。

 俺は緩慢な動作でスマホを取り出し、画面を見つめた。


「……」


 他の誰かだったら、俺はシカトしていたかもしれない。だが、相手は哲司だった。何か事態解決の糸口を見つけたのかもしれない。


「もしもし」

《啓介殿、今お話、いかがでござろうか?》

「構わねえよ」

《ふむ。駅前のマックまでおいで願えるか?》


 なんだ、面と向かって話した方がいいのか。

 俺はしばし、考えた。またあの話題を蒸し返されるのは勘弁願いたい。だが、一人で閉じこもっていてどうにかなる問題でもあるまい。


《啓介殿?》

「ん、あ、ああ。聞こえてる。今から家を出る。十五分くらい待っててくれ」

《御意》


 すると、通話はすぐに切れた。

 俺は鞄のジッパーを開け、財布を取り出し、乱れたシャツもそのままに、部屋から飛び出した。と、その直後。


「あら、啓介!」

「母さん! ノックしてくれよ!」

「今から声かけようとしてたのよ。突然あんたが仏頂面で帰ってきたもんだから、どうしたのかと――」

「ごめん、晩飯食べてくる」


 そう言ってそばを通りかけた俺に向かい、お袋は『あんまり遅くならないでよ!』と声をかけて道を空けた。


 俺は速足で、住宅街から中心市街地へと向かっていた。既に空では、夕日の橙色が夜闇の群青色に押されかかっている。帰りは何時頃になるだろう、という考えが頭をよぎる。が、無視した。今から行われる話し合いに比べれば、門限破りなど些末な問題だ。


 面倒だ。駆け出してしまおうか。そう思った時、再びスマホが鳴った。哲司からのLINEだ。『一番奥のボックス席に』とのこと。


「はいはい、分かったよ」


 そう呟いて、俺は駆け出した。


         ※


 入店した俺は、取り敢えずジンジャーエールを注文。コーヒーの方が落ち着けるかもしれないが、軽く汗をかいた身体が勝手に口走っていた。

 俺は紙カップの載ったトレイを持ち、店の奥へ。すると、ボックス席から身を乗り出す人影がある。哲司だ。こちらに向かって手を挙げてみせる。

 そんな気遣いはいらん。どうせお前のちょんまげで、こちらからはすぐ見つけられるのだから。


「で、何の用だ、哲司?」


 と言って対面式ソファに腰を下ろす。その直前になって、俺は慌てて腰を上げた。


「お、おい! 蓮、お前も来てたのか?」


 蓮は無言。背筋を伸ばして着席し、口を一文字に引き結んでいる。その眼鏡に、近所の居酒屋やカラオケ店のネオンが反射する。


 俺はようやく、哲司の苦労を察することができた。この問題、すなわち蓮の暴力沙汰に関しては、早急に片をつけなければならない。しかし事件の僅か数時間後に、蓮を話し合いの場に引っ張り出すのは、骨が折れたことだろう。

 しかし哲司は、そんな気配は一切見せない。自分で注文したポテトをトレイの上に空けて、『さあさあ!』と食べるよう促している。


 無言を貫く蓮。その隣で、俺は敢えて『いただきます』と手を合わせてからポテトをつまんだ。緊張感を緩和させたかったのだ。


「さて、拙者がお二人にご足労願った狙い……当然、分かっておられるな?」

「僕の態度が問題だって言うんだろう」


 語尾を下げたまま、蓮が呟く。しかし哲司は顔の前で手を振った。


「違う違う! 蓮殿がどうすれば部活と勉強を両立できるか、一緒に考えようと思ったのでござるよ! 拙者らは同期、二年生であろうに!」


 相変わらず明るい口調で、楽しさを演出する哲司。俺も一役買わなければ。


「そ、そうだよ蓮! 終わっちまったことはどうでもいい。俺たちも、お前の将来のこと、一緒に考えるよ。蓮、もしお前が、俺たちから完全に縁を切られたと思っているんなら、大きな間違いだぞ。もし『こいつとは歌いたくねえ!』って思うんだったら、誰もお前をここに呼び出したりはしないさ」


 蓮は軽く眼鏡を上げ、細長い指先で目元を拭った。


「んじゃ、具体的な話に入ろうぜ」


 そう言って、俺は蓮の肩をそっと叩いてやった。

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