第10話

「わあーーーっ! すごい会議室!」

「って昨日ここで菓子食ったばっかりじゃねえか! そんなに驚くなよ」


 その日の放課後。俺たち合唱部は、再び二階にある第二会議室に集まっていた。

 興奮を抑えきれない凛子に、俺がツッコミを入れる。ハリセンでもその辺にあればいいのだが。

 しかし、そんな僕に振り返った凛子の目は、なにやら非難じみたもの色を帯びていた。


「啓介先輩、どうして先輩が奈央ちゃんをエスコートしてきたんですか! ずるい! 私もエスコートしてもらいたい!」

「エスコートって……。ただ教室の場所を教えて、一緒に来ただけだろうが」


 俺は肩を竦めてみせたが、凛子には効果がなかった。

 というより、逆効果だった。


「ふーんだ! 私、知ってるんですからね! 今日、啓介先輩と奈央ちゃんが、一緒に仲良く登校したってことを!」


 この言葉に反応したのは、いつものダブル中二病である。


「なんですと!? この拙者をさておいて、逢引きとな!?」

「ふむ。我輩にも看過できぬ事態であるな。臣下の者が、独断で異性を誘うとは」

「だから、俺が誘ったんじゃないっすよ! 奈央のやつが突然――いてぇ!」


 奈央は無言で、俺の足を踏んづけた。これ以上喋るなと言いたいらしい。その顔は端正かつ無表情。まったく、何がしたかったのやら。


「奈央ちゃんは一年二組、私は三組! 隣同士なんですから、先輩たちも、私と奈央ちゃんを誘う時は一緒にしてください!」


 面倒なことになったな、こりゃ。


「あれ? 蓮は?」


 俺は気づいたことを口にした。


「ああ、しばし待たれよ。蓮殿! 練習開始でござる! れーんーしゅーうー!」


 哲司は手でメガホンを作り、会議室の反対側に向かって呼びかけた。そこにあったのは、掃除用具入れだ。すると、何やら呪詛のようなものが聞こえてきた。


「どうせ僕なんて、僕なんて、トップテノール失格だあ……。僕なんて、僕なんて……」

「あちゃあ、これは奈央、お主の諫言がいささかやつの心に響いたのであろう」

「幸之助先輩、あたしが何か?」

「言いたい放題ツッコミやがっただろうが! 蓮のやつはな、メンタルが弱いから、ああも言われると凹んじまうんだよ」


 俺が解説すると、奈央はふふん、と鼻を鳴らしてこう言った。


「だったら余計、好都合です。厳しくされる度合いが高ければ高いほど、実力アップは狙えますからね」

「そ、そうは言ってもだな……」


 俺はいつもの癖で、後頭部に手を遣った。

 すると、つかつかと掃除用具入れに向かう人影が一つ。凛子だ。


「蓮先輩、出てきてくださいよーう。練習始まっちゃいますよーう」

「れ、練習?」

「そうですよ、さっきから皆待ってるんですよ? 先輩のトップテノールがないと、混声合唱は練習できません。さあ、出てきてくださいな」


 癒しヴォイスで語りかける凛子。やっぱりいい声してるな。

 そのお陰か、掃除用具入れの扉が薄く開いた。長身の眼鏡姿が、半分のぞく。

 すると、幸之助が哲司の背を軽く叩いた。頷いた哲司は、ゆっくりと蓮に歩み寄り、凛子のそばに立つ。それから一つ、深呼吸をして語りだした。


「蓮殿、お主、奈央殿が怖いのでござるな」

「ッ!」


 ここからでも、蓮が息を飲む気配がした。こうもバッサリ斬り込むとは、哲司も賭けに出たな。


「確かに、他人を怖いと思ってしまうという悩みは、誰にも話したくはないでござろう。何でも一人で耐え抜こうとするのがお主の美徳でもあり、弱点でもある。しかし、今問題を抱え込むのは得策とは言えぬ。弱点として裏目にでようというもの」


 すると、蓮は震え声で哲司に尋ねた。


「どうして? 今が得策ではないって……」

「何せ、共に歌う仲間が増えたタイミングであるぞ? もったいのうござらんか、一人で塞ぎ込んでいてはのう」


 なんだか爺臭い口調になりつつあるが、まあ仕方あるまい。


「拙者もまた、奈央殿からは指摘を賜った。しかし、それは罵りとは全く違うものでござる。奈央殿は、この部の発展のために寄与せんと、勇気を振り絞って、上級生に意見致したのでござる。それを糧にすることはあっても、毒にすることはない。奈央殿の意見を毒にしてしまっておるのは、蓮殿、お主の頑固さであろう。そうは思わぬか?」


