第3話 事件
二月一六日(木曜日)
夕食後にドライブしていると、マリは、職場の同僚の不倫について話した。僕は、不倫は嫌いだし、不倫するような人も好きではなかった。
「うちの職場の同僚で、不倫している人がいるのよ。」
「最低だね。」
「そう。」
「不倫、つまり不貞行為をした同僚は、有責配偶者だよ。」
「有責配偶者って何。」
「婚姻関係の破綻について責任のある者のこと。」
「ふうん。」
「有責配偶者は、自ら離婚をする権利はない、それどころか意に反して離婚させられる場合すらある。」
「…。」
「でも、最近は数年間の別居生活で、有責配偶者からの離婚も認められるようにもなっているよ。」
同日の夜一一時頃、寝る前にパソコンでメールをチェックしていると、マリが錠剤を持ってやってきた。
「これを飲んでいい?」
「え・・・?何、体調悪いの。」
その錠剤は、一年前のローマへの海外旅行でマリが体調を崩したときに、僕が空港の薬局で買った錠剤だった。現地のガイドの言うがままに買ったので、何の薬だか分からなかったが、おそらく風邪薬だろうと思った。
「ちゃんと判断して飲むんだよ。」
それだけ言って、またメールチェックに戻った。メールチェックが終わったとき、マリは早めに寝てしまっていたので、そっと起こさないようにベッドに入った。
二月一七日(金曜日)
この日の夕方、マリから電話があり、実家に泊まると言っていたが、特に気にも止めなかった。マリの実家は近かったので、よく実家に泊まっていたからだ。
二月一八日(土曜日)、マリは、マリの父親と一緒に自宅に来た。マリは、とてつもない仏頂面で、僕と目を合わせようとしなかった。
「うちのマリを見て、なにか思わないかい。」
「…、どうしたんですか。…」
「わからないのか。(溜息)…マリは自殺未遂をしていた。」
「マリ!!」
「オレはマリが昨日帰って来たときに、只ならぬ雰囲気だったから、すぐに大変なことがあったと分かった。」
「マリ、なんでそんなことを、理由は?」
「…。」
「リョウ君は、マリのこの雰囲気がわからないのだろう。もう、リョウ君のところにマリは置いてはゆけない。このまま連れて帰る。」
「…、ええ、お願いします…。」
「リョウ君もマリが自殺したら困るだろう。」
「ええ、もちろん。」
「そうか。」
「お願いですが、マリを心療内科につれて行っていただきたいのですが。」
「ああ、わかった。ところで、マリの服や日用品も持って帰りたいんだが。」
「はい。」
「マリは、当分の間、亡くなられたキヨさんの家に住ませる。」
僕は気が動転してしいた。マリが自殺未遂!なんでだ?理由は?とりあえず、マリの父の言うままに、マリの衣類などを用意して玄関に持って行った。マリの父は、マリの衣類が入ったケースや、化粧用具などを車に載せていた。まるで、マリが父親の助けを借りて夜逃げをしているようにも見えた。マリは、ずっと仏頂面のまま、ひとことも話さなかった。
二月一九日(日曜日)
マリは電話に出ない。メールを送信してもマリはメールを帰さない。いままで、マリと一緒に暮らしていた家が、がらんとした空虚な空間になってしまった。僕には、マリの自殺未遂と、その原因が何なのか、まったく見当がつかなかった。一人で寝室のベッドに座ると、マリともう二度と会えなくなるような気がして涙が出てきた。
二月二〇日(月曜日)
マリの友達のミキさんに電話したら、ミキさんの旦那さんに繋がった。ミキさんの旦那さんは、ミキさんと僕とがどういう関係かと疑っているようだった。僕は奥さんの友達の夫であると説明した。そして、マリが心を病んで自殺未遂したことについて、ミキさんへの伝言を頼んだ。
マリの友達のサトコさんにも電話した。マリが心を病んで自殺未遂したことを伝えると、会って近況を聞いてみると言ってくれた。
二月二一日(火曜日)
僕は、マリの「自殺未遂」の理由が知りたくてマリの部屋を探した。マリが使っていたノートPCを調べたところ、メールのやりとりの相手に「クリハシ・ヒロキ」という見慣れない名前が出てきた。
日時:一月二八日(土)
送信元:クリハシ・ヒロキ
宛先:マリ
題名:おかえり
本文:
お疲れさま!初めてパソコンの方にメールを送るよ!今日は、マリに心配をかけちゃったね!
