第4話 フラッシュバック
二月二二日(水曜日)から二月二四日(金曜日)
いくら眠ろうとしても、これまでのマリとの六年間の結婚生活がフラッシュバックして眠れない。いや、結婚前の同棲期間を含めると七年間になる。マリと、いろいろなことを体験し、いろいろなところに旅行し、いろいろなところでショッピングした。この家だって、マリとこれからの一生を過ごすために買ったものだ。家の中のインテリアは、マリと一緒に買ったものばかりだ。そのマリが他の男の「彼女」だといい、僕を責めることが悲しかった。そして、マリとヒロの言葉の一つ一つが心に刺さった。マリがヒロへ送ったメールでは、「ヌシと一緒に生活している姿を想像できなくなっていた」と書いてある。ヌシとは僕のことだろう。ヌシという言葉から、沼に長く住んでいる不気味な大魚のイメージが浮かんだ。
二月二五日(土曜日)
病院(内科)に行き、眠れないといって睡眠薬を処方してもらった。睡眠薬を飲むと、胃から冷たいものが体中に浸み込んでゆき、意識が次第にうっすらとしてゆく。これで、やっと眠れる。
二月二六日(日曜日)
マリの言い分を信じようと思った。マリの両親の前では不倫はしていないと言い張ったのだから。
マリに電話したとき「ヒロとの不倫を疑ってごめん。」と言った。マリは、「いいのよ」と言っていた。この声には冷たい侮蔑の感情が含まれており、喋った言葉の意味とは全然違っていた。やはりマリはヒロと不倫をしたのだろう。もうヒロのことは聞かない方がいい。
三月一日(水曜日)
仕事をしていても心がちくちくと痛んでたまらなかった。僕は精一杯マリを大切にしてきたのだけど、マリにとって僕と一緒に暮らす日々は、その将来を想像したくないほど嫌だったのだろうか。僕はマリの夫として失格なのだろうか。何が悪かったのだろうか、これからどうすればいいんだろうかと自問自答していた。つらくてがまんできなくなったので、職場のビルの屋上に行った。屋上は人が寄り付かないところだった。ここでマリへのメールを書いて送信すると、また仕事にもどった。
睡眠薬が、あと六錠だけしかない。こんどの週末に、また病院に行かなければならない。睡眠薬なしだと、またフラッシュバックで眠れなくなってしまう。
三月三日(金曜日)
夕暮れ時にビルの屋上に登ると、あまりにも心がつらいので、このまま消えてなくなった方が楽なのではないかと考えた。試しにビルの屋上に設けられた柵を登ってみようと手を掛けたとき、マリの祖母のキヨさん顔が目の前に浮かんだ。穏やかで優しげな表情だった。「リョウさん、命を粗末にしないようにね。これは全然、自殺するようなことじゃないから。」という声が聞こえたような気がした。僕が自殺するのは、生きたくても生きられなかったキヨさんに申し訳ないとおもい、屋上の柵から手を離した。このとき僕は、キヨさんに助けられたのだと思う。
屋上から職場に戻ると、ふと、マリがスキー旅行に行ったときにカメラを貸したのを思い出した。仕事が終わるとすぐに家に帰り、カメラを探し出して写真を確認した。マリに何が起きたのかを知りたかったからだ。
スキー旅行の写真は何枚かあったが、スキーウエアを着たマリと私服のマリしか写っていなかった。一緒に行ったはずのマリの友達は、全く写っていなかった。それに僕は、マリの女子高時代の友達には面識がなく、連絡先も知らない。だから、本当にマリが友達とスキー旅行に行ったのかを確認できなかった。
たぶんマリは、女子高時代の友達とスキー旅行に行くとウソをついて、ヒロとスキーに行ったのだろう。でもヒロを撮影すると僕にウソがばれてしまう。ヒロを撮影できなかった結果として、マリだけが写真に写っていたのだろう。そういえばマリは、一月二八日と二月四日・一一日に女子高時代の友人と遊ぶといって外出していたが、実際にはヒロに会っていた。
三月四日(土曜日)
午前中に内科に行って睡眠薬を処方してもらおうとしたが、医師は僕と目を合わせず「できるだけもう睡眠薬には頼らないようにした方がいい」と言った。もう、ここでは睡眠薬は処方してくれないようだ。
