第16話

「啓介先輩!」

「……」

「啓介先輩ってば!」

「お、おう」


 凛子に肩を揺すられ、俺ははっとして、意識を現実に振り向けた。


「先輩がぼーっとしていらっしゃるのは珍しいですね。何かあったんですか?」


 奈央も声をかけてくる。


「すまん、なんでもないんだ」

「定演の演奏曲を決めようって言いだしたのは先輩じゃないですか。ちゃんと聞いてください」

「ああ」


 婆ちゃんの部屋で件の写真を目にした翌日。俺たちは、いつもの会議室にラジカセを持ち込み、定演で歌う曲の選定にあたっていた。

 ポイントは、曲の長さとパートの配分。『長さ』というのは、CD裏に一曲ずつ書かれているから、その中から適当に三~四分のものを選べばいい。問題は『パートの配分』だ。


 大体の曲が四パート、すなわち男声二パート、女声二パートに分かれているのに対し、俺たちは六人。どうしたものか。


「ふむ。バスは我輩一人でなんとかして進ぜよう。まだ声量に余裕はあるからな」


 幸之助の意見はもっともだ。ということは、残り三パートを五人で。


「トップテノールとソプラノ、セカンドテノールとアルトを一組にしてしまうのはいかがでござるか? 一年生だけで一パートを担当するのは、荷が重いように思われるでござる」


 確かに、哲司の指摘も的を射ている。それに反論したのは、奈央だった。


「待ってください。あたしは一人で平気です」


 ズバリ言い切った奈央。確かに、奈央の実力だったら、荷が勝ちすぎるということもなさそうだな。


「じゃあ、アルトは奈央一人に任せるとして、残り二パートを三人で分けるわけだが」


 俺が話を進めると、自然と残りは決まってしまった。ソプラノとトップテノールを組ませ、俺がバスに回る、という構図だ。まとめてみると、


〇ソプラノ:高峰蓮、桜野凛子

〇アルト:梅田奈央

〇テノール:二宮哲司

〇バス:倉敷幸之助、吉山啓介


 という感じ。これなら、ソプラノとバスがそれぞれ二つに分かれる曲にも対応できる。ちなみに、蓮は凛子の一オクターブ下で歌ってもらうことになった。


 蓮が黒板にパートを書き出してくれるのを見つめながら、俺たちは曲の選抜作業に戻った。今は宗教曲、すなわちイエス・キリストや聖母マリアを讃える曲を聞いている。


「うーん、やっぱり眠くなっちゃうなあ」

「おい凛子、寝るなよ」

「先輩だって、さっき寝てたじゃないですか!」


 ぷくーーーっ、と頬を膨らませる凛子。


「あれは寝てたんじゃないの! 考え事をしてたの!」


 と言い返したが、今度は奈央が


「いずれにしても、啓介先輩の集中力は削がれていたわけですね」


 と痛いところを突いてきた。


「あーもう! 俺もちゃんと聞くから、あんまり難癖をつけないでくれ!」

「はいはい、皆、落ち着くでござる!」


 哲司がパシパシと掌を打ち合わせながら、その場を静めてくれた。それはちょうど、俺が持ち込んだCDのうち三枚目を聞き終わった時だった。


「では、今度は我輩が持参した曲を披露いたそう」


 そう言って、CDを取り換える幸之助。その横に置かれているCDの山を見て、俺は小さくため息をついた。


         ※


 午後六時。文化系の部活の終了時刻だ。俺たちはCDを回収し、ラジカセを音楽室に戻して、昇降口へと歩いていた。


「ふわーあぁあ……」

「凛子、寝てたろ」

「むにゃ? 寝てませんよ」

「嘘つけ!」


 手刀を振り下ろし、軽く凛子の頭部に当てる。


「きゃん! 啓介先輩の意地悪! 自分のことは棚に上げて!」

「だから俺は考え事をしてたんだよ! 寝てたわけじゃ――」


 おっと、これではまた奈央に叱られるな。俺は口をつぐみ、凛子から顔を逸らした。


 今は四月の中旬。時期的に、この時間帯の夕日は見ものである。橙色に染まった廊下を、俺たちは進む。人通りの少なくなった廊下を歩いていると、この学校の生徒は俺たち六人だけなのではないか、という錯覚に陥る。


 しかし、問題は奈央だよなあ。一体どんな問題を抱えているのだろう? 婆ちゃんは『奈央が自分から話すまで待て』なんて言っていたけれど。まさか、こちらから尋ねるわけにもいかねえしな。


 ふっと、視線を奈央の横顔に向ける。無表情を装っているが、実際はどうなのだろう。

 自分の実力を発揮することに、随分とプライドの高いやつだとは分かったが。彼女の合唱に対する態度を決定づけたのは、もしかしてお姉さん、梅田真央がきっかけなのだろうか?

 進展しない思考に、俺は思わず肩を竦めた。


「どうしたんですか、啓介先輩」


 顔を上げると、奈央と目が合った。眼鏡の奥から、微かに攻撃性の混じった視線が注がれる。頑固者だから、そういう風な印象を他者に与えてしまうのだろう。


「あたしの顔に何かついている、とでも?」

「えっ? ああいや、なんでもない」


 俺はその目から逃れるように、足早に昇降口へと向かい、結局一人で家路についた。


 その日の夜、夕食を終え、宿題を片付けていた俺の耳を、微かな電子音が震わせた。スマホがLINEを受信したらしい。


「哲司から……?」


 メッセージに目を落とす。


《何か心配事や悩みごとがあるようでござるな。拙者でよければ相談なさるがよろし》


 俺は声を立てずに笑った。随分と気遣いのできるやつじゃないか、哲司は。まあ、去年から相変わらず、といったところだけれど。


 俺は『問題なし。気遣いに感謝』とだけ打ち込み、返信した。

 昼間に考えることが多かったためか、俺は思いの外、しっかりとした睡眠を取ることができた。


         ※


 その週の金曜日。

 定演曲の最終選考を行うことになった。言うまでもなく、いつもの会議室にて。

 今のところ、曲目は流行歌も含めて十二曲にまで絞れていた。これなら、大体一時間くらいの演奏時間となる。去年と同規模だ。メンバーは少ないが、弱音を吐いても始まらない。


「あとはこれを、大石先生に見せればいいんですよね!」


 相変わらず、凛子は楽し気である。まあ、あの大石先生が、部員に『NO』を突きつける公算は微々たるものだから、俺は『ま、そうだな』とだけ答えておいた。


 その時、ちょうど黒板側の扉ががらりと開いた。大石先生が、片手を挙げながら入ってくる。噂をすれば、ってか。


「やっほー! さてさて、曲目は決まったかなー?」


 いやに上機嫌な先生。俺は敢えて不愛想に『ええ、一応は』と応じる。


「どうしたのよ啓介くん! 浮かない顔して、失恋でもしたの?」

「違うわ!」

「啓介、それは事実なのか? 我輩より先に女子に手を出すとは!」

「なるほど、先日お悩みの様子だったのはそのせいでござったか……」


 詰め寄る幸之助と哲司の前で、俺は腕で大きなバッテンマークを作った。


「失恋なんかじゃない!」

「はッ! まさか恋愛成就……!?」

「色恋沙汰から離れろ、哲司!」


 などなど言っていると、俺は横から頬に指を当てられた。結構痛い。


「ッ! 何するんだ、凛子!」

「何でもないですよーだ! あっかんべー!」

「何もないなら人を突くな! まったく!」


 俺は、話題を逸らした張本人である先生を睨みつけて、『何かあったんすか?』と尋ねた。


「そうそう! 皆、喜んで! 今年の定演、体育館を使えるわ!」

「……え?」


 皆の頭上に『?』が浮かぶ。


「ちょっとー、もっとリアクション取ったらー? 驚くとか喜ぶとか、何かあるでしょー?」


 唇を尖らせる先生。

 確かに、俺たちはもっと騒いでもよかったのだろう。喜び勇んで踊り出してもよかったかもしれない。理由は単純で、音楽室に比べれば、体育館の方が遥かにグレードが上がるからだ。同じ公共施設の一角といえど、広さは段違いである。


 しかし、『演奏場所が広くなる』ことは、状況の好転ばかりを指すのではない。

 音楽室よりも遥かに声を響かせなければならないのだ。当然といえば当然だが。

 いや、そんなに悩むことでもないか。二、三年生は、新歓で歌って慣れているし、凛子の声はよく通る。そして奈央はかなりの経験者だ。一、二回、体育館で練習できれば、問題はないだろう。


 それにしても。


「先生、よく体育館の使用許可が出ましたね。六月下旬、っていったら、体育館は引退試合を控えた運動部の三年生でごった返しているでしょうに」

「ま、皆休憩も必要ってことよ。学内の施設を使うから、入場料を取る必要もないし。合唱部が運動部の皆を応援する、って言ったら、運動部の顧問の先生方も、悪い顔はしなかったわよ」

「へえ」


 そうですか。


「で、皆、歌いたい曲は決まった?」

「おうとも! これが、我輩らがまとめた曲目リストだ!」


 そう言うと、幸之助は一枚のプリントを手にして立ち上がった。勢いよく先生の前に突き出す。先生は素早く目を通し、『へえ~』と声を上げながら、プリントを自分の元に引き寄せた。


「アニソンも入ってるのね。編曲はできるの?」

「なんとかして進ぜようではないか! 我輩らに不可能はない!」


 だから、どこから湧いてくるんだよ、この先輩の根拠のない自信は。

 ま、いいか。そうでなければ、大勢の前で歌うことなどできないだろうから。


「じゃあ、週末に先生も聞いてみるから、来週からは猛練習ね」

「やったあ! えい、えい、おー!」


 とにかく早く歌いたいのだろう、凛子は元気いっぱいである。対照的に、奈央は淡々と楽譜とにらめっこを始めている。この差はいかんともしがたいなあ。

 ま、上手く練習が進めばいいだけだが。


 皆の顔色を窺っていると、視界に蓮が入ってきた。曲目リストに見入りながら、難しい顔をしている。


「蓮、どうかしたのか?」

「ああ、いや。なんでもないよ」


 アニソンを歌うのが恥ずかしいのだろうか? 今更気にすることもあるまいに。

 だが、その蓮のしかめっ面は、どこか俺の心に取っ掛かりを得たようで、すぐに忘れられるものではなかった。

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