第9話
目を覚ましてみると、金曜日だった。明日は土曜日で、学校は休み。皆が入学や進学による疲れを癒したいところだろう。
無論、俺も例に漏れず、である。昨日のことがあって、心身共に疲弊しているのが感じられた。
相変わらず寝起きの悪い自分を叱咤しつつ、俺は支度を済ませて玄関を出た。
高校が近いことから、既に多くの生徒たちが、家の前を歩いている。口元に手を遣りながら、大きく欠伸。涙が自分の意志とは関係なく溢れてくる。授業中に寝てしまうようなことがなければいいが。
だが、そんな懸念をふっ飛ばす光景が、俺の眼前に展開されていた。
「んー、ふんふん、んーんー」
奈央がいた。俺の視界を、左から右へと横切っていく。
しかも、ただ歩いていたわけではない。右手で指揮棒を振るような動作をし、左手には楽譜を握らせている。口ずさんでいるのは、校歌の合唱編集版、セカンドテノールのようだ。
俺がまず思ったのは、危険だということ。
これには、単純に奈央が前を見ていない、という意味がある。事故に遭うかもしれない。
だが、もう一つ危険を覚えたのは、どこからどう見ても奈央は奇人だということだ。怪しいことこの上ない。
続いて俺の胸中に去来したのは、ここで奈央と接触するわけにはいかないという緊張感。義務感といってもいい。
ここで絡まれたら、俺まで変人と見られるだろうし、何より俺の歌唱力の低さを延々語られては敵わない。そうなったら、これ以上の部員の勧誘は絶望的だろう。『あんな口うるさいやつがいる部なんて、誰が入るか!』というわけだ。
もちろん、公衆の面前で罵声(とまではいかないが、辛口批評)を浴びせられるのも、俺には耐えられないことだ。
俺はゆっくりと回れ右をし、玄関扉を閉じた。
「あら啓介、どうしたの? 忘れ物?」
お袋が声をかけてきたが、
「えっ? ああ、いや、その……」
と、しどろもどろの声を発するしかない俺。素直に『教科書を忘れた』とでも言えばよかったのだが。まあ、それだけ俺も慌てていた、ということだ。奈央の出現によって。
俺は『何でもないっ!』と言ってお袋を振り切り、再び玄関扉に手を伸ばした。流石に奈央も、もう家の前は通過してしまっただろう。
などと思ったのも束の間、住み慣れたこの家の玄関扉は、俺を裏切った。突然、俺から見て向こう側に引き開けられたのだ。
「うわっ!」
なんとか転倒を回避する。そこにあったまな板状の物体に抱き着くようにして、身体のバランスを取った。
その姿勢、すなわちまな板に掴まったまま、俺はため息をついた。
「あー、危なかった」
そして――血の気が引いた。
今俺が抱き着いた『まな板』。それは温もりを感じさせ、洗濯物の爽やかな香りを振りまき、俺が腕を回すのにちょうどいいくらいの幅で。
早い話、それは凹凸に乏しい人間の身体だった。
「どわっ! す、すみません!」
慌てて頭を下げる。そして俺は二度目の衝撃に襲われた。視界に入ってきたのは、ブレザーと揃いのスカート。おいおい、俺は女子に抱き着いてしまったのか? 不可抗力ではあるけれど。
「あー、これはその、突然ドアが開いたから、体重移動のバランスを計り間違えましてですね! 決してあなたに危害を加えたり嫌らしいことをする意図はなく――」
「はあ、そうですか、啓介先輩」
「そうそう! って君、よく俺の名前を知って」
『知ってるね』と言いかけた俺を襲った、三度目の衝撃。それは、俺が抱き着いてしまったのは、紛れもなく梅田奈央だった、ということだ。
「う、うわあああああああ!」
俺は絶叫し、その場で尻餅をついた。
「ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!! お願い、今俺相当狂ってるから、何も言わないでくれ!!」
「……」
「そ、そうだ、何も、何も聞かせないでくれ、何も!」
「じゃあ質問します」
「ああ! 俺が答えるぶんには構わないよ! 君の言うことなら何でも聞くから、どうか変な誤解は解いてくれ!」
「啓介先輩、ロリコンなんですか? あたしみたいな幼児体型の女子に抱き着くなんて」
「ぶほあぁあ!!」
俺は吐血せんばかりに、四つん這いになった。
「ち、違う! 俺は――」
と言いかけ、顔を上げようとしたところで、思いっきり後頭部を叩かれた。
「いってぇ!」
「天罰ですよ、啓介先輩」
「どうして俺が、立て続けにこんな目に!?」
「だって今先輩が顔を上げたら、あたしのスカートの中を覗くことになりますよ?」
「あ」
そうか。そうしてしまったら、確かに変態の誹りは免れないな。危ない危ない。
