第16話 歓びの朝

新しい丼のおかげで、ここ数日間は大忙しだった。ユイもボクもヘトヘトだ。そんなボクを労うようにボクを癒してくれるユイ。

この夜はゆっくりと風呂に浸かり、深いしじまの中で互いの息遣いを確認し合い、互いのぬくもりを確かめ合った。

多少疲れていても、ボクはユイの匂いを吸引した途端、またぞろ夢の世界へ誘われる。ユイのやわらかな肌はボクをあっという間に狼に変貌させる。ふくよかな胸の膨らみは今宵も妖しく月の光に照らされて、ボクの欲望をかきたててくれる。

「慌てなくてもいいのよ。もうどこへも行ったりしないわ。」

「うん。」

ボクはユイの唇とその祠の奥に住む女神様に祈りを捧げ、同時に洞窟の奥の泉の湧き具合を確認する。ボクの先遣隊がそれを確認すると同時にユイの祠の中から吐息がこぼれ出る。その声はまるでボクの銃口を呼んでいるかのような声だった。

ボクはユイのぬくもりを余すことなく堪能する。ユイもボクを優しく受け入れてくれる。今宵もユイは美しい。月夜に照らされたユイの美しい肢体は眩いばかりだ。

やがてボクの憤りが我慢の限界を超えた時、ユイはニッコリ微笑んでボクを抱きとめる。

「いいの?」

ボクは苦悶の表情で尋ねた。

「うん。」

それを聞いた瞬間、ボクの銃口は暴発した。

「このところずっと大丈夫って言ってるけど・・・・・。」

ユイは身支度をしながらボクの胸に頬を寄せる。

「キョウちゃん。ホントはね、もうアレが来ないといけない日は過ぎてるの。」

「ん?」

「木更津のお母さんは、いつでもいいよって言ってたから。」

ボクは一瞬、呆然としたけれど、我に返った瞬間に飛び起きた。

「ユイ、それってもしかして、子供ができたってこと?」

ユイはハニカミながら答える。

「まだ確実じゃないけど・・・。」

「ねえ、明日、お医者さんに行かない?女将さんには事情を話してさ。」

「ううん、女将さんには具合が悪いからって言っておく。もし違ってたら嫌だから。」

「わかった。けど、期待しちゃうな。」

「うふふ。」

ボクはユイを抱きしめていた。ボクは父親になるのかも。そう思うと少し顔がニヤけていたかもしれない。

「このボクが父親か。」

ボクの顔がほくそ笑むには十分すぎる材料だった。ボクはユイを腕の中に抱きながら、ずっとニヤけたまま朝を迎えたことだろう。


翌朝、ユイは体調不良を理由に病院へ出かけた。

女将さんは心配そうにユイの背中を見送る。そしてボクを叱りつけた。

「お前さんがちゃんとしないから、ユイちゃんの負担が大きくなっちまうんじゃないのかい?心配だよ。」

「そうですね。ユイに負担がかからないようにもっと頑張ります。」

ボクはそう言って女将さんに言い訳するしかない。少し後ろめたい気はするけれど。

ユイが出かけてから二時間後ぐらいだったろうか、ユイはニコニコして帰ってきた。そしてボクの顔を見つけるなり抱きついてくる。

「キョウちゃん、ビンゴだって。二カ月よ。」

「ホントに?ホントにホントに?」

「うん。」

ボクは誰の目を憚ることなくユイを抱きしめる。

その様子を見た女将さんが、何かを察したように駆け寄ってきた。

「なになに?もしかして、婦人科に行ったのかい?」

「はい。」

ユイはニコニコしながらはっきりと答えた。

「お母さん、二カ月ですって。」

それを聞いた女将さんは大きな目をより大きく見開いてユイをギッチリと抱きしめる。

「良かったねえ。あたしも嬉しいよ。あっ、もうこれからあんまり無理するんじゃないよ。何かあったらいけないからねえ。重い物とか持ったらダメだよ。」

「うふふ。まだ大丈夫よ。来月ぐらいから少しずつ気を付けていくわ。」

「キョウスケ、お前も一人前になるんだ。もっともっと頑張らなきゃいけないよ。」

「はい。」

ボクは舞い上がるほどうれしかった。ボクのやる気と意欲にさらに火が着いたと言っても過言ではない。多少冷たいと思う水仕事も、今のボクには心頭滅却すれば火もまた涼しと言ったところか。


