西の果ての楽園
十九時四十二分シャンリャン発ヴラングラード行き急行列車。先頭列車の長椅子の一番端に、男と少年が座っていた。男はくたびれたスーツに無精髭、少年は汚れたパーカーに擦り切れたズボン、爪先に穴が開き底の剥がれかけた靴。男は腕を組んで眠そうに頭を揺らしており、少年は膝に乗せたリュックを抱えるようにして俯いている。
列車に乗り合わせた人間はおよそ二種類。スーツ姿の男と、ドレス姿の女だ。この時間のこの特急列車はリャンシャンを出た後、ホーキンまでは各駅に止まり、そこからはサンリエーナまで止まらない。サンリエーナは繁華街だ。カジノ、ストリップ、食事、ありとあらゆる享楽の街。二人は明らかにその街に不釣り合いだった。
「ちょっと、なんでこんな汚い人たちが乗ってるの」
二人を見て金切り声を上げたのは、肥立ちの良い赤ん坊のようにでっぷりと肥った、二人組とは違う意味で綺麗とは言えない女性だった。車内の視線が女性と、女性の前にいる二人組に集まった。
怒鳴られて肩を跳ね上げ、何事か謝る風のことを言いながら慌てて立ち上がろうとする少年を、横で眠りこけていたはずの男が止めた。
「ちゃんと座ってろ」
「え、あの」
「転んだら危ねえだろ。どうせ駅に着くまで外には出られねえよ」
「でも」
狼狽える少年を尻目に、男はのんびりとあくびをした。年の頃は四十代半ばといったところか、十歳足らずに見える少年の父親にしてはいささか老けている。男の英語は訛りが強く、聞き取りやすいとは言えない。
「目障りで申し訳ないが、どうせあんたも次の駅で降りるんだろう? ここで諍ったって何の利益もねえよ」
「何よ、関係ないでしょ」
「あんま大きい声出さないでくれ、頭痛えんだ今」
男は顔を歪めて側頭部を拳で叩いた。その隣で、少年は今も狼狽えている。ややもすると車内の人間は三人に対しての興味を失い、それぞれがそれぞれの会話へと戻っていった。肩を怒らせていた女性も冷静に戻ったのか、あるいは思うところがあったのか、肩を怒らせたまま人波を掻き分けて車両を移動していった。
「あの、ありがとうございます」
「災難だったな」
少年は何と返答すべきか悩んだらしく、少しまごついて「ありがとうございました」と繰り返して頭を垂れた。列車はあと二十分ほどは止まらない。男は再び頭を揺らし始め、少年はぎゅっと荷物を抱いて背を丸めた。
車窓からの景色が工業地帯からネオン街へと変わり、やがて停止した。車内の七割程度の人間が駅で降車し、乗ってくる人間はいない。扉が閉まり、列車が動き出す。ネオン街を抜け、工業地帯とも住宅街とも言い難いところに次の駅がある。終点だった。
少年は列車を降り、地面に立った。風は生ぬるく、妙なにおいがする。さっきまで列車の中で嗅いでいた華やかな汚臭ではなく、乾燥した、あるいは錆びたような匂い。それが硝煙の匂いだとわかるのはもっと後の話だ。
「ガキ」
背後から声をかけられて、少年は肩を跳ね上げた。振り返ると、さっきまで隣で眠っていた男が立っている。
「まあカジノじゃないだろうなとは思ってたが、なんだってこんなところに来た? 迷子か?」
「……西の果てに、楽園があるって聞いて」
西の果てというのがここなのかどうかは少年にはわからなかった。ただ無計画にとにかく西へ西へと進んだ先がここだったのだ。
「楽園ねえ」
男がぐるりと首を巡らせるのを見て、少年もつい同じように周囲を見渡した。とはいえ、駅舎と列車の間に挟まれて見えるものはそう多くない。ガス灯、石畳。楽園にしては暗く、寂しい。
「ガキ、名前は」
「……ピーター。ピーター・ダグラス」
「そうか。俺からいいことをひとつ教えてやろう、ピーター。『名前は?』って訊かれていちいち馬鹿正直に答えてたらこの街では生きていけねえぞ」
ピーターが見上げた先で、男は同じくピーターを見下ろしていた。髭を蓄えた口元がにやりと歪む。
「俺が名前をやろう。
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