第5話 「そのこと」

 五月一三日(日曜日)

 カトリック教会の日曜礼拝にマリを誘ったが、全く興味がないようだ。マリを置いたまま日曜礼拝に行くわけにはいかないので、この日は家で映画を見て過ごした。

 夕方になるとマリは帰っていった。もう、錠剤の話もしないし、僕を責めることもなくなった。そして、来週の土曜日にはまた来ると言っていた。


 五月二〇日(土曜日)

 マリが帰ってきた翌週、マリに誘われて都内のライブハウスに行った。まさか、ここと思わなかった。このライプハウスは調査レポートで知っている。ここは、マリがヒロのデートで立ち寄った場所だ。僕は、どんな顔でライブを見ていればいいか分らなかった。僕はマリがここで何をしたのかを知っている。でも、マリは僕が何も知らないと思っている。だからこそ、ここに誘ったのだろう。

 ライブハウスのイベントのあと、レストランで食事をしたけれど、僕は、あまり食が進まなかった。


「なぜ、すこししか食べないの?」

「うん、このところ食が進まなくて、五キロ以上も痩せてしまったよ。」

「ダメよ、ちゃんと食べなきゃ。」

「…、そうだね。」


 痩せる一番の原因を作ったマリにこう言われては、苦笑いするしかなかった。


 六月四日(日曜日)

 マリの母がマリの祖母(キヨさん)の法事を主催し、マリだけではなく僕も招待された。こんな状態でも法事に呼んでもらえるのはうれしかった。でも、マリの父と顔を合わせるのは気まずかった。マリの父は、マリの不倫を言いがかりだと言っていた。でも、マリは実際に不倫をしていたのだから。

 ボクはマリの母にお礼を言った。


マリ母「いえいえ、当然よ。リョウさんは母には優しくしてくれたから。」

マリ父「リョウさんはねえ、キヨさんの見舞いは欠かさず行ってたのは偉いと思ったよ。」


マリの父は、ろくに僕とは目を合わせなかったが、僕がキヨさんのところに頻繁に見舞いに行ったことは褒めてくれた。マリの祖母のキヨさんを介して、未だマリとのつながりが残っていることがうれしかった。

 法事では、マリの妹夫婦に会ったが、僕から目を逸らして、青い顔で震えていた。彼らも、何かを知っているのだ。でも、マリの妹はもちろん、その旦那さんにも、何を知っているのかを聞きづらかった。例えば僕は、マリの妹が不倫しているのを知っている。けれど、マリの妹の旦那さんがそのことを知らないならば、知らせるべきではない。多分、マリの妹の旦那さんも、マリについて何かを知っており、僕には知らせるべきではないと思っているのだろう。

 法事で使ったレストランでは、壁に古代中国の漢詩が書かれていた。キヨさんの友人が、その漢詩に対して無茶苦茶な解釈を当て嵌めて、皆の笑いを誘っていた。どうやら元の漢詩の本当の意味を知っているのは、僕以外は誰もいなかったようだ。落語の「ちはやふる」のようだと思ったけど、その場では何も口を挟まなかった。

 法事のあと、家に帰ったらマリから電話が掛かってきた。夕食は親族だけで居酒屋に行くので、僕にも連絡が来たのだ。僕は、先ほどの漢詩の解釈をプリンタで印刷して居酒屋に持って行った。さっきの無茶苦茶な解釈の種明かしだ。マリの母や父に笑ってもらえるだろうと思った。

 食事会でマリの母に、その漢詩の解釈のプリントを渡したら、上を仰いで見るのをためらっていた。マリの不貞の証拠が書かれたプリントだとでも思ったのだろう。マリの母にとって、僕の行動のひとつひとつが、何か恐ろしいものに見えているようだ。

 暫くしてマリの母は意を決してプリントを見たが、マリの母にとって、それば予想外のものだったようで、訝しげな顔をしていた。

「さっきの漢詩の意味ですよ」

 僕が種明かしすると、マリの母は安堵のためいきと共に笑い出した。

 マリは両親にライプハウスや居酒屋の話をしている。


「この居酒屋、最近知ったんだけど美味しいよね。〇〇のライブハウスの帰りに寄ったんだ。」


僕には、マリがヒロとデートしていたときの話をしているのが分った。いま僕とマリがいる居酒屋は、マリとヒロとがデートに使っていた居酒屋と同じチェーンだ。酒を飲んでも心がざわついてしょうがなかった。


 六月一〇日(土曜日)

 週末にマリが家にいるときに電話が掛かってきた。マリがその電話をとって僕に取り次いだ。僕の母から掛かってきた電話だった。なぜ、マリが家に帰っているのかを聞かれた。母は、最初にマリが電話に出たので驚いていたようだった。やはり母は、マリとは離婚すべきと考えているようだ。