家に帰って睡眠薬を処方してくれそうな診察科を調べると心療内科だった。いま睡眠薬を切らしてしまうのは怖くてたまらなかったので心療内科に行った。そこで睡眠薬の処方箋を出してもらい、薬局に行って睡眠薬を処方してもらった。マリではなく僕が心療内科に行くことになるとは皮肉なものだ。
ついでに薬剤師に、マリが飲もうとしていた錠剤が何かを聞いてみた。この錠剤は胃腸薬で、日本でも普通に処方されているものだそうだ。
午後には、調査会社と打ち合わせた。マリの行動を調査するためだ。マリの写真、マリの実家の住所、マリの亡くなられたお祖母さんの家の住所などを伝えた。マリは、亡くなられたお祖母さんの家に住んでいるからだ。
三月五日(日曜日)
マリの両親に会いに行った。マリの両親ならば、マリに起きている「本当のこと」を知っているのではないかと思い、会って話を聞きたかったからだ。でも、マリの両親の表情は硬かった。「娘を無理に家に帰させることはできないから。」と言っていた。
マリの両親は、どちらもヒロについては知らないし、会ったこともないようだった。マリの両親が僕に離婚するように責め立てていたのは、マリとヒロとの交際を認めていたからかもしれないと思っていたが、そうではなかったようだ。マリの両親は、あまり隠し事ができない人だから、その言葉にウソはないだろう。マリが離婚したいと言っていたので、味方になっていただけのようだ。
僕は、マリのことが好きだから、今後もずっとマリを大切にしたいし、離婚したくないのだと言ったら、マリの父母の表情が少し和らぎ、ほっとしたようだった。
この週末はマリと連絡がとれず、会って話をすることはできなかった。
三月六日(月曜日)
マリの母に電話してマリの近況を聞くと、こう言った。
「私もお父さんとの間でいろいろあったけど、こうして一緒にいるのだから、マリちゃんもきっと家に戻ってくるよ。」
マリの母の心遣いはありがたかった。でも、マリの母が言う「いろいろ」とは、マリの母の不倫なのだろし、マリも「いろいろ」やっていると言っている。つまりマリの母は、マリも不倫していると暗に言っているのだ。やはり血は争えない。マリは不倫をするような子じゃないと思っていたが、それは単なる僕の幻想だったのだ。
三月一二日(日曜日)
近くのカトリック教会の日曜礼拝に行った。カトリックでは、信者の離婚が禁じられている。マタイの言葉の第一九章がその理由だ。
「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
「だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」
僕の結婚観は、カトリックの結婚観に影響を受けていると思う。いちど結婚したら、何があっても離婚してはならないと考えていた。だから、マリと離婚せずに、また家族として暮らす方法を知りたかった。マタイの言葉の第一九章を実現するための具体的な方法を知りたかった。そこで、聖書を買って読むことにした。
この週もマリに毎日電話をしたが素っ気ない対応だった。更に金曜と土曜は電話が繋がらない。もしかしてヒロと会っているのだろうか。
三月一九日(日曜日)
この週も教会の日曜礼拝に行った。礼拝には夫婦で来ている人が多かったが、僕は独りだ。マリと一緒に礼拝できればと思った。
先週は気付かなかったが、多くのフィリピン系の女性がいて、礼拝のあと楽しそうにしゃべっていた。
この週も、マリと会って話をすることはできなかったし、昨日からずっと電話が繋がらず、胸騒ぎがする。
三月二一日(火曜日)
夕方六時に、調査会社からレポートを受領した。怪しいと感じていた三月一〇日・一一日と、一八日・一九日が不倫をしていた日だった。直感は当たるものだと思った。この調査レポートの写真でヒロを初めて見た。ヒロはブサイクで小太りだった。なぜ、マリがこんなブサイクな奴に惹かれたのか判らなかった。
