第17話

 曲目の決定から、一ヶ月が経過した。

 このメンバーでの合唱部結成から定期演奏会まで、ちょうど折り返しの時期である。

 俺たち合唱部員は、音楽室にあるキーボードの持ち帰りが許可された。二オクターブくらいの音階しかない、とてもコンパクトなタイプだ。

 幸いだったのは二点。持ち運びがしやすい点と、ちょうど数が六つあった点だ。時々、押しても鳴らない鍵盤があるのだが、そこは仕方がない。


 俺たちは各々、家や音楽室(昼休みは空いている)、空き教室などを使って、暇さえあればキーボードに向かう生活を送っていた。平日に練習する時は、最後に合わせて歌ってみることにしている。

 と同時に、基礎練習も見直した。大石先生は、大学では声楽科に在籍していたとのことで、俺たちが先輩から教わり損ねていた技術の開拓に一役買ってくれた。


 ド素人だった凛子も、奈央が(意外にも)世話を焼いてくれたお陰で、随分と上達してきている。未だに『脱力』というイメージを掴み切れていない様子だが、それを言ったら俺たち上級生だって同じだ。


 俺たちは互いを褒め合い、励まし合うことで、順調に実力を伸ばしつつあった。

 そんな中、事件は唐突に発生した。


「ったく、こんな時にプリント回収かよ……」


 俺はグダグダと緩い悪態をつきながら、クラスメイトたちの進路希望表を抱えて職員室に向かっていた。何だよ、よりにもよって今日の日直が俺、って。


 今日は、俺にとっては実に楽しみな練習日だった。一度、全ての曲を合わせて歌ってみることになっているのだ。そこで、露見した弱点や苦手なポイントを指摘し合う。

 ちょっとした地雷臭がしないでもない。が、一度皆で互いの実力を見極めるのも、上達する上で必要な作業だ。俺は自分の弱点をバンバン指摘してもらい、ガンガン修正していくつもりだった。


「それなのにどうして遅刻する羽目になるかなあ……」


 一応、俺が遅れて練習に参加することは、同じクラスの哲司に伝えてある。

 ああ、早くハモってみたい。そうだ。物事は前向きに考えねば。さっさとプリントの束を担当の先生に渡して、会議室に直行しよう。


「よし!」


 俺は歩幅を広げ、顔を真っ直ぐ上げて、職員室に向かった。


 今日の練習場所は、一階の大会議室だ。職員室から階段を二階分下りれば、すぐに到達する。俺は我ながらキビキビとした所作でプリント運搬任務を終え、軽い足取りで階段を駆け下りた。

 勢いはそのままに、大会議室の前方の扉をがらりと開ける。


「お疲れーっす」


 そう言って、鞄を肩から下ろそうとした、その時だった。

 

ドッシャアアアアアアアン!


 と派手な打撃音を伴い、何かが視界の左端から右端へ吹っ飛んだ。その『何か』は、黒板に衝突したものの自身の運動量を相殺しきれず、挙句黒板にヒビを入れ、ゴトン、と床に落っこちた。これは――ゴミ箱か? ひどく凹んでいる。そして、中身を会議室中にぶちまけている。何があった?


 沈黙する室内。そこには、俺以外の五人全員が揃っていた。

 呆然と立ち尽くす皆。いや、皆ではないな。ゆっくりと視線を左に遣ると、蓮だけが俯き、下唇を噛みしめながら、ぎゅっと両方の拳を握りしめていた。


「畜ッ生!!」

「お、おい、蓮!?」


 思いっきり怒声を発する蓮。俺はなんとか声をかけようとしたが、残る四人は呆気に取られてそれどころではないらしい。

 そんな俺たちから遠ざかるようにして、蓮は後ろの扉から駆け出して行った。


 気づいた時には、その背中は廊下の角を曲がって消えるところだった。

 再び視線を会議室内に戻す。すると、ちょうど金縛りが解かれたかのように、哲司が動き出すところだった。


「蓮殿? 蓮殿、拙者の話を聞いてくれーーー!」


 そう言って、哲司は俺には目もくれず、ダッシュで会議室をあとにした。

 

 残るメンツは三人。

 奈央は眉間に手を遣り、凛子はキョロキョロと視線を飛ばしまくっている。一番落ち着いていたのはやはり幸之助だ。それでも、腰に手を当ててかぶりを振っている。


「あー……。皆、何があったんだ?」


 俺は、取り敢えず声をかけてみた。というより、発してみた。だが、今の光景があまりに刺激的過ぎて、自分の声だという感覚が失われている。


「おお、啓介ではないか。まあ、そこに座ってくれ。凛子、奈央、お主たちもな」


 しかし、


「私、ゴミを片付けます」

「あ、じゃ、じゃああたしも!」


 女子二人は箒と塵取りを手に、掃除を始めた。

 本当に、何があったんだ?