やがて寒さが厳しくなり、街中がクリスマスの気配を呈し始める頃。ボクとユイの緊張はさらに高まっていく。

そしてクリスマスの日はやってくる。

ボクは朝からソワソワしていた。この日はボクたちの結婚式ということで店は午前中のみ臨時休業という形をとっていた。

それでも商店街の人たちや常連客達が、そぞろ祝いに駆けつけてくれる。その対応をするのはもっぱらボクの役目である。

というのは、ユイは朝から美容院へ着付けとヘアーセットに出かけている。

ボクも貸衣装ではあるが、一応羽織袴を着こなす準備に取り掛かる。そうこうしている内にヒデさんがボクを迎えに来た。

「キョウスケ、おめでとう。用意はいいか。」

「おはようございます。もう朝から緊張しまくりですよ。結婚式の日ってこんな感じなんですか?」

「そうだな、もう随分と昔のことだから忘れちゃったよ。それよりも、ユイちゃんどんな感じになったかな。」

「会えるのは式場に行ってからですから。」

「よし、じゃあ行こうか。女将さんは?」

「ユイと一緒です。木更津の両親と一緒に神社へ向かうことになってます。」

「お前の両親は?」

「隣の部屋にいますよ。」

丁度そのタイミングでボクの母が現れた。

「恭介、用意はできたのかい。」

「ああ、今できたとこだよ。父さんはどうしてる?」

「兄さんと一緒に、先に神社へ行ったよ。」

親父殿もようやくボクたちの結婚を認めてくれたようだ。実はウチの両親にはすでにユイの妊娠の話はしてあった。これはもう親父としてもボクたちの結婚を認めざるを得ない事実となっていた。

店では、米倉氏の店のシェフたちがすでに到着しており、披露宴の準備を始めていた。ボクは店の留守番と準備をお願いして、ヒデさんとお袋と三人で神社に向かった。


冷たい風。透き通る空気。やわらかく皮膚に突き刺さる太陽の光。そして、静まり返っている境内の景色。そのどれもが新鮮だった。

笙の音色と共に厳かに始まる高尚な儀式。

目の前の麗しき美しい花嫁。白無垢に包まれた眩いほどに輝いて見えるユイがそこにいる。優しく微笑むユイの表情。ボクにとってかけがえのない天使は今、ボクのすぐ隣にいる。この日のことを何度夢見たことか。一年前では想像すらできなかった夢の瞬間である。高鳴る鼓動と込み上げる情熱がボクを高揚させていた。ユイはいつも以上に口数も少なく、ときおりボクを見つめてくれる瞳が潤んでいたように見えた。

緊張のあまり、式の間中ユイの手を取るボクの手はずっと震えていたに違いない。

神主の主導のもとに粛々と進められた厳かな儀式は、やがて三々九度のしきたりが終わり、ボクたちが本当の意味で結ばれる儀式が終了するのである。


神社での儀式が終了したのち、ボクたちはこぞって『もりや食堂』へ移動する。披露宴の始まりだ。食堂の料理は昨日のうちに仕上げてある。あとはお願いしているスタッフらによる料理が次々と出来上がるのを見守るだけだった。

食堂のテーブルには、全て白いテーブルクロスが覆われ、披露宴会場らしいセッティングが整っていた。

ボクは羽織袴からスーツに着替えてユイを待っている。

やがてドレスに着替えたユイがクルマに送られてやってきた。ユイがクルマから降りた途端に大きな歓声が沸く。それほどまでにユイは見事なほど美しかった。

披露宴の直前に親方の四十九日が開かれる。お坊さんが仏壇を前に念仏を唱える。女将さんは親方に晴れ姿を披露するように、ボクとユイを最前列に座らせる。お坊さんは始終、怪訝な表情だったが、女将さんの顔は満足気だった。