三月一〇日にマリとヒロとは、ライブハウスに行ったあと、大衆居酒屋で酒を飲み、そのあとホテルに泊まっていた。一八日に、マリは、ヒロと〇〇テニスクラブで遊んだあとゲームセンターに行き、そのあとホテルに泊まっていた。
調査会社の人間は、相手の住所に関しては追加調査だと言って費用を提示してきた。追加調査の費用は相場よりもずっと高かった。これだけ調べていれば、ヒロの住所は確定しているだろう。調査でいい費用をとっておきながら住所情報を出し惜しみして、さらに追加料金を取ろうとしているようだ。いいカモだと思われているんだろう。この調査レポートがあれば、あとはひとり調べられるとおもい、追加調査は断った。
調査レポートを読み終わったのは午後九時頃だった。そのあと、車でヒロが住んでいる可能性の高い場所と勤務先であろう場所に行って、裏付け調査を行った。勤務先と思われる場所は、〇〇会社の物流倉庫だった。裏付け調査から帰ってきたのは翌日の深夜一時ころだった。
三月二二日(水曜日)
この日、仕事を休んで調査レポートの裏付けをした。ヒロがどこに住んでおり、どんな仕事をしているのかを調べるためだ。
調査レポートを読み解くと、ヒロが住んでいる可能性の高い場所は二か所だ。それぞれの住所から電話番号を調べて公衆電話から掛けた。公衆電話を使ったのは、電話番号からこちらの素性を知られないためだ。
「もしもし。美容室□□□□です。」
「あの、すいません。クリハシ・ヒロキさんのお宅はこちらでしょうか。」
「はい?!そうですが…。」
「僕は、〇〇テニスクラブでヒロキさんと一緒にテニスをしている渡辺といいます。先週の土曜日、クリハシ・ヒロキさんがテニスラケットを忘れておられたので、ヒロキさんにご連絡をと思いまして。」
「あ…?ああ!それはわざわざどうも、ありがとうございました。うちの弟はそそっかしいのでご迷惑をおかけします。」
「はい、テニスラケットは管理室に預けてありますので、ヒロキさんに、そのことを言っていただければとおもいます。」
「ご丁寧にどうも、ありがとうございます。」
「では、失礼します。」
ここで電話を切った。もちろん「渡辺」は偽名だし、ヒロがテニスクラブにラケットを忘れていたというのもウソだ。でも、ウソも方便だ。これでヒロの住所が確定した。しかも、ヒロに兄がいることと、兄が経営している美容室兼自宅に同居していることまで分かった。
次はヒロの勤務先の確認だ。勤務先であろう〇〇会社物流倉庫の住所から電話番号を調べ、公衆電話から掛けた。
「はい、〇〇株式会社です。」
「お世話になります。私は□□物産の田中と申しますが、クリハシ・ヒロキさんはいらっしゃいますか。」
「物流管理課のクリハシですね。少々お待ちください。クリハシさ~ん。」
もう充分だ。ここで電話を切った。ヒロは〇〇会社に勤務しており、職種は物流管理だとわかった。もちろん「□□物産」はウソだし、「田中」は偽名だ。
物流倉庫の管理業務とは、二〇代の若者にふさわしい仕事ではないと思った。まるで、第一線から退いた者が就くような仕事ではないか。さらにヒロの会社と年齢から年収を推定したが、同世代の平均値の約六割くらいだった。ヒロは兄と一緒に住んでいるが、おそらく経済的な問題からだろう。ヒロは、どこから見てもマリの結婚相手には不適切に思えた。なぜ、あんなハイテンションでマリにアピールできるのだろう。
この調査レポートから、ひとつの疑問が沸いた。マリとヒロとは、どうやって知り合ったのだろうか。ヒロは、マリと同年代で独身、住所は家から五〇Kmくらい離れており、電車で一時間半くらいの距離で路線も違う。同じ学校という訳でもなく、仕事上の接点も趣味の接点も見当たらない。マリがどうやってヒロと知り合ったのか、まったくわからなかった。
あと、マリが家から出て行った動機がなんとなくわかった。そういえば、マリが出ていく前日、僕は、マリの同僚の不倫を最低だと非難した。このときマリは、職場の同僚の不倫にかこつけて、マリ自身の不倫を告白していたのかもしれない。そして、僕に不倫を非難されたマリは、怒り心頭に発して出て行ったのかもしれない。
マリの自殺騒ぎは、何かを気付いて欲しかったようだった。マリは不倫を気付いて欲しかったのだろうか。それとも僕との生活が嫌になったことを気付いて欲しかったのだろうか。僕が気付いたとき、マリは、僕に何をして欲しかったのだろうか。
いつしか家の時計は、電池が切れてしまい、時報を奏でなくなっていた。電池を買ってきて時計にセットすると、再び時報の「ジュ・トゥ・ヴ」を奏でるようになった。この曲を聴くと、マリが出ていく前の日々が思い出された。マリと会ったときのこと、遠距離恋愛になったときに泣いてくれたこと、片道三時間も掛けて毎週マリに会いに行ったこと、そして結婚したこと、一緒に暮らした七年間のこと…。
僕は、まだマリと話がしたかった。そして、家に帰ってきてほしかった。なぜ、マリは不倫をしたのか。マリは僕のどこがイヤだったのか。僕はどうすればよかったのだろうか。マリは、ヒロのどこが良かったのだろうか。そして、僕が「ヌシ」なんていう不気味な存在としてマリに認識されているのがイヤだった。
三月二四日(金曜日)
僕は、両親に相談した。両親は、マリとは離婚すべきだという意見だった。そして母は、マリの自殺騒ぎのことを自業自得だと言い切った。さらに母は、マリがヒロの子供を妊娠するのではないかと恐れていた。母にとっては孫が一番の関心事だからだろう。母は、マリと僕との間に子供がいればこんなことにはならなかったかもしれないと言った。
僕は母に言った。「マリは子供が嫌いだから僕との間に子供は作らなかったし、ヒロとの間にも子供を作らないだろう。まだもう少しマリを説得してみる。マリをそんなに簡単に見捨てたりできない。ずっと六年間も家族だったのだから。」
そして僕は、子供が欲しいと思った。配偶者は離婚すれば他人となってしまうけれど、子供はずっと僕の家族だ。
三月二五日(土曜日)
マリをレストランに呼んで話をした。マリは酒が好きだ。マリに酒を飲んでもらった上で、率直な意見を聞きたかったからだ。マリの主張は、出て行った直後と変わらなかった。
「アパートを借りて自分だけの力で暮らしてみたい。自分が生き生きと暮らせるのが家族にとっても一番でしょう。病院(心療内科)には行かない。」
マリがいう「家族」には、僕は入っていないようだ。マリの両親のことだけを指しているように思えた。
僕はマリがアパートを借りるのを許可しなかった。マリがアパートを借りたいのは、ヒロと一緒に暮らしたいからだろう。でも、そんなことを許可できるはずがなかった。
「別居しているのは苦しくてたまらない。帰ってきて欲しいんだ。」
「いやよ、なんで私が我慢しなきゃいけないの?」
「何を我慢しているの?」
「…」
「答えてくれないの。」
「…」
「アパートを借りて一人暮らしなんかしちゃ駄目だよ。」
「また、私がやりたいことを止めようとするの?!」
「一人暮らしすると、マリが自殺したくなったときに止めてくれる人がいなくなる。」
「薬を飲んで自殺しろといったくせに。」
「マリが自殺したら僕が悲しい、それにお義母さんやお義父さんも悲しむ。」
「あなたと離れれば大丈夫なの!」
「…。それに、マリが出ていく前の日に飲もうとしていた錠剤だけどさ。」
「あなたが飲むのを止めてくれなかった!あの薬!?」
「あの錠剤、睡眠薬の成分は全く入っていなかった。」
「何言ってるの。私は飲んで眠くなったもの、睡眠薬でしょう。」
「あれは胃腸薬だったよ。」
「うそ…。」
「本当だよ。薬剤師にも確認した。日本でも売られているものだったよ。」
「…。」
「もう帰ってこないか。ずっと大切にするから。」
「駄目、あなたがあの薬を飲めというから、もう帰らない。」
その頃のマリには、これらの言葉は何も通じなかった。でも僕は、マリに毎日電話を掛けた。
四月九日(日曜日)
この日は、夜に電話を掛けた。マリは、結婚当初の話をしていた。
「私はハルオと浮気していながら許してもらったでしょう。」
「何を言っているの。そんなのは結婚前のことなんだから。」
「だから私は、あなたに結婚してもらったという気分が抜けなかったの。」
「僕はマリが好きだから結婚した。それがいけなかったのかい。それに、結婚前のことなんかどうだっていいじゃないか。」
マリは僕と結婚したいと言っていた。だから僕は、何があろうとマリの願いを叶えようとした。それがいけなかったのだろうか。
四月一三日(木曜日)
この日もマリに電話した。
「そういえば、サトコに会ったわ。」
「そう。」
「あなた、サトコやミキに私が病気だと触れ回っているの。」
「マリの力になって欲しかったからだよ。マリが自殺したりしないように…。」
「…。」
「サトコさんはなんて言っていたの。」
「何が原因かは置いといて、いまのマリがリョウさんのところに帰るのは無理だろうって言ってた。」
サトコさんは僕とマリとの間を取り持つように頑張ってくれたようだ。けれど、その心はマリには届かなかった。
四月二〇日(木曜日)
この日もマリに電話した。
「あの日、錠剤を飲んでよいかを、なぜ僕に聞いたんだい。」
「最期にチャンスをあげようとしたのよ。」
「何のチャンスなんだい。」
「でも、飲めっていったでしょう。だからダメ。」
「飲んではダメと言って欲しかったの?」
「もう、あとの祭りだけどね。」
「どういう意味。」
「…。」
「自分で判断して飲むようにといったことがそんなに悪いことなのかい。結局あの錠剤は胃腸薬だったのだけど。」
「悪いに決まっているでしょう。私がどんな気持ちで聞いたと思っているの。」
マリとの話はずっと同じところで留まっているようだった。マリにとっては、僕の話がずっと同じところに留まっているように思えているのだろう。
五月七日(日曜日)
この日もマリに電話した。
「僕はマリに帰ってきてほしいんだ。もう気が済んだろう。」
「帰らない! 気が済むわけがないでしょう。人に死ねと言っといて、なんの言い草よ。」
「あの錠剤は睡眠薬じゃない。死ねと言った訳じゃない。」
「死ねと言ったでしょ。いまでも別れたい気持ちは変わらないもの。」
「僕が悪かった、とにかく悪かったのを認めるから、だからもう責めないでくれ。」
僕はもう悲しくてたまらず、電話を切った。ここまでこじれているからには、もうマリが家に帰ってくることはないだろうとおもった。
少なくとも僕から電話するのはやめよう。マリの別居以降、体重が五キロ以上も減り、精神的にも体力的にもそろそろ限界だった。悲しかったけれど、少しずつマリの私物の片づけを始めた。
五月一二日(金曜日)
職場の新人歓迎会に参加した。この飲み会で部下の女の子と話をすると、少しだけマリのことを忘れられ、気持ちがずいぶん軽くなることに気付いた。この子は決して美人ではないが、頑張り屋で真面目な子だ。
飲み会の途中に、マリから電話が掛かってきた。二月の別居以来、マリから電話が掛かってくることなど殆どなかったのに、何の用事なのだろうか。
「今日、どこかで会えない?」
「ごめん、今日は無理なんだ。新人歓迎会の最中だから。ボク一人だけ抜けるわけにはいかないんだ。」
「そう…。」
マリはそれだけ言って電話を切った。僕は、体調の不良を理由に飲み会を一次会で切り上げ、一〇時半頃には家に帰った。実際、体調はあまり良くなかった。
その日の夜一一時頃、呼び鈴が鳴った。マリだった。マリは玄関で、「私ったら、こんなことしちゃって」などと言い、涙ぐんでいる。そんなマリを見ても何の感情も湧かなかった。マリが家に帰ってきてくれてうれしい筈なのに、感情がマヒしていた。あれだけ激怒していたマリが、何故ここにいるんだろう。なぜマリが帰ってきたのか分らなかったし、どう扱えばよいかも分らなかった。どうすれば元の家族に戻れるのか見当がつかなかった。
マリを家に入れると、週末だけでも一緒に過ごそうとマリに提案した。
「許してくれるの。」
マリは、少しだけ明るい顔になり、部屋にあがった。その日マリは、家に泊まった。でも僕は、マリとヒロとの関係が切れているかどうかわからず、マリの言動の一つ一つが恐ろしかった。
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