俺はずるずると自分の上半身を引っ張り上げ、ゆっくりと立ち上がった。奈央の顔には何の表情も浮かんではおらず、実にクールな印象を与える。
って、それよりも。
「お前、せめてインターホン鳴らせよ! 勝手に玄関開けられたら、今みたいな事故が発生しかねないじゃねえか!」
「鳴らしましたよ、三、四回。でも、どなたも出てきてくださらなかったので」
「あ、そうか!」
この、何かを閃いたかのような声はお袋のものだ。胸の前でパチンと掌を打ちつけ合う。
「昨日からインターフォンが故障してたのよ。ごめんなさいね、えーっと……」
お袋は表裏のない笑顔を浮かべ、首を傾げてみせた。
「お初お目にかかります。この度、光方高校合唱部に入部いたしました、梅田奈央と申します」
「奈央ちゃんね! 啓介がお世話になってます、母です」
そりゃあ見りゃ分かるだろ。
「それにしても、本当に申し訳ないことをしちゃったわね、奈央ちゃん。ほら啓介! あんたも謝りなさい!」
「さっき謝ったよ!」
「じゃあもう一度!」
「俺だって悪気があったわけじゃ――」
「あの、一ついいですか、先輩?」
「あ、ああ、何だよ」
俺が尋ね返すと、奈央の眼鏡がキラリ、と光った。
「さっき、何でも言うことを聞いてくれる、っておっしゃいましたね?」
ギク。今この場でそれを使うか。俺に対する切り札を。
もっと謝れというのか? 口止め料を払えというのか? それとも、警察に自首しろとでも?
しかし、奈央の言葉は、実に意外なものだった。
「今日、あたしと一緒に登校してくれませんか?」
その一言に、俺とお袋は完全に沈黙した。
「どうなんですか?」
僅かに身を乗り出す奈央。眼鏡の向こうで、微かに涙の膜が揺らめく。
「そ、それで許してもらえるなら」
俺は呆然としつつも、微かに残った理性を総動員してそう答えた。
「それでは、参りましょう。もうあまり時間がありません」
俺がスニーカーを履く間に、奈央は『失礼致します』とお辞儀をして、玄関ドアの向こうに出た。
※
「で、突然どうしたんだ? 俺に何か用なのか?」
と、いうより。
「どうして俺の家、知ってたんだ? まだ一回学校で会っただけなのに」
「あたしの人脈です」
ああ、そう言えば、婆ちゃんは奈央のことを知っているようだったな。しかし突然現れることもなかろうに。って、そうか。まだ連絡先を交換していなかったな。まあ、それは落ち着いてから行うとして。
「もう一回訊くけど、俺に何の用だ?」
すると、ピタリと奈央は手を止めた。
「そ、それは、昨日皆さんとの夕食にご一緒できなかったので、少しずつでも話をしておこうかと思いまして」
「ほう。でも、どうして俺が最初なんだ? いや、昨日誰かと会ったかもしれねえけど」
「啓介先輩が最初で間違いはないです。こうしてお宅に伺うのは」
ふむふむ。しかし、これはこれでまた新たな疑問が湧き上がる。
「どうして俺が最初だったんだ?」
「ッ!」
その時、ジト目だった奈央の目が、ほんの一瞬だけ見開かれたような気がした。『気がした』と付け足したのは、正面ではなく横から彼女を見ていたので、本当に目が見開かれたかどうか、確実性に欠けたからだ。
「ま、まあ、啓介先輩が一番お声がけしやすいと思いまして。他意はありません」
「あ、そう」
俺が話しかけやすい、ということか。妙なことを言いだすやつもいたものだな。
「ところで奈央、今日から合唱部の練習が始まるんだ。試運転みたいなもんかな。来るか?」
「無論です。そのために合唱部に入ったんですから」
奈央の言葉は熱っぽかったが、こちらに向けた目は相変わらずジト目だった。ま、いいけど。
「じゃあ、今日の授業が終わったら、お前の教室まで迎えに行くよ。今日はどの会議室を使うか、まだ決まってないんだ」
「そうですか。では、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる奈央。うむ。素直でよろしい。
そうこうするうちに、俺たちは昇降口前に立っていた。
「じゃあな、奈央。放課後はよろしく」
「はい。先輩も」
その時、少しばかり気にかかることがあったので、尋ねておくことにした。
「奈央!」
「はい?」
「大会、頑張ろうな」
すると、今度こそ奈央は目を見開いた。微かに頬に朱の色が差す。
「あっ、ありがとうございますっ」
そう言って、奈央はダッシュで廊下の向こうに消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます