第6章「讃洲旺院非時陰歌」
第82話「追い手に帆かけて」
シュティレンヒューゲルから西へ向かい、多島海を船で南へ渡った先に、ファンとエルの故郷、ドュフテフルスは存在する。
内陸地に住んでいたザキは船で海を渡るのは初めての事で、陽光をキラキラと反射させる水面は、いつまででも見ていられた。
「思った程、揺れないね」
ファンは風下へ目を向け、
「
東西に広がる内海であるから、大波が来る事も滅多にないとファンがいうと、ザキがぴょんと飛び跳ねるようにファンの方へ来る。
「嵐も~?」
それに対してファンは、右手で北を、左手で南を指差し、
「北にグローセルベルク山、海を越えた南にフューアランダー山があるから、南北からの嵐は越えられないんスね。唯一の進路は東西なんスけど、それはまず滅多に来ないんスわ」
地理的に災害が少ない場所なのだ。
また地理といえば、戦略的にもドュフテフルスは重要な場所である。
大公の上覧試合を自ら
そんなドュフテフルスが見えてくると、船縁にいたインフゥが身を乗り出す。
「陸が見えてきた!」
インフゥが指差す先に、平野と遠浅の海岸が見えてくる。
これは、故郷から出た経験がないインフゥやザキでなくとも珍しい。
全国平均では7割近くを山が占める中、ドュフテフルスは平野率が5割を超えている。農地そのものの広さは、18万タント――即ち成人男性18万人分と狭いのだが、その農地の8割が1000年前に開墾されたという記録が残っている。
さらに広さでいうと、ファンは思い出し笑いしてしまう事があった。
「でも、実は農地の広さは間違ってるんスよ」
小舟に移って上陸したところで、ファンは懐かしい故郷の景色に背伸びした。
「測量を間違っていたっていうのもあるんスけど、北と南に山があるから、雨雲が来ない地形なんス。雨が降らないだから、穀物を育てるには向かないって言い張ったんスね。27万タントあるッス」
目を丸くするインフゥの反応は当然だろう。
「そんなの通るの?」
ファンも「普通は通らないッスね」と肩を竦めつつも、
「いい出したのが、副帝とまでいわれる人ッスからね」
ドュフテフルスは要衝の一つでもあるため、複雑な歴史がある。
大帝家から初代ビゼン子爵と認められている者は、庶子であるのだが、副帝とされる人物の兄だった。兄を差し置いて、何故、弟が副帝になったのかは知られていない。
だから当の副帝は代替わりに際し、こういったと伝えられている。
――
この真偽はどうあれ、副帝の長男がドュフテフルスを、初代の長男が副帝のローゼンベルクを継ぐという変則的な相続が行われた。
「長幼の序?」
よく分からないという顔をするザキへは、エルが教えた。。
「兄と弟の序列という事です。家はお兄さんが継ぐのが正しい、とした訳ですよ」
戦乱の世であれば、能力が高い事、その一点のみが重要視され、場合によっては力で他者を追い落とす事も推奨されたのだが、文治主義へと向かう中では悪徳とれる部分もある――とまではエルも説明しないが、その状況がドュフテフルスの相続を面倒なものにしていた。
副帝は始世大帝の孫であるから公爵、庶流である副帝の兄は伯爵だが、その息子はドュフテフルスを継ぐために他家への養子に出された。
故にビゼン家は子爵となったのだが、こういう変化は大抵の者が嫌う。
それが成り立ったのは奇跡ともいえるのだが、その奇跡が奇跡ではなく、
コバックが見える景色から感じ取ったことを口にした。
「ノンビリしたところですね」
この港の景色だけでも不思議なもので、港の
それが日常である、とエルは笑う。
「ドュフテフルスは小雨の地域ですから、農業をしようにも雨が降らない事にはどうしようもないし、
この通りの土地なのだ。争い事を嫌い、のんびり優しい性格の男が多いというのは、童歌にも出てくる。
その結果が「大将なし」といわれるドュフテフルスであり、のんびりした気質故に、子爵家も皆、跡目争うよりも継承順位で継いでいく方が良いと受け入れた。
とはいえ、怠け者ばかりという訳ではない。
大将なしといわれるのは騎士、兵士の話であり、
今日、明日の仕事を堅実に
「行くッスよ」
ファンもそんなドュフテフルスの男である。
エルと二人で連れ立って出て行った土地へ、今、インフゥ、コバック、ザキを加えて帰ってきた。
向かう先は――、
「お城じゃないの?」
微妙にずれているとザキに訊ねられたファンは、御者席でケタケタと笑う。
「伯父様には、すぐには会えないッスよ。先に行くところがあるんス」
ファンが向っているのは父母の元でもない。そもそも城では、ファン自身も両親も
今、ファンが最も合いたい人は――、
「
ドュフテフルスに帰ってきた目的は、ヴィーに敗れた腕を磨き直すためだ。
――
ファン自身も、そう思っている。
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