         ※


「いやあ、参った参った」


 そう言ってパイプ椅子の背もたれに体重をかけながら、幸之助は缶コーヒーをすする。一年生の女子二人は、両手で缶コーヒーを握りしめ、俯きがちにその蓋のあたりを見つめている。


 凛子と奈央が清掃作業に入った時、俺は五百円玉を幸之助から頂戴していた。なんでも、『缶コーヒーを、今いる人数分買ってきてくれ』とのこと。これは幸之助の奢りと思っていいのだろう。俺は一旦昇降口のそばまで足を運び、自販機から缶コーヒーを買ってきた。


 その道のりは、一言で言えば『台風が過ぎ去ったような感じ』だった。皆が廊下のあちこちで、足を止め、振り返っている。それだけ蓮は、凄まじい気迫でダッシュして行ったのだろう。何があったかはおいおい合唱部員に尋ねるとして、とにかく蓮と、その説得に向かったらしい哲司の身が案じられる。


 そんなこんなで、俺が缶コーヒーを四本買い込み、大会議室に戻って、着席してから現在に至る。


 突然の事態に動揺している、という点では、俺には説明を受ける権利がある。なにせ部内のトラブルには違いないのだし、俺だけに事態が明かされない、ということはなかろう。

 だが、初めて蓮が激昂したところを目にした衝撃は大きかった。先ほどは『何があったんだ?』などと安易に尋ねられたが、一旦事態が鎮静化してしまうと、逆にそのトラブルの深刻さが心に染み渡ってくる。

 俺は、誰かが自分から説明してくれるのを待つしかなかった。


 幸之助が一番頼りになるはずだが、彼もまた、『参った参った』と繰り返すばかり。気楽そうにしているが、魔王としての覇気が失われていることはぱっと見で分かる。


 俺が幸之助から視線を逸らした、その時だった。ズズッ、と椅子が引かれる音がした。奈央が立ち上がろうとしている。


「啓介先輩は、私が何を言ってしまったか、ご存じないんですよね。責任者として、説明します」

「あっ、奈央ちゃん……」


 凛子は不安げに奈央を見上げるが、奈央は一瞥もくれない。逆に、俺に対しては刺すような視線を送ってくる。奈央の決意のほどが伝わってくるようだ。


「蓮先輩を傷つけたのは、私です。申し訳ありません」

「あ、ああ」


 俺はやっと、中途半端な音を声帯から発することができた。そこで改めて尋ねた。『何があったんだ?』と。


 要約すると、次のようになる。

 俺が遅れて到着することを哲司から聞いた皆は、取り敢えず俺抜きで練習を開始した。しかし、どうにも蓮の調子が悪い。それを指摘したのが奈央だ。『どうかなさったのですか』と。

 しかし、蓮は答えることなく、身体を硬直させて立ち尽くすばかり。それを、奈央が言い咎めたのがマズかった。こう言ってしまったのだ。『練習不足ですね』と。

 すると蓮は、そばにあったゴミ箱をいきなり蹴り飛ばした。次の瞬間、すなわち俺が入室してからの様子は、俺も見た通りである。


「あー、そういうことか」


 俺はすぐに察しがついた。どうして『練習不足』という言葉が、蓮の心をえぐる結果になったのか。


「皆そうだと思うけど、定期テスト、近いよな」


 俯く女子二人の横で、幸之助はしきりに頷いている。じっと幸之助を見つめていると、とりわけ一つ、大きく首肯した。今度は俺が説明する番らしい。


「蓮は、医学部志望なんだ。だから今から猛勉強してる」

「い、医学部!? 凄いですね!」


 明るい声を上げたのは凛子だ。が、すぐに場違いであったことに気づき、肩と視線を落とした。場が落ち着くのを待って、俺は言葉を繋ぐ。


「昨日、蓮の通ってる塾の方で模試があったらしくてな、あんまり手応えがよくなかったらしい。それで、精神的に追い詰められていたようだ。おまけに、定期テストが近いとなれば、あいつにかかる負担は半端じゃないだろうな」


 と、いうのは、今朝昇降口で哲司が言っていたことだ。たまたま蓮と一緒に登校したのだが、その時の落ち込んだ様子を見て、察しをつけたらしい。こういう感覚を捉えるのは、哲司の得意技だ。まさか、あのちょんまげがセンサーになっているわけではないだろうが。


「まあ、そんなところだろうとは思っておったがな」


 幸之助は、太い眉毛の間に皺を寄せながらそう言った。


「だから、私の気配りが足りなかったんです。私が『練習不足だ』なんて言わなければ……」


 俯く奈央。

 蓮が、勉強と部活で身を裂かれるような思いであったことは、一年生には想像できまい。

 しかし、まさかこんな事態に陥るとは。俺は大きくため息をついて、肘の上で組んだ指の上に顎を置いた。

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