 マリは、この電話が終わったあと、少し悲しそうに僕に聞いた。

「なんでお義母さまは、雰囲気が変だったの?」

僕は、この質問には答えられず、口を濁した。母がどうあろうと僕がマリを受け入れなければと思った。



 六月一七日(土曜日)

 カトリック教会の日曜礼拝にマリを誘った。マリにカトリック教会の結婚観を聞かれたのでこのように教えた。

「離婚して別の人と再婚することは、最初に結婚した人に対する姦淫にあたるから、離婚してはならないと決められているんだよ。」

「まるで終身刑じゃない。」

マリは震えながら小声でつぶやき、泣き顔になった。

「姦淫みたいな悪いことをしなければいいのだから。」

「じゃあ、あなたには何も悪いところはなかったの?」

「…わからない。」

 意表をつかれた。僕はどこが悪かったのだろうか。こんなに苦しい思いをしているのは何故なのだろうか。

「なんだか言ってることが違うじゃないの。あなたは自分が悪かったと言っていたじゃないの。」

 この日マリは、家に泊まらずに帰っていった。



 六月二四日(土曜日)

 この日は外でマリと会って映画を見たあと、レストランでお酒を飲んだ。来週の週末には地域の夏祭りのイベントがある。マリと一緒に参加したいのだけれど、こんな状態で参加しても大丈夫だろうかと、恐る恐るマリに聞いてみた。

「マリ、来週は、うちの地域の夏祭りがあるんだけどどうする。」

「来週、いいけど?」

「夏祭りには、近所の知り合いの人たちも来るみたいだし、いま別居していることは秘密にして欲しいのだけど。」

「…。」

「いまの状態を知られると、いろいろと噂されかねないことだし…。」

「やっぱり止めておく。そんな面倒なのはイヤ。」

 すっかりマリの機嫌を損ねてしまい、この日マリは、家には寄らずに帰っていった。



 七月八日(土曜日)

 マリとレストランで話をしていたときのことだった。

「今日はここまでしか一緒にいられない。このあとで女子高時代の友達と会うの。」

マリは歪に笑った。そして笑いながら「女の顔」をした。僕は、またマリがウソをついていると直感した。でも、その直感が間違いであってほしかった。

「じゃあ、その友達に会ってあいさつしたんだけど。」

「えっ、貴方はすぐ後に見たい映画があったんじゃないの?」

「映画なんかよりも、マリの友達に挨拶する方が大切だから。」

「とにかく止めてよ、イヤなの、そんなの絶対ダメ!」

マリは俯いて困った顔をしていた。


「わかったよ…、その言葉を信じるから。」

 そこまで言われては引き下がるしかないが、苦しかった。マリの女子高時代の友人は、マリから話を聞いただけだ。かろうじて下の名前は教えてもらっているが、写真もないので顔もわからず連絡先も知らない。だから、マリの言葉を信じるしかない。

 マリと別れて家路についたけれど、苦しさは消えなかった。いまでもヒロと続いているのだろうか。そして、いまでも僕にウソをついているのだろうか。


 七月一五日(土曜日)

 マリは珍しく家に寄ってくれた。僕がパスタの昼食を作り、一緒に昼食をとった。昼食後、マリにキスして抱きしめた。

「ねえ、ちゃんと(避妊具を)つけてね。妊娠して泣きたくないんだから。お願いね。」

今までマリに、こんなことは言われたことかなかった。今までもちゃんと避妊はしていたんだから心配などいらない筈なのに。これは、ヒロに常々言っていることなのだろうか。僕はヒロと同じ立場なのだろうか。無性に悔しくて仕方がなかった。僕はマリに言った。

「僕は『本当のこと』を知っているんだよ。」

「なに?『本当のこと』って」

「マリが今している『本当のこと』を知っているんだ。」

「…。」

「だから、マリのご両親が『本当のこと』を知る前になんとかしよう。」

「…。」

「例えば、こんな風に別居しているのはよくないから、もう家に戻っておいで。」


 「本当のこと」とは、マリの不貞行為のことだ。調査レボートをそのままマリに突きつけると、マリとの関係は終わってしまうと直感していた。だから僕は、マリに仄めかすだけにした。マリの背中に手を回そうとしたが、マリは、僕の腕からするりと抜け出して、僕を真正面から見つめた。


「残念だったね、『そのこと』ならとっくにパパやママや妹、ミキやサトコに告白しているからさ。」

「え、・・・」

「あなたが何を言っても、もう無駄なのよ、私、もう皆に言っているんだから。」


 僕は、法事のときに、義理の妹夫婦が青ざめて震えていた理由が完全に理解できた。彼らは「そのこと」をマリから直接に聞いているんだ。マリの行動から推測しているだけじゃなかったんだ。僕とマリとは、もう何事もなかったように家族として暮らすことができなくなってしまった。


「何のために…、マリのお父さんはなんて言ってたの?」

「パパは、『そのこと』を聞いて『しまった』という顔していたけどね。」

「それじゃあ、マリを庇ってくれたパパの立場がないじゃないか。」

「でもしょうがないじゃない、これが私なんだから。」

「…。」

「もう帰る。『そのこと』ばかりで、もうイヤだから。」


 この日もマリは家に泊まらず、すぐに帰ってしまった。マリはこの日、「そのこと」が何かを一言も言わなかった。僕も、「本当のこと」とは何かを言わなかった。その頃のマリと僕との会話は、マリがしている「そのこと」を伏せた不自然な会話だった。

 僕は不思議だった。マリは何のためにわざわざ「そのこと」を親族や友人に告白していたんだろうか。もし僕が、マリと離婚して慰謝料を請求しようと考えていたならば、マリにとって不利な材料になるだろうに。


 七月二九日(土曜日)

 マリとレストランで会って食事をしていると、こう言った。


「ミキから縁を切られたの。」


 マリの友達のミキさんは、あの「ジュ・トゥ・ヴ」の時計を贈ってくれた人だ。そしてマリと結婚していた六年間の間、ずっと親しくしてくれた人だ。あまりのことに驚いて確認した。


「どういうことなの?」

「ミキは旦那さんに、私との関係を断つようにと言われたそうなの。」

 マリの例の告白が原因なのだろうか。

「まずいんじゃないの、どうするの。」

「しょうがないでしょう。離れたい人は離れていけばいい、これが私なのだから」

 マリは平然とした顔でこう言った。僕は、心がキリキリと痛んで左胸をおさえた。そして、僕とマリとの間をつなぐものが少しずつ切れていくのを感じていた。



 八月五日(土曜日)

 ディズニーランド周辺のホテルにマリと泊まった。ディズニーランドに来たのは約九カ月ぶりだった。部屋でくつろいでいると、マリは言った。


「私がしていることって、とってもひどいことだもの。それも常識外れの。」

「そう。」

「ママがしていたことより、もっとひどいこと。でも私、自分じゃ止められないの。」


 マリの母がしていたこととは不倫だろう。不倫よりも、もっとひどいこととは何なのだろうか。


「僕はマリがしていることを考えると苦しくてたまらないよ。もう止めてくれよ。」

「でも、止められないもの。」

「止められないことって何?」

「…。」

「親族や友人には、何をしているのかを言ったんだろう。」

「…。」

「いいよ、本当は全部分ってる。でも、僕はどうすればいいのか分らないんだ。」

「…。」

「家に帰ってきてくれないの。」

「帰っても私が損をするばかりでしょう。」

「損って何?」

「…。」

「それにマリは僕と結婚しているから、同居の義務があるんだよ。」

「何それ。」

「夫婦は一緒に住まなければならないということ。勝手に出ていくのは悪意の遺棄にあたるよ。」

「知らない、私にとっての結婚はそういうものじゃないから。」

「マリは、これからどうしたいの?」

「さあねえ。」

「マリ、慰謝料を払ってでも僕と離婚したい?」

「ふふっ、考えてもなかった。それに、そんなお金ないし。」


 マリは、答えを曖昧にして笑っていた。そういえばマリは、いつしか離婚したいとも言わなくなっていた。でも僕は、マリと結婚していながら別居しているという矛盾した状態のままではいられないと思っていた。


「そういえば、私、料理の勉強を始めてるんだ。」

「そう。」

「気付いたんだけど、私、料理が壊滅的に下手だったのね。」

「ふうん。誰に食べてもらってるの。」

「いいえ、私自身が食べるためだけど。」


 確かにマリの料理の腕前だと、一人で暮らすだけでも苦労するだろう。僕は、マリに会う前の一人暮らしが長かったから、別に料理や家事に困ることはない。ただ、マリに別居されて、不貞をされるのが苦しくてたまらないだけだ。



 八月二一日(月曜日)

 会社の同僚が、僕の写真を渡してくれた。二週間前に撮ってくれたものだ。その写真に写った僕自身の表情に愕然とした。半開きの瞼、苦しそうな表情、痩せこけた頬、マリに不倫されて苦しんでいる僕の感情がありありと示されていた。いつのまに僕は、こんな表情になってしまったのだろうか。



 八月二二日(火曜日)

 お盆を過ぎたが、マリの親族の墓参りに呼ばれなかった。マリの母に電話した。


「キヨさんの墓参りはこれからですか。」

「あ、ああ。墓参りだったら先週内輪ですませちゃったのよ。」

「そうだったんですか。」

「リョウさんは忙しい人だから、墓参りに誘うのは申し訳なくって。」


たぶん、マリの親族の誰かが僕の参加を嫌がったのだろう。マリの祖母のキヨさんを介したマリとのつながりも切れ始めたようだ。

 僕は、自宅の時計の時報をオフした。時計が「ジュ・トゥ・ヴ」を奏でることはなくなり、すこしずつマリのことを思い出す時間が減っていった。それとともに、心の苦しさもなくなり、平穏な時間が増えていった。


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