第31話 坂口唯

部屋の主を失ったマンションの一室で一人の女性が立ちすくんでいた。


真夏に相応しく都会の騒音にも負けじと鳴くセミの声を聴きながら、電気が通ってなく久しい部屋は蒸し暑い。

しかし、その女性は暑さを感じているようには見えず、それよりも感情は別の所にあるようだった。

染めた茶髪をボブカットにし、化粧はナチュラルに。薄いワンピースが目立つ若い女性は、この部屋に来て何度目か数えきれないほど同じ感情を抱いている。


兄が突如として失踪してから早半年。当初は親戚も叔父夫婦も兄のために金に糸目を付けず、尽力してくれたが、半年も何も手掛かりが掴めずとなれば自ずと諦めムードが漂い始め、今現在では彼女を除いて兄をまともに探している人はいなくなってしまった。


そう、彼女は消えた坂口龍之介のたった一人の妹の坂口唯だった。


大学で講義を受けている最中突然かかってきた電話の相手は叔父だった。あまり機械慣れをしていない叔父が自分に電話をかけてくるなど珍しく、少し驚きながらも講義を抜け出して電話に出ると唯はその言葉に目を見開いた。



「兄さんがいなくなった?」


『ああ、正直私も驚いていてね。今から龍之介くんの所へ行こうかと思っているんだけど、唯ちゃんはどうする?』


「私も行きます!」


『それじゃ大学前まで車で迎えに行くから、待ってるよ』



断る理由などなかった。唯は教授に事情を説明すると彼は驚きながらも出席扱いしてくれることにしてくれるそうで、友人たちも快くこの後の講義もノートを取っておいてくれると引き受けてくれた。


そして唯は走った。既に出口には叔父の車が止まっており、中には叔母もいて唯は駆け込むように後部座席へ乗り込んだ。



「兄さんは!?」


「私も詳しい事情はまだ聞いていないが、突然消えたとしか思えないと警察は言っていたよ。冷蔵庫の中には買ったばかりの弁当や飲み物が入っていて、洗濯物も干しっぱなしととても遠出をするようには思えないとね」


「まさか誘拐?」


「警察もその線を疑って捜査しているそうだよ。唯ちゃんも何か聞いてないかい?ここ最近龍之介くんが誰かとつるんでいるとか」


「いえ……兄は友人がいるようには……」


「だよね……携帯の中には特に怪しい連絡先もなかったようだし、着信履歴も随分とないようだ」


「どうしてこんなことに……」


「気をしっかり持つのよ、唯ちゃん……」



叔母が言葉をかけてくれるが、突然いなくなってしまった兄の存在は彼女の心に大きな空洞を生むのであった。






こうして唯は度々兄の部屋を訪れていた。既に警察はこの部屋での調査は終えており、唯や叔父と叔母の手によって綺麗になった部屋はまだ家賃を払っていた。

無論兄がいつ帰ってきてもいいようにだ。当初部屋の片づけと同時に部屋を返すべきか悩んだのだが、唯の猛烈な押しによって部屋は返却されることなくそのままになっている。言い出したのは自分なので、バイトをしてこの部屋の家賃を払っている。そこまで叔父に出させるほど腐っちゃあいない。


そして兄はこうなることを見越していたのか知らないが、唯が卒業できるまでの貯金を蓄えており、学費は全て今まで通り兄の口座から支払われることになった。

叔父の稼ぎは悪くはないが、それでも医学生ともあって彼女の学費は並みの大学よりも膨大で、心の奥底では叔父も困っており、兄の貯金があると知った時は顔には出さずとも心の中で猛烈に喜んでいた。


そんなこんなで勉強とバイトでほぼプライベートがなくなってしまったのだが、時折暇を見つけては兄の部屋に通っていた。

特に何かするわけではないが、心の整理をつけるため、現実を受け止めるためただ茫然と立ち尽くして、しばらくすれば帰る。そんな繰り返しだ。


意味はない。ただ、ここに兄が住んでいた。その事実だけが残っている。



「兄さん」



汗が頬を伝って床に落ちる。暑さは感じない。



ふと、そこでベッドの枕元に置かれたVR機器が目に入った。確か兄はゲーム好きだったと記憶している。それも同じ名前のゲームをひたすら遊んでいた。

確か『レジェンダリーファンタジー』だとか、などと思いながら唯はVR機器と一本しかないソフトのパッケージを手に取る。



「またレジェンダリーファンタジーだ。兄さんも飽きないなぁ」



一体何本目のナンバリングになるか分からないこのタイトルに懐かしい記憶が蘇る。



「私も兄さんの借りてやったっけ」



一度だけ兄があまりにも面白そうにプレイしているので、我がままを言って貸してもらったことがあるのだ。

しかし、あまりにもマゾい要求を平気な顔して出してくるので、それが性に合わずやめた記憶があった。

まぁそもそもアクション系が苦手な傾向にあったのも理由の一つだが、兄と同じ視点に立ってみたいが故にやってみたのだ。



「これ発売したばっかりの奴じゃん。兄さんよく買えたね」



パッケージを開けるとレシートが挟まっており、そこには買った日付が書いてあった。



「本当にどこに行っちゃったのかな……」



バイクのヘルメットサイズもあるVR機器を持ち上げながら唯は部屋の中でため息をついた。





その夜、唯は兄の部屋からVR機器を持ち帰ってきていた。兄の追体験とは言わないにしろ、兄がやってみたかったであろうレジェンダリーファンタジーの世界に行ってみたくなったのだ。


携帯ゲーム機でのプレイはあるにしろVRでの完全3Dは初めての事だった。まぁそもそも医学生である唯にゲームをしている暇などなく、なおかつVR機器がバイトもろくにしていない女子大生がポンとお金を出せるほど気軽に買える代物でもないことから手を出していなかったである。