こういうとき、普通は心配をかけてごめんねっていうんだけど、俺は心配してくれてありがとうって言いたいんだよ。前向きな言葉でしょ。
たいせつなことを聞くのを忘れていた。マリは恋愛と結婚とは別と考えている?それとも恋愛の延長で結婚すると考えている?心配になって聞きたくなった。俺は、恋愛の延長としての結婚しか考えられないんだよ。こんな事を言うとマリを怒らせたり悲しませたりするかもしれないけれども、これまでに付き合った人も結婚することを前提に考えていた。
これからもマリと二人で楽しくいられたらいいなと思ってるよ。
日時:一月二八日(土)
送信元:マリ
宛先:クリハシ・ヒロキ
題名:ただいま!
本文:
今、帰ったところだよ。私も恋愛の延長で結婚するという考え方だよ。恋愛と結婚とは別なんて、あまりにも悲しすぎるから。私は好きになると結婚相手の人に夢中になるんだよ。自分の事をいっぱい分かって欲しいし、相手の事もいっぱい分かりたいんだ。
日時:一月三〇日(月)
送信元:クリハシ・ヒロキ
宛先:マリ
題名:十分だよ!
本文:
男性の方が結婚に夢を持っていることが多くて、女性の方が恋愛と結婚とが別と考えることが多いよね。だから、マリがどう思ってるか気になってたんだよ。
もちろん、俺がマリのことを真剣に考えているからこそ聞きたかったんだけどね。
俺と同じように考えてくれていて、すごくうれしいよ。
日時:二月一日(水)
送信元:マリ
宛先:クリハシ・ヒロキ
題名:仕事人間だと思われたって
本文:
前から友達や付き合っていた人に、「一人でも生きていけるタイプだね」と言われることが多かったから、自分でもそう思いこんでいた。人のことには干渉しなかったから、そう思われたのかもしれない。でも、本当はそうじゃないのに誤解されたんだけどね。仕事なんかよりも恋愛の方がずっと大切だし、夢も持っているよ。
日時:二月三日(金)
送信元:クリハシ・ヒロキ
宛先:マリ
題名:知ってる!
本文:
マリが素直に言えないのは十分に分かってま~す!恥ずかしがり屋で照れ屋で負けず嫌いだからね。ファミレスで俺が「お見合いパーティでも行くかな?」って言ったときに、「頑張れば」と言いつつ目が怒っていたからね。かわいいと思ったよ。
多分、今までの友達や彼氏はマリの性格がよく分かってなかったんだとおもう。俺がマリに素直な気持ちを話すと、マリは同じように素直に話してくれているよ。マリに心を開いて素直な気持ちを話してもらうには、まず俺から心を開かないとね。だから俺は思ったことは全部マリにぶつけていくから。負けずに思ったことをぶつけてきてね。
日時:二月五日(日)
送信元:マリ
宛先:クリハシ・ヒロキ
題名:素直になれない
本文:
私は、いざとなると素直になれなくて、「あんたには関係ないでしょ」って言っちゃって、「考えていることがわからない」と言われてしまったことがありました。素直に言いたいことは言っておくべきだね。
日時:二月六日(月)
送信元:クリハシ・ヒロキ
宛先:マリ
題名:ダメだよ!
本文:
マリに「あんたには関係ないでしょ」って言われたら即答で「関係あるに決まってるじゃん!俺は彼氏なんだから頼れよ!」ってはっきり言うね!
そういえば、うちの会社、中国にも支社があるんだ。俺、もしかすると中国に行くことになるかもしれないよ。そしたら、マリとデートするのも、今みたいに毎週末じゃなく、半年に一回とかになるのかもな。
日時:二月七日(火)
送信元:マリ
宛先:クリハシ・ヒロキ
題名:ついていくよ!
本文:
中国に行くことになるかもしれないってホント?転勤で中国に行くことになったら、ついていくよ!!ヒロの彼女なんだから当然だね。
日時:二月八日(水)
送信元:クリハシ・ヒロキ
宛先:マリ
題名:中国
本文:
「転勤で中国に行くことになったら、ついていくよ!!」って言ってくれた事が、すごくうれしかった。冗談ぬきで今まで生きてきたなかでベスト5に入るくらい!
これからもマリと一緒に人生を送って行けたらいいなと思ったよ。
日時:二月九日(木)
送信元:マリ
宛先:クリハシ・ヒロキ
題名:光栄です。
本文:
うれしいことのベスト5に入るなんて光栄です。でも、ヒロには迷惑をかけてばかりだね。正直いうと昨日の夜、別れた方がヒロのためにはいいのかなと考えていました。でも、自分の気持ちに正直になってみたら、そんなのは嫌だと思う自分がいました。今は気持ちが晴れていくのが分かるから!こんな気持ちは今までの人生で初めてかな。
日時:二月一〇日(金)
送信元:クリハシ・ヒロキ
宛先:マリ
題名:素直に!
本文:
そもそもマリの気持ちは俺とは「別れたくない」なんだから、その気持ちに素直でいればいい!それが俺のためにもいいんだし何を気にしているんだか。マリも、彼氏には素直でないと人生は楽しめないよ!
