第11話
幸之助が弾き始めたのは、もっとも基本的な発声音階『ド・レ・ミ・レ・ド』だった。刻みよく上がって下りるだけ。
しかし凛子は、口元をもごもごさせたり、首を傾げたりしている。
「大丈夫か?」
俺が声をかけてみると、凛子はこう要請してきた。
「あの、私、こういう風に声を出すのが初めてなので、誰か一緒に歌ってもらえませんか?」
なるほど。俺も高校入学当初、すなわち合唱を始めた時は、隣で誰かに歌ってもらわないと音が掴めなかった。
「じゃあ、俺が一緒に歌うよ。いいか、凛子? 何も考えずに、俺の声を聞いてくれればいい。なんとなく雰囲気が掴めてきたと思ったら、その時に歌い出せばいいんだ」
「は、はい!」
「よし。じゃあ先輩、またお願いします」
「承知した」
再び会議室に『ド・レ・ミ・レ・ド』の音階が響き始める。
俺たちには歌い慣れた音階だ。俺はしばらく、この五音を繰り返し歌ってみた。凛子はといえば、目を閉じて眉間に手を遣り、じっと固まっている。代わり映えのしない音階が、繰り返し会議室に響き渡る。
その時、キラリン! とニュータイプが覚醒する時のような気配が、あたりの空気を震わせた。
そして、凛子はぱっと目を見開き、すーーーっ、と息を吸い込んだ。
いいぞ凛子、お前の歌唱力で、俺たちを魅了してくれ!
俺もブレスをして、音階移動に備えた、その時。
「あーあーあーあーあーーーーーーー!!」
凄まじい振動に、俺たちは慌てて耳を塞いだ。
「なっ、何だ!?」
窓ガラスが振動し、会議室全体が揺さぶられ、聴覚どころか視覚までもが霞んでしまう。
「あれ? 皆さんどうしたんですか? 耳塞いじゃって」
「ど、『どうしたんですか?』じゃねえ!!」
声というか音、いや、この空気の震源は、間違いなく凛子だ。彼女の腹筋に圧迫され、肺を追い出された空気が声帯を直撃。喉の奥で見事に反響して、思いっきり口腔から解放されたのだ。まさに爆発である。
「まったく、鼓膜を破られるかと思ったぞ……」
恐る恐る手を耳から離しながら、俺は凛子に向き合った。
「私、そんなに下手だったんですか?」
おいおい、その涙目はやめてくれ。頼むから。
零距離で耳朶を打たれ、聴力が麻痺しかかっている俺に代わり、蓮が説明を試みた。
「凛子さん、やってることは正しいんだ。きちんと腹筋も使って、口の中で響かせるのも上手い。けど、身体に力が入り過ぎなんだ」
「脱力できてないってことですか?」
「そうだね」
「むーーー?」
ピンとこないのであろう、凛子は喉を擦りながら『脱力』と数回呟いた。
「考えると余計脱力できなくなるからね。歌うのに使うのは不随意筋だから、意識せずに、自然体を心掛けることしかできないんだ」
蓮の指摘は的確だ。だが、それは一朝一夕でできることではない。
「ねえ、凛子さん」
「奈央ちゃん、なあに?」
「とにかく脱力を意識して。あなたが今のままだったら、合唱ではなくて独唱になってしまうわ。合唱っていうのは、皆で声を合わせることで、初めて観客を魅了できるものなの。早く脱力を覚えて頂戴」
その物言いに、俺は一抹の抵抗感を覚えた。いや、『一抹』とはいえ、今のうちに解消してしまった方がいいだろう、この不快な気持ちは。
「なあ奈央、もう少し言い方を考えてやったらどうだ? 蓮のことは水に流すとしても、あんまりズバズバ言ってしまうと、他人を傷つけることだってあるんだ」
無言で、しかし微かに視線をゆらゆらさせる奈央。
「ましてや、凛子は合唱経験皆無なんだぜ? 今はゆっくりと腰を据えてだな」
「そんな暇はありません」
やたらと似合うしかめっ面を作って、奈央は言った。
そうかそうか。そこまで言うなら、こっちもハッキリさせてもらおうじゃねえか。
「奈央、お前はこの合唱部に入って、何をしたいんだ?」
「自分の限界を確かめたいんです」
「何?」
自分の限界? どういうことだ?