「どうやって起動するんだろ……」



ヘルメットをべたべた触ると左右にボタンを格納していると思われる蓋を見つけ、少し発見に喜びつつ開ければ起動ボタンが顔を覗かせた。



「これか」



唯は電源をつなぎ、リラックスした状態でヘルメットを被りながらベッドに横になると起動ボタンを押した。




次の瞬間、世界がガラスのように砕け散る音と共に唯は現実世界を離れ、暗闇の世界に放り込まれる。



『………!?』



声を出そうにも声が出なく、さらにバタバタ身体を動かしてもまるで体の感覚がなく、まるで魂だけ抜け出したかのようだ。


音もなく光もない世界に放り込まれて恐怖を覚えてきた頃、世界は突如として眩い光に包まれた。閃光は瞬く間に世界を照らし、暗黒とは打って変わって唯の眼前にはどこかおとぎ話で聞くような西洋の庭が広がった。

庭には小鳥がさえずり、綺麗に整えられた芝生が青々と生え、小さな川が流れる風景に唯は言葉を失う。そもそも声は出ないのだが。


しばし風景に見とれているとなんと庭の奥で優雅にお茶を飲む女性の姿があるではないか。最近の3Dの技術はすごいなぁ、とかどこか現実離れした数々の現象に脳の処理が追い付いていなく、唯は奥の女性に話しかけるべく庭を進む。



『………』



あの、と声をかけるがやはり声は出ない。しかし、目の前の女性には聞こえていたそうで、紅茶のカップを置いてこちらに顔を向けた。


唯は息を呑んだ。それほどまでの美女だった。テレビで数多くの美女や実際に遠目ながらも有名人は見たことがあったが、目の前の美女はそれを簡単に凌駕するほどの美しさを誇っていた。


地面に着くかと思われるほどの長い金髪と切れ長の眉に黄金の瞳。すらりと伸びた手足は見惚れるほど白く美しくシミなど一つもない。



「この庭に来客なんて久方ぶりね。それも異世界の人とは」



慈愛に満ちた声だった。この人の声ならずっと聞いていたい、ずっと傍にいたいと思うほどに依存性が潜んでいた。



「ここ最近水神の方で何やら手違いで召喚してしまったそうだけど………あなたは誰に呼ばれたのかしら」



可愛らしく小首を傾げる美女はテーブルに置いた小さなベルを鳴らす。すると即座にどこに隠れていたのか紫色の短い髪の少年が現れる。



「おい、僕を呼ぶなんていつぶりだ?」


「ミラージュ、この方を知っているかしら。私、召喚儀式なんてしていないのだけれど、迷い込んでしまったようなのよ」


「はぁ?お前が知らないなら僕が知るはずがないだろ。そもそもこいつはあいつら学生の召喚とは違って魂の転移だぞ。このまま放っておいたら存在が保てなくなって消滅するぞ」


『………!!!』


「はぁ……でも、こんなことソル様に報告しないわけには……」


「おい、モルペウス。んな暇なんてねえ。さっさとこの世界に存在を確立させろ。じゃねえとお前エウロ様とポセイドン様に怒られるぞ」


「そ、それは困ります」



少し涙目になったモルペウスと呼ばれた美女は再び唯に身体を向けると、渋々と言ったように説明を始めた。



「あなたがどうやってこの世界に紛れ込んだのか分かりませんが、あなたの魂はこの世界に確立しました。これでもう消滅することはなくなりましたが、今のままでは不便でしょう。私の力を以てあなたのアバター……肉体を作り出します。さぁ、創造なさい。あなたが思い描く姿を」



突然そんなことを言われ、戸惑いつつもよくあるチュートリアルのアバター生成かと思い、唯は自分の姿を思い描き始める。



「ソル様が既にゲートは閉じたんだろ?」


「ええ、そのはずですが……」



唯がアバター制作に四苦八苦している最中、勝手に椅子に腰かけた境界竜ミラージュJrがテーブルにあるクッキーをつまむ。



「こいつの魂からはエウロ様のとこで召喚された奴の匂いがする。魂ってことは肉親かそれに近しい者だろう」


「なるほど、魂の繋がりを通じてこの世界に来てしまったのですね」


「来てしまったもんはしょうがねえ。こっちの世界に来るのは簡単でも帰り方は複雑だからな。しばらく面倒を見るんだぞ?」


「ええ!?わ、私がですが!?」


「当たり前だろうが!僕は境界を保つ仕事があるんだ。おまえ、いつも暇そうにしているじゃねえか」


「ひいい!わ、私がそんな大役勤まるはずがありませんよお!」


「曲がりなりにも僕を創った主がんなこと言うな!もう少しお前は自分の力に自信を持て!」


「で、ですがぁ…!」


「ですが、じゃねえ!なに、聞かれたことを答えればいいだけだ。それと死なないよう神の力を行使しない程度に助ければいいじゃねえか」



先ほどから情けない自身の主にミラージュJrは嘆息するが、力自体は本物なのだ。伊達に始祖竜を創ることを最高神ソルに任されただけのことはあるのだ。ただ本人がどうにも卑屈で人の前に出たがらない性格が故にミラージュJrは毎度発破をかけるのだが、あまり効果はない。



「わ、分かりました……彼女の面倒は私が見ます……はぁ……このことを最高神に報告しなければならないと思うと胃が痛くなります……」


「一応エウロ様にも報告しろよ?」


「もちろんです。はぁ、仕事が増える……」



引きこもり気質の主に何度目かになるか分からないため息をミラージュJrはついた。

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