日時:二月一一日(土)
送信元:マリ
宛先:クリハシ・ヒロキ
題名:迷惑かけたくない
本文:
別れた方がいいかもっていうのはヌシがらみのこと。ヌシとのことにヒロを巻き込んで、迷惑かけたくないから。
日時:二月一二日(日)
送信元:クリハシ・ヒロキ
宛先:マリ
題名:平気!
本文:
チョコはおいしかったよ。マリの気持ちが伝わってきた。ありがとう。
ヌシなんざ気にもしてない!俺は全然迷惑なんかじゃないよ。俺がマリの彼氏なんだから、マリは俺に守って欲しいというべきなんだよ。
日時:二月一三日(月)
送信元:マリ
宛先:クリハシ・ヒロキ
題名:同じかな
本文:
ありがとう、ちょっと早めのバレンタインだったけど。
本当のことをいうと、ヌシがらみのことにヒロを巻き込むのはどうかと思っていた。でも、迷惑じゃないって言ってくれてうれしかった。恋愛の延長で結婚するというヒロの考えは、いまでも同じかな。
日時:二月一五日(水)
送信元:クリハシ・ヒロキ
宛先:マリ
題名:同じだよ
本文:
今でもまるっきり同じだよ。マリは気になることを全部話してくれて楽になっただろうし、俺の気持ちも本気だって事か分かってくれただろうし、二人の関係が前進するきっかけにもなったし、こうして考えるといい事だらけじゃん!(笑)
ね?人生は楽しまないと!同じことでも、こういう風に考えると気分がいいでしょ?マリも俺と一緒に前向きに考えようね。(ハート)
日時:二月一五日(水)
送信元:マリ
宛先:クリハシ・ヒロキ
題名:いい事だらけだね!
本文:
今までの自分って、物事を悪い方に考える事か多かったな。三年くらい前から先の自分が見えなくなっていた。そして、ヌシと一緒に生活している姿を想像できなくなっていた。ただの倦怠期かなと思っていて、本当の気持ちに気付くのか怖かった。その時に気付いていればと思うことも出来るけど、これをいい風に考えれば「今気づいて良かったじゃん!」となるから不思議だよね。今まで、離婚は人生の汚点だと思ってたけれど違うよね。離婚もいい風にとれば「再出発するいいチャンスなのかな」って思える!
日時:二月一六日(木)
送信元:クリハシ・ヒロキ
宛先:マリ
題名:違うから!
本文:
離婚は人生の汚点だなんて何を言っているんだか!だめやね~。ある意味、再出発の門出やで~!よっしゃ、前向きになるためにマリが旧姓に戻ったら、二人で旅行に行って、ささやかにお祝いをしよう!ふたりの新たなる門出に乾杯!
日時:二月一六日(木)
送信元:マリ
宛先:クリハシ・ヒロキ
題名:うん!
本文:
今、自分の本当の気持ちに気づいた。すごく前向きになれてうれしい。ヒロとの旅行を楽しみにしているよ!!ワクワク。
最後にマリがヒロに送ったメールは、マリが実家に泊まった日の前日に送られたものだった。僕は、すぐさまヒロのアドレスにメールを送った。メールの内容は、どれだけマリを愛しているかということ、マリと決して別れることはないということだった。すぐにマリにもメールを送った。このメールを見てしまったことを告げた。
二月二二日(水曜日)
マリに会いに行った。マリは、敵意を含んだ目で僕を見た。
「なんでヒロに連絡したのよ。ヒロのおかけで私は救われたんだから。あなたとは離婚するの。」
「離婚したら、ヒロと結婚するのか?」
「知らない、でも、あなたとは離婚するの。とにかく五年間別居すれば離婚できるんでしょ。」
「もしかして、数日前に僕が言ったことか。ともかくヒロに電話しろよ。」
マリは携帯電話でヒロに電話した。「うん、パソコンのメールを見たようなの。」と言って、僕に代わった。
「君がヒロか、マリと不倫してるな」
「ええしてますよ。」
「どういうことだ!」
「奥さんが死にたいほど苦しんでいるのに、気づかない鈍感な人に、えらそうなことを言われたくない。」
平然とこれだけ言うと、ヒロは電話を切った。ずいぶん図々しい間男がいるものだと驚いた。
マリに携帯電話を返すと、マリはぽつりぽつりと話をはじめた。
「…、私、ママとパパに離婚したいと言ったの。」
「理由は?なぜ離婚したいと思ったの?」
「でも理由が弱いから、ママには訴訟で勝てないだろうとも言われたの。」
「弱いって、理由は何なの?」
そこまで聞いたところで、マリの父親と母親がやってきた。近くに駐車していた僕の車を見かけたのだろう。
リョウ「マリは、不倫をしているんです。」
マリ母「え?マリちゃん、お相手の人って既婚者なの?」
マリ 「違うよ。」
マリ母「不倫っていってもいろいろあるでしょう。どこまでしているの?」
マリ 「え、何もしていないよ。」
マリ父「していないと言ってるじゃないか。そもそもマリが不倫をしているとか責めているけど、不倫をせざるをえないような悪いことをリョウ君がしたからじゃないのか。そうでない限り、マリが不倫をする訳がないじゃないか。」
マリの母は、マリの相手が未婚ならば不倫ではないという意味のことを素で言っていたので驚いた。マリは僕と結婚しているのだから、相手が既婚者か否かに関わらず、不倫となるのだけれど。
また、マリの父の考えにも驚いた。いままでマリを甘やかしてきたのだろうと思った。僕はマリがヒロと遣り取りしたメールを紙に印刷していたけれど、マリの両親には見せなかった。無駄だと思ったからだ。
「それにあなたは、おととい薬を飲むのを止めなかったじゃない。」
「あの薬って?」
「おととい飲むって言った薬!」
「ああ、こないだの海外旅行のときに僕が買った錠剤だね。」
「あの薬って、睡眠薬の成分が入っているのよ!」
「なぜ、睡眠薬の成分が入っているとおもったの?」
「あの薬を飲んだ時に眠くなったじゃない、何時間も寝たのよ。」
「風邪薬とかにも睡眠作用があるものがあるからね。」
「つまり、私に睡眠薬を飲んで死ぬのを止めなかった。もうそんな人とは一緒にいられない。」
「あの錠剤は睡眠薬なんかじゃないよ。処方箋もなしに薬局で買った薬だから、たぶん普通の風邪薬。だから自殺などできないよ。」
「あんな眠くなった薬なんだから、睡眠薬に決まっているでしょう。飲めということは死ねというも同じよ。」
「ちがうよ、あれは一般薬。それに『ちゃんと判断して飲んで』とは言ったけど、別に飲めと命令した訳じゃないし。」
「なによ、私に睡眠薬を飲めと言ったでしょう!つまり死ねと言ったのよ!」
マリは自殺しろと言われたと激怒したままだった。また、マリの母は、マリの自殺が一度ではなかったと言っていた。
「一月まえくらい、マリちゃんが道を歩きながら、〇〇の高いビルのてっぺんから飛び降りたらどうだろうなあと考えていたそうよ。携帯電話の着信音が鳴って、はっと正気に返ったそうだけど、もしそのときに着信しなかったらと思うと…」
つまり、マリは、高層ビルからの飛び降りを空想しただけだそうだ。その高層ビルに実際に登ったわけではない。でも、マリやその両親にとっては、マリの命を奪われるかもしれない出来事になっており、その責任は僕にあるのだそうだ。
マリ 「あなたとは、とことん嫌いにならないうちに離婚するの。そして、いつか何処かで会っても友人として普通にあいさつできるような仲でいたいの。」
マリ父「マリは、リョウ君のせいで自殺未遂をしようとしたんだし、リョウ君はそんなマリの気持ちに全然気づかなかったんだろう。つまり君の責任だ。」
マリ母「リョウさんお願い、マリちゃんと離婚して。」
マリ父「リョウ君もマリに自殺未遂させておいて、よくもまあ不倫がどうのと言いがかりを…。」
マリ 「不倫なんかしていない。あなたに抑圧されているので、精神的に不安定になっただけ。」
マリは離婚したいと言っていた。マリの主張を離婚理由に当てはめるならば、「性格の不一致」だ。でも性格の不一致では、双方が離婚に承諾しないと離婚できない。だから、マリの両親は、マリの自殺未遂を理由に、離婚を承諾するように僕を責め立てていたようだ。
でも、マリはずっと何年も一緒に暮らしてきた家族だし、大切にしてきたつもりだった。だからこそマリやマリの両親に、いきなり離婚するようにと言われても、納得できるはずがなかった。
マリに、どう抑圧されていたのか、何がいやで家に帰りたくないのかを懸命に聞いた。でも、マリは感情的にどなりちらすだけで、まともな答えは返ってこなかった。
「ともかくマリ、自殺未遂をするなんてとんでもないことだから。」
「あなたから離れれば大丈夫なの。」
「じゃ、病院で、心療内科でよく診てもらってくれよ。」
「病院には行かない。」
「でも、それじゃ良くならないだろ。仕事もストレスになるなら止めた方がいいし。」
「今の仕事は続ける。そして、車の運転をして、アパートを借りて自分の力だけで暮らしてみたい。」
マリはかたくなに拒絶するばかりで、マリの両親は離婚しろというばかりだった。らちが明かないので、二週間から一月に一回の割合で会って、これからのことを話そうということになった。
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