「あたしの歌唱力で、どこまで上位大会に行けるのか。そんな挑戦がしたくて、あたしはここにいるんです」
「それで、演劇でも放送でもバンドでもなく、合唱という手段を使おうと?」
無言で頷く奈央。
「奈央殿、それは自分勝手ではござらぬか?」
即座に異を唱えたのは、やはり哲司だった。
「お主、先ほどご自分でおっしゃったではないか。『合唱の魅力は、皆で声を合わせることによって生まれる』ということを。そこに、いくら経験豊富とはいえ、独断専行の者がおれば、バランスも崩れようというもの。奈央殿、その矛盾にお気づきか?」
「まあまあ、よいではないか!」
険悪になりかけた雰囲気を、幸之助が陽気にふっ飛ばしにかかった。
「皆、我輩に比べればまだまだひよっこ! 赤子も同然よ!」
中二病のあんたに言われたくはない。が、今は黙っておく。
「合唱はもとより、部活というものはな、楽しんでなんぼのもんであろうて。この学校では、部活動は強制ではない。だからこそ、部活をすることに意義がある。精一杯楽しむのだ、若人たちよ。仲違いしておる暇はない!」
腰に手を当て、ばさっとマントを翻しながら語る幸之助。わっはっは、といつになく上機嫌な様子である。喧嘩の仲裁こそ、先輩の責務と思っているのだろう。
「そ、そうだね、幸之助先輩の言う通りだと、僕も思う」
おっと、蓮も幸之助の加勢に回ったか。俺もこの流れに乗るほかあるまい。今日のところは、奈央の本心がどこにあるかは、脇に置いておく外ないだろう。
だが、これで今日の活動を終えてしまうのは惜しい。
「なあ、凛子にもハモリを体験させてやったらどうだ? 凛子、校歌はもう歌えるよな?」
「あ、はい、たぶん」
「奈央、お前はどのパートを歌いたい?」
「あたし、ですか。じゃあ、今日はバリトンで」
『今日は』って、凄いな。四パート全てを網羅しているということか。
「じゃあ、六人で歌ってみるか!」
そう言いながら、俺は野郎共の方へ顔を向けた。
「わ、分かった!」
「拙者、異議なし!」
「我輩もだ!」
反対側に顔を向けると、凛子は目を爛々と輝かせ、奈央もまた異存はない様子。
「凛子、無駄に大声を出す必要はないからな。好きに歌ってくれ。蓮、彼女の補佐を頼む」
蓮はコクコクと大きく頷いた。
「では、我輩が指揮を執る! いくぞ! 一、二、三、四っ!」
※
「ただいまー」
「~~~~」
ん?
「~~~~?」
「あー、母さん? 何言ってるのか聞こえねえんだけど」
俺が指摘すると、お袋は咄嗟に耳を塞いだ。口の動きからすると、『うるさい!』と言っているらしい。
俺は自分の声量を絞りながら、お袋に聞こえるように調整する。
「このくらいなら大丈夫?」
頷くお袋を前に、やっと俺は説明を開始した。
「実は、昨日入ってくれた新入生なんだけど、声量馬鹿でね。耳がやられたんだ」
(声量?)
微かに聞こえてくる、お袋の声。ここでの新入生とは無論、桜野凛子のことである。
(どういう意味?)
「そのまんまだよ。声がでかい割に音程外しまくりでさ。練習させてたら、いつの間にか俺たちの聴力が落ちたんだ」
(なにそれ? あんたがちゃんと教えてあげなかったからじゃないの?)
「ちげぇよ!」
すると再び、お袋は耳を塞いだ。ああ、つい声を張ってしまった。俺は右手を立てて、再び声を落とし、『ごめんごめん』と言い添える。
「まったく、教える方の身にもなってみろってんだ」
そう言い捨てるのは簡単だった。実際、凛子は致命的な音痴だったのだから。
だが、俺の脳裏に浮かぶのは、彼女の笑顔。
音程を取ろうと頑張る。脱力しようと頑張る。今まで触れたことのない、合唱というものに挑戦する。
その姿勢を見ていると、どこからか心に暖かい風が吹き込んでくるような、そんな気がした。
俺たち光方高校合唱部は、決して厳しい練習をしているわけではない。大会で好成績を修めようとしているのも、実際は奈央だけかもしれない。
しかし、それでもハードルはある。奈央が、出会った初日に指摘してくれたように。
それはすなわち、俺たちには、まだまだ伸びしろがあるということを意味している。そして何より、歌が好きだ。ハモリが好きだ。努力するのが好きだ。
『好きこそものの上手なれ』――昔の人はいいことを言ったものである。まあ、俺たちはまだそれほど上手くはないけれど。
だが、もしこの格言が本当だとしたら、
「一番上手くなるのは、凛子のやつかもしれないな」
と、俺は小声で呟いた。
(え? 凛子ちゃんって誰? その新入生の子?)
「ああ、そうだけど」
(ふぅん)
「何だよ、母さん」
(あんた今、すごく楽しそうな顔してたわよ)
「はあ!? んなわけねえじゃん!」
(はいはい、照れない照れない。ま、頑張って指導してあげなさい)
「ちょっ、母さん……」
戸惑う俺を残し、お袋はキッチンに引っ込んでしまった。
俺の元に幸之助からのLINEが届いたのは、まさにその時だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます