第15話【第三章】
スニーカー、空を飛ぶ。
直後、バシンッ、といい音を立てて、幸之助が後ろに倒れ込んだ。
「いてえ!」
「なに居眠りしてるんすか! 今日は作戦会議するって言ったでしょ、定期演奏会の!」
我ながらいい蹴りが出たものだと思う。お陰でスニーカーが吹っ飛んで、遠距離攻撃が可能となった。
カラオケに行った、翌々日の月曜日。放課後になってから、俺たちはいつもの会議室に集まっていた。
昨日のうちに、定演について話し合おうという連絡は、俺からLINEで回してある。部員六人と大石先生は、全員が出席していた。
「啓介、貴様ッ! 我が臣下の身でありながら、我輩に歯向かうか!」
「誰が臣下ですか、まったく! だから定演の話っすよ、て・い・え・ん!」
「あー、それは皆分かってると思うから。蓮くん、書記、頼めるかしら?」
「分かりました」
先生の指示で、黒板の前に出る蓮。俺は、幸之助がまた眠気に囚われないよう、インクの切れたペンをダーツの矢のように構えて威嚇する。
そんな様子から、蓮は自分が司会進行も務める必要があると察してくれたらしい。
「えーっと、まずはどこで、どんなスタイルでやるかを決めたいと思います。僕たちは、新入部員も含めて六名の少数精鋭です。公民館のホールはもちろん、体育館を貸し切るのも難しいでしょうから、まずは場所について決めたいと思います」
「それではやはり、一般教室を借りるのが無難ではござらんか?」
哲司に向かって頷く蓮。
「最悪でも、音楽室くらいは借りられると思いますので、そこで発表をするのがよいかと。ですよね、先生?」
「ぐー、ぐー……」
「先生?」
きっと何かがあって、深酒でもしていたのだろう。先生は高いびきを立てながら、堂々と眠っている。
俺は自分が何かに覚醒するのを自覚しながら、容赦なく手にしていたペンを先生に向けて投擲した。そして、
「やべっ!」
「いったぁ!」
流石に顔を狙う気にはならなかったのだが、手元が狂って先生の眉間に直撃してしまった。ペンの針先を収納しておいたのは不幸中の幸いか。
「うう、いたぁい……」
「子供じみた声真似しても通用しませんよ。起きててください、先生は顧問なんですから」
ズバッと言ってやった。俺、少し奈央に似てきたのかもしれない。まあ、それはいいとして。
「規模は音楽室でいいですね。では、定演の開演時期を決めたいと思います」
淡々と話を進める蓮。
「確か去年は、六月の下旬頃だったでござるな? 今年もそれを踏襲するのはいかがか?」
「そうだな。俺もそのくらいでいいと思う。あんまり先延ばしにしても、練習に緊張感がなくなるからな」
「我輩も異存はないぞ」
そう言いながら、幸之助は腕を組んでくつくつと不気味に笑う。早くも自分の目立っている姿を想像して、悦に入っているに違いない。
「では、次にどんな曲を歌うかを決めていこうと思います。六月下旬の発表まで、あと二ヶ月半。どんな曲が――」
「はいはい、はーーーい!」
今まで黙り込んでいた凛子が、勢いよく手を挙げた。きっと、歌いたい曲のリストを脳内でまとめていたのだろう。
「えーっと、私が歌いたいのはですね!」
凛子が提案したのは、最近の青春ドラマのタイアップ曲やアイドルグループの持ち曲、それに一昔前のメジャーなラヴソングなどだった。
「おい凛子、俺たちは飽くまで合唱部だ。アカペラ部とはちょっと違う。ちゃんとした合唱曲も歌わないと」
「そ、そうですね」
落ち着いた様子で手を下ろす凛子。
「しかし、多少はそういう曲があった方がいいのでは? もしかしたら、新しい部員の勧誘に使えるかもしれません」
そう言って凛子に助け船を出したのは、意外なことに奈央だった。
「そうだよね、奈央ちゃん! たまにはいいこと言うじゃん!」
馴れ馴れしく肩を叩く凛子に、奈央はうんざりした様子を隠さず、
「飽くまで今後の部のことを考えたまでのことよ」
と一言。しかし、奈央の辟易した思いは、凛子に察せられるところではなかった。この二人は、ずっとこんな凸凹コンビでいくのだろうか。
「では、一般受けのしそうな曲は数曲選ぶとして、合唱曲はどういたす所存でござるか、皆?」
哲司の疑問に、今度は俺が手を挙げた。
「ああ、それなら俺んちにCDがいっぱいあるから、皆で聞いてみるってのはどうだ? 早く曲決めねえと、練習が間に合わないぜ?」
後頭部で手を組みながら、俺は視線を蓮に飛ばした。頭の中には、先日、合唱曲を聞いていた婆ちゃんの姿が浮かんでいる。
「僕は、啓介くんの意見に賛成です。他に何か意見がある方は?」
「ああ、音楽室の合唱部室にも、合唱曲のアルバムがあったな。我輩が手配してやろう」
手配っていっても、ただ持ってくるだけじゃねえか。一応、任せてもいいということなのだろうけど。
「では、明日からどの曲を歌うか、皆で聞いて決めていきたいと思います。本格的な練習を始めるのは、一週間後くらいからでどうでしょう?」
皆が『意義なーし』と答える。
「では、これで今日の会議を終わります」
最後まで司会をやり遂げた蓮に、ささやかな拍手が送られる。俺は振り返り、
「じゃあ先生、先生も選曲に協力を頼み――」
と言いかけて言葉を失った。先生は、パイプ椅子に背を預けたまま、ずり落ちかけていたのだ。いびきをかきながら。
おいおいまたか。うんざりしつつも、俺は一抹の殺気をまとい、立ち上がってもう一足のスニーカーを蹴り飛ばした。先生の顔面に直撃したのは言うまでもない。
※
「悪いね、婆ちゃん。部屋の中漁るみたいで」
「気にせんでええよ、啓ちゃん。可愛い孫の頼みじゃ、断れる年寄りなどいるもんかね」
帰宅後、俺は婆ちゃんの部屋で、合唱曲のCDを探していた。婆ちゃんの部屋は畳敷きで、毎日婆ちゃん本人とお袋が交代で掃除をしている。お陰で未だに、畳のいい匂いがして、俺はこの部屋が好きだった。
まあ、流石に婆ちゃんと一緒に、相撲の中継をラジオで聞いたり、時代劇をテレビで観たりする気にはなれないけれど。恥ずかしい。
「婆ちゃん、割と短めの曲ってあるかな? できるだけたくさん選択肢を用意しておきたいんだ」
「そうじゃのう、えー、よっこらせと」
婆ちゃんはゆっくりとコタツから足を引き抜いて立ち上がり、俺に並んだ。
「ああ、婆ちゃんは座っててよ。場所だけ教えてもらえれば、自分で探すからさ」
「これこれ、わしをそう年寄り扱いするもんでない。寂しくなるじゃろ」
「どっちなんだよ、気遣ってもらいたいんだか違うんだか……」
さっきは『孫は可愛い』と公言していたくせに。それでも、未だに大した病気もなく、元気でいてくれる婆ちゃんを嫌いにはならないし、なれない。やっぱり、婆ちゃんの柔和な笑みには、見ている者をほっと落ち着かせる温かみがある。
それはいいが。
「さて、合唱曲のCDはこのあたりに置いといたかのう」
婆ちゃんの背が縮んでいることに、今更ながら俺は気づかされた。それに、さっきは流してしまったけれど、婆ちゃんははっきりとこう言った。『寂しい』と。ううむ、親孝行ならぬ祖母孝行はしておくべきだな。
「分かったぞい、このへんじゃんな」
「どこ?」
俺は軽く腰を折って、目線の高さを婆ちゃんに合わせる。
「この棚の、そっちの端からここまでじゃ」
「ありがとう、婆ちゃん。何本か借りて、学校で聞いてくるよ」
「別に譲ってあげてもいいんじゃよ、啓ちゃんは可愛い孫なんじゃから」
「む」
俺は照れ臭くなって、後頭部に手を遣った。
その時、隣の棚から、一枚の紙片がひらり、ひらりと落ちてきた。
「何だ、これ?」
俺は左手にCDを握らせ、右手でその紙片を摘み上げた。
あ、これは紙じゃない。写真だ。少し古ぼけた、しかし明瞭な写真。日付を見ると、十年ほど前に撮影されたものらしい。
「おや、懐かしいもんが出てきたのう」
婆ちゃんは横から、俺の手中にある写真を覗き込んだ。そこに写っていた人物は三人。
まず一人は、婆ちゃん本人だ。背筋をしゃんと伸ばし、今と変わらぬ落ち着きを持った笑みを浮かべている。
向かって左には、『吉山歌唱スクール』と書かれた看板が立っていた。婆ちゃんが、五、六年前まで開いていた音楽塾だ。
その写真の中、婆ちゃんを挟むようにして立っている二人の女性を見て、俺は『あ』と声を漏らした。
一人は、大石綾子先生だった。歳の頃は、高校生くらいだろうか。今は近所では見られなくなったセーラー服を身に着けている。
そしてもう一人は――いや、そんな馬鹿な。
「ねえ、婆ちゃん」
「あん?」
「この人、梅田奈央じゃないか?」
俺は驚きを隠せずに、婆ちゃんに写真を向けた。すると、婆ちゃんの笑顔が少しばかり強張った。
「その人は、奈央ちゃんのお姉さんじゃ。梅田真央、といってな」
「だから奈央のやつ、俺んちの場所を知ってたのか」
俺は一人納得しながら、質問を続けようと口を開いた。『この人、奈央のお姉さんはどうしたのか』と。しかし婆ちゃんは、すっと俺の手から写真を引き抜いてしまった。そのままゆっくりと、棚の奥へ写真を挟み入れる。
「詮索はせん方がええ。奈央ちゃんが自分で話すまではのう」
やや固い口調の婆ちゃんは、『これで話は終わりだ』という気配を漂わせていた。
一体何があったのだろうか? 三人の微笑が目に焼き付いて、俺はその日、なかなか寝つくことができなかった。
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