「あんた、ユイちゃん綺麗だろ。キョウちゃんも決まってるだろ。」

最後に女将さんが集まってもらったみんなに挨拶をする。

「これでウチの人も満足してあの世へ行ってくれると思います。そして、ウチの人がまだその辺にいるうちにキョウスケとユイの結婚披露宴を行います。どうぞみなさん、ウチの人も一緒に参加させてやってくださいね。」

何とも粋な挨拶だった。ボクもユイもこぼれる涙を我慢することができなかった。

そのときユイがそっと呟いた。「元気な親方にこの姿を見て欲しかった・・・。」

ボクは「そうだね。」と答えるしかなかった。

四十九日の儀式が無事に終わり、続いて披露宴が開催される。入り口から一番奥のテーブルに仕立てられたボクたちの雛壇。身内だけの披露宴は米倉氏の司会進行で始まった。

ボクたちの披露宴に仲人はいない。されど、立会人の代表としてヒデさんが挨拶を述べた。ボクたちの出会いについては、やや作り話とならざるを得なかったが、一緒に住みだしてからのエピソードは、わかりやすく参列した身内の方々に紹介された。

たくさんの方々から祝福され、お祝いの言葉を頂く。盃を掲げ、握手を交わし、シャッターが切られる。ボクとユイにとって最も輝いた一瞬だっただろう。

最後に親族代表として養子縁組が成立した今、法律上我々の母となる『もりや食堂』の女将さんが挨拶を行った。

その挨拶なかで、ユイの妊娠が正式に公表されると、会場では大きな歓声が沸き、多くのヤジと罵声が飛ぶ。

そして新婚旅行として明日から伊豆へ出かけるエピソードも披露され、会場はさらなる大きな拍手の渦に満たされる。ユイは淑やかに涙を流しボクは号泣していた。

こんな日が来るなんて、あの薄暗い部屋の中では想像もしていなかった。そして今、ボクの隣には可愛くて美しい花嫁が座ってボクの手を握っている。

食堂での披露宴が終わると、米倉氏の店での二次会が開かれる。食堂の外で披露宴の様子を見ていた商店街の親しい方々や常連客、そして『織田』の面々が続々と現れる。

『織田』の料理は素晴らしかった。タルタルつきのチキンカツはもちろんのこと、ローストビーフにハンバーグ、それは旨そうなナポリタンも用意されている。ボクは圭ちゃんの姿を探していたのだが、なかなか見つからなかった。やがては店の厨房まで彼の姿を探しに行くと、思った通り、彼はそこにいた。

最後の締めとなるハヤシラーメンの用意をしていたのだ。そう、あの対決のときのラーメンである。

ボクは作業する圭ちゃんに声をかけた。

「そろそろこっちにも顔を出してよ。色々な人たちに紹介したいから。」

すると圭ちゃんは力なさ気な声でボクに言った。

「ユイちゃん、ご懐妊だって?おめでとう。はああああ。」

大きなため息だ。

「どうしたって言うのさ。」

「正直言ってな、わずかながらでもボクにもまだチャンスがあると思っていたんだ。万が一、キョウちゃんと別れたら、オレがいただいてやろうと。もっと言えば、チャンスがあれば奪ってやろうとすら思っていた。でも妊娠したって言うことは、もう完全にオレにチャンスが無くなったってことだろ?これが溜め息をつかずにいられるかってんだ。」

ボクは胸の内に暖かいものを感じながら、

「ありがとう。圭ちゃんもユイのことを好きでいてくれたんだね。」

「まあこれで、完全に諦めがついたよ。キョウちゃん、これでユイちゃんを幸せに出来なかったら、すぐにでも首を締めに行くからな。」

ボクは圭ちゃんを抱きしめる。友情とは色々な意味でありがたい。心から感謝せずにはいられない。



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