 蓮は沈黙。


「蓮先輩……」

「シッ」


 声をかけようとした凛子を、幸之助が引き留める。


「人間、上手いことばかりできるようにできてはおらぬ。お主も、拙者らも。だから失敗や指摘を恐れることは、ただの愚行でござる。そうであろう、奈央殿?」


 突然話題を振られて、奈央は一瞬たじろいだ。しかし、すぐに体勢を立て直し、『ええ、哲司先輩の仰る通りです』と言って首肯した。


「だから言ったであろう、蓮殿?」

「……うん」

「ではまた我らと歌唱を楽しもうぞ。生憎、トップテノールの歌い手がおらなんでな」


 さっきよりも『うん』と大きく頷いてから、蓮は清掃用具入れから出てきた。哲司は振り返り、ウィンクをして見せる。どうやら、もう俺たちが蓮に声をかけてもいいらしい。


「さ、早く練習しようぜ。各自ストレッチ!」


 俺は、我ながら珍しく皆に声をかけた。各員、返答したり頷いたりしてくれる。

 それはよかったのだけれど、哲司のウィンクはないだろう。ちょんまげにウィンクって、組み合わせが悪いにも程がある。

 ま、いいか。やっとこさ、練習に移ることができる。


「なかなかやるじゃん、哲司」

「いやいや、拙者は蓮殿の身を案じて煽ってみただけでござる。今こうして練習に復帰したのは、蓮殿自身の実力でござるよ」

「謙遜だな」


 その俺の言葉に、哲司はふっと笑ってみせた。ちょっとカッコいい会話じゃないか、これ? って、それじゃあ俺も中二病になっちまうじゃねえか。いかんいかん。


「で、先輩! ストレッチって何をすればいいんですか?」


 ぴょこぴょこ跳ねながら、凛子が俺の袖を引く。うむ。可愛い。目の保養になるな、これ。

 って、そういう話じゃなくて。


「放してくれ、凛子」

「じゃあ早く教えてください!」


 その場で跳躍を続ける凛子。ああ、なんだ。


「その調子だ」

「へ?」

「だから、その場で何回かジャンプしてみるんだよ。身体の力を抜いて、ストンと足を下ろす。そうすると、自分の身体の重心の位置が分かるんだ」

「じゅうしん?」


 凛子は跳躍を止めて、首を傾げてみせた。


「歌う時に、一番脱力できる姿勢を保つのに必要なの。脱力できてないと、声の響きが硬くなるからね」


 そう言って説明を買って出たのは奈央だ。


「奈央ちゃん、詳しいの、合唱のこと?」

「ええ、まあ。あたし、幼稚園の頃から合唱やってたから」

「すっごぉい!」


 凛子は目を丸くした。俺たちもまた、驚きを隠せない。学年の差を考えても、奈央が一番のベテランではないか。


「これはこれは! 歴戦の戦人ではないか、奈央よ! 流石、我が臣下に加わっただけのことはあるな!」

「だからあれだけ適切な助言ができたのでござるか」


 興奮気味に身を乗り出す幸之助と、腕組みをして頷く哲司。


「頼りになるよ、奈央さん。さっきは情けない姿を晒してしまったね。ごめん」


 蓮は浅く、しかししっかりと腰を折って、奈央に向かって頭を下げた。


「あっ、いえ、あたしも言い過ぎたみたいで、すみませんでした」


 意外なほどあっさりと、奈央は非を認めた。もっとも、その態度は淡々としたもので、頑固さはそのままだったが。


         ※


 それからしばらく、俺たちは新入部員に、というか凛子にレクチャーを施した。重心の位置を確認し、不随意筋(自分の意志では運動させるのが難しい筋肉)の使い方を教える。習うより慣れろというのが正直なところだったが、説明しなければ何も始まらない。


「背骨を柔らかくするようにイメージするんだよ」

「えー? そうしたら私、無脊椎動物になっちゃいますよ? タコですよタコ!」

「だからイメージだってば!」


「喉はただの空洞でござる。空気を通すだけで、それ以外は何もせんのでござるよ」

「そうしたら息が詰まっちゃいませんか? って私、入部早々に死んじゃいます!」

「呼吸はちゃんとしてもらって結構!」


「心臓の鼓動を、このメトロノームのテンポに合わせるがよい。早ければ早く、遅ければゆったりと」

「わあっ! 不整脈!」

「だから、想像力を駆使するのだ!」


 蓮、哲司、幸之助が凛子を相手に手こずっている間、俺は奈央と一緒にその様子を眺めていた。


「こんなに苦労したか、奈央?」

「さあ、幼い日の憧れは思い出せますが、苦労したかと訊かれると、なんとも」


 流石だな。『歴戦の戦人』という幸之助の表現は的を射ている。

 すると、当の幸之助が小型のキーボードを取り出した。


「あ、やっと歌えるんですね!」

「うむ! 桜野凛子、そなたのパートを決定せねばならんからな! この音階に従って、『あー』と声を上げてみるがよい!」

「イエッサー!」


 威勢よく答える凛子。そして、音階に合わせて発声を開始した――はずだった。

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