第14話

「うう……。奈央ちゃん酷い……。顧問失格だなんて……」


 部屋の入り口側、皆から一人離れて涙ぐんでいるのは、大石綾子先生である。その原因は、奈央の的確すぎるツッコミだった。


『皆の鼓膜を破るつもりか。それでは音程が取れなくなるではないか。あなたはそれでも合唱部の顧問か』


 そんな言葉を畳みかけたのだ。

 それでさめざめとした雰囲気に陥っている先生であるが、こればっかりは自業自得としか言う外あるまい。


 その後、奈央の舌弁(毒舌?)に怯みながらも、幸之助が雰囲気をなんとか再構成し、現在に至る。

 ちなみにその『現在』に至るまで、皆が歌った主なジャンルはというと、ざっとこんなものだ。


〇高峰蓮:昔の洋楽

〇二宮哲司:演歌

〇吉山啓介:最近のJpop

〇倉敷幸之助:軍歌


「蓮殿のチョイスはやはり渋いでござるな! 拙者も見習わねば!」

「演歌の方が渋いわ! っていうか、侍装束で洋楽を見習う、って異文化混同も甚だしいぞ!」

「啓介よ、そんな狭量な器では、我が臣下は務まらんぞ? それよりお主も、我輩のように土着感のある曲を歌うがよかろう」

「幸之助先輩、軍歌って、あなたのカラオケ年齢はいくつなんすか?」


 俺が皆の、素ともボケともつかない発言をツッコミで迎撃していると、奈央がぼそりとこう言った。


「啓介先輩、流行りの曲ばっかりですね。Jpopシンドロームにでもかかったんですか?」


 愚痴っぽいことを言い方するなよ。っていうか。


「何だよそれは! 俺は歌のバリエーションが少ないから、こうやって歌うしかないの! それより奈央、お前も何か曲入れろ!」

「あたし、ですか」

「そうだよ!」


 実は、主に歌っているのは男衆ばかりであり、凛子も奈央も自分の歌いたい曲を入力していなかった。

 凛子はリモコンを一つ独占して、曲のリストを見ながらなにやら唸っている。

 残る俺たちは、もう一つのリモコンを回しながら曲を入れていたのだが、奈央はさり気なく曲の入力を避けていたのだ。


「別に気兼ねする必要はないんだぞ? 好きな曲歌えよ。皆好き勝手やってるんだからさ」

「そうですか」


 ようやくリモコンを手に取った奈央。いったいどんな曲を入れるのか。俺のみならず、皆が画面に注目する。そして次の瞬間、表示されたのは――。


「おお、ボカロでござるか!」


 哲司が嬉々として声を上げた。

 ほう、ボーカロイドか。奈央にも意外な趣味があったんだな。『feat.初音ミク』とある。当然女声曲か。しかし、イントロからして、やや低い印象を受けた。画面に再び注目する。原曲キーか。てっきりキーを下げて入力したのだと思ったが。


 実際のところ、やはり奈央はカラオケも上手かった。音域が彼女に合っている、ということもあるだろうが、随分と歌い慣れた印象を受ける。一体、どれだけカラオケ通いをすれば、ここまで極められるのだろう。


「流石だな、我が臣下よ! 我輩共に意見するだけのことはある!」

「左様! 拙者、感服致しまして候」


 その時、奈央がやや動揺する気配が感じられた。


「いっ、いえ、この曲は、その、私は大したことなくて」

「どうしたんだ、奈央?」


 俺も声をかけてみると、奈央は俯き、『実は』と前置きしてこう言った。


「あたしが作ったんです」

「え?」


 俺たちは、声を合わせてポカンと口を開いた。


「だ、だから、あたしの自作曲なんです。動画サイトにアップしたら、カラオケに入れてもらえることになって、そもそも、そんなことを考えていたわけではないんですけど」


 次に訪れたのは、沈黙。それはそうだ。俺たちの口は未だに顎が外れた状態である。声を発することはできない。

 しかし、その沈黙のお陰で、俺は考えることができた。自作した楽曲であれば、歌ってみて上手かったところで当たり前ではないか、と。まあ、事情はそれほど簡単ではないのだが、それでも奈央の歌唱力が高いことに変わりはない。


「それにしても、曲を作っちゃうなんて凄いね、奈央さん」


 躊躇いがちに声をかけたのは蓮だ。沈黙を破るべく、先陣を切ってくれたらしい。


「ありがとうございます」


 それだけ言って、奈央は腰を下ろした。


「次、啓介先輩の番ですよ」

「ああ、分かった」


 俺はなんとかそれだけ言って、リモコンを手に取った。

 その時、アコースティックギターの優しい響きが、俺たちの耳を撫でた。スピーカーからではなく、部屋の後方からだ。

 ゆっくりそちらに振り返ると、思いがけない光景がそこには広がっていた。


 凛子だ。凛子がアコギを手に、指を慣らすように弦を響かせている。今、彼女の俯きがちな瞳には、落ち着いた興奮、とでもいうべき矛盾した光が宿っている。

 その姿は、その場にいる聴衆を否応なしに引き込むだけの存在感を放っていた。

 そして凛子は、前奏をすっ飛ばして、いきなり『その曲』を口ずさみ出した。


『Let It Be』――ビートルズの楽曲中、日本人が最も愛しているといっても過言ではない、有名すぎるナンバーだ。


 凛子は、いつものキンキン声を置き去りに、高く、低く、ゆったりとその曲を歌った。いや、『声でなぞった』と言った方が、ニュアンスが伝わるだろうか。

 ボーカルを務めたポール・マッカートニーが、少年時代に亡くなった自分の母を想って書いたとされるこの曲。それが、凛子の声で新たな生命を吹き込まれたかのように、部屋中を優しく震わせる。


 凛子って、こんなに歌上手かったのか? そんな野暮な質問を封じ切るほどに、その調べは温かいものだった。


 そして凛子は、三番までを間奏抜きで歌い切り、静かに弦を弾き終えて、ふっと息をついた。俺たちはもちろんのこと、大石先生までもが呆気に取られている。呆然自失状態だったと言ってもよかろう。

 やがて、凛子は顔を上げ、『ありがとうございました』と一言。


 沈黙は、奈央のもたらしたものよりもずっと長引いた。凛子のいつもの様子と、この曲を演奏している時のギャップが、あまりに大きすぎたのだ。


 今回の沈黙は、それを生んだ張本人である凛子によって破られた。


「あ、あれ? 皆どうしちゃったんですか? 次の人、歌わないんですか?」


 しかし次に俺たちが取った言動は、曲の入力ではなかった。拍手だ。この部屋で反響しまくって耳が痛くなるほどの、しかし何故か不快には思われない、そんな拍手。

 それがゆっくり収まるのを確認して、俺は凛子に声をかけた。


「凛子、お前、本当は滅茶苦茶歌上手かったんだな」

「あっ、いえ、多分この曲だけ、だと思います。この曲が一番、聞き覚えがあると思うので……」


 あ、そうか。


『何か、思い出でもあるのか?』と言いかけて、俺は口をつぐんだ。そんなこと、どうでもいいじゃないか。凛子が自信を持って、上手く歌える曲があるというのは、他の曲に対しても自信を持つことに繋がる。それでいい。


「お前にも得意な曲があってよかった。上手かったよ」

「け、啓介先輩……」


 本当はもっとキザな台詞を言ってみたかったのだが、皆の前なので自重した。

 いや、それよりも、こうして凛子と見つめ合ってしまった、というのが問題だ。

 やばい。目が離せない。彼女の瞳から、顔を逸らせない。惚れただのなんだのという話ではなく、完全に魅了されてしまった。


 そんな俺の心境を知ってか知らずか、ピピッ、という軽い音がした。リモコンによる曲の入力音だ。


「あたし、またボカロでもいいですか」


 やっとのことで振り返ると、奈央が何故か俺に向かって問うていた。


「あ、ああ、いいんじゃないか?」

「それでは」


 そう言ってマイクを握った奈央。彼女が不機嫌そうに見えたのは気のせいだろうか?

 それはともかく、次の曲(ボカロでも古参の有名曲だ)のイントロが始まったお陰で、俺たちは一瞬にしていつものテンションを取り戻した。


 蓮は頷きながらリズムを取り、哲司はタンバリンを打ち鳴らし、幸之助はやたらと大袈裟な動作で拍を刻んでいる。

 すると凛子は、奈央が歌っている曲に聞き覚えがあったのか、


「あ! 奈央ちゃんいい曲歌ってるね! 私も歌う~!」


 とかなんとか言ってマイクを手にした。

 俺は、はっとした。


「おい凛子! 待て、お前にマイクはまだ早――」


 次の瞬間、俺たちの鼓膜は否応なしに強打され、ぶっ倒れる羽目になった。


         ※


 いつぞやの帰宅時と同じく、俺は一時的な難聴に悩まされながら、玄関をくぐった。


(あら、おかえり、啓介)

「うん、ただいま……」

(大丈夫? 随分疲れてるみたいだけど)

「あ、ああ、気にしないで」

(そうそう、お婆ちゃんが何かあんたに話があるみたいよ)

「婆ちゃんが?」


 頷くお袋。


(今リビングにいるから、話を聞いてあげて)

「分かった」


 俺はのろのろと、いつもの自室ではなく、リビングで待っているという婆ちゃんの元へ足を向けた。

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