第15話 思い出す一年前の朝
とうとう風が頬に刺さる季節がやってきた。
思い出すのは去年の冬。ユイがボクの下から姿を消したまさにその月である。あれから一年が経過しようとしている。色々なことがあった。なによりも、ボクの下にユイが戻ってきてくれた。それがボクにとって一番のイベントだった。その事は世界中の神様に感謝したい。
先だって、ヒデさんが店にプランナーを連れて来た日から二週間が経った頃、今度はスタイリストを連れてやって来て、ユイと一緒にドレスをチョイスしていた。あのときのプランナー氏も同行しており、パーティー用の献立を決めたり、ウチで出す料理をピックアップしたり、ドリンクの用意など、会場設営の準備に余念がなかった。
式は新宿の北側にあるこじんまりとした神社で行うらしい。そこは最近改装されたようで、パンフレットに掲載されている写真によると、さほど大きくないながらも赤く塗られた鳥居や白い壁が光って見えた。
ボクたちもそれぞれの両親や親戚などに配る招待状の準備に大わらわだった。日に日に近づいてくる大きなイベントに心躍るボクたち。同時に緊張感もかなり高まっていた。
そんな折、店に郵便が届く。宛名はユイ、差出人は米倉氏で書留だった。いつぞやのユイの誕生日プレゼントなのだろうか。でも書留で届くっていったい何事だろう。
ユイも恐る恐る封を開けてみる。そしてボクたちは驚愕するのである。
「すごい、こんなのもらっていいの?」
それは伊豆にある大きなホテルの宿泊券だった。しかもスイートルームだ。
「どうしよう。」
明らかに戸惑うユイ。それもそうだ。何度か会って面識はあるという程度の人から受け取るにはあまりにも大きすぎるプレゼントだ。
「どうしようキョウちゃん。どうしたらいいの?」
ボクは以前米倉氏にもらった名刺を探しに慌てて二階へあがった。
「とりあえず電話してみようか。ボクがする?ユイがする?」
「キョウちゃんお願い。私、緊張して話できない。」
ボクは仕方なくユイの代わりに電話を掛ける。
「もしもし、米倉さんですか。『もりや食堂』の恭介です。」
「ああ、恭介君か。どうした?」
「あのお、ユイに届いた書留なんですが。」
「ああ、やっと届いたか。ユイちゃんへの誕生日プレゼントだ。些少だけど気持ちよく受け取ってくれ。」
「米倉さん、これ、とっても些少じゃないです。あんまり大きすぎてユイが困ってます。」
「何のことはないんだ。こんど伊豆のホテルの経営に携わることになったから、試しにキミたちに泊まってもらおうと思ってな。普通にタダ券だよ。後でアンケートに答えてもらわなきゃいかんから、モニタリング調査だと思って使ってくれ。」
ボクが困惑したような顔をしていると、女将さんが受話器を取って代わる。
「米倉さん、どうもありがとうございます。あたしがちゃんと言い聞かせてありがたく使わせてもらいます。またお近くにお越しのときは、ぜひとも立ち寄ってくださいな。大サービスしますから。本当にありがとうございました。」
そう言って電話を切ってしまった。
「キョウちゃん、ユイちゃん、ありがたく受け取っておきな。それで、いつかこれもちゃんと米倉さんにお礼すればいいことなんだ。いい人たちといいつながりを持っておいて損はないよ。いつかお互いで助け合えるときが来るから。ねっ。」
結果的にはいつかのパーティの話がまたぞろ舞い込んできて、彼の店での料理提供をすることにはなるのだが、いずれにしてもボクたちが助けられているだけのような気がしてならない。
ボクたちの結婚式を二週間後に控えていたある夕方のことだった。
ヒデさんと米倉氏がやってきた。普段通りにただ夕食を食べに来ただけの様子だった。
お茶を持ってきたユイにヒデさんが話を切り出す、
「さて、もうすぐだな。手筈は万全か?」
「招待状も配りましたし、美容院の予約もできてますし、宿の手配もできてます。あとは料理の用意だけです。」
「まあ、ここでの企画はウチも噛んでるからな、特に抜けてるものはないと思うよ。けどな、きっとキミの晴れ姿を見たかったのに、店に入れなくて不満を漏らす近所の連中がワンサカといるんじゃねえか。」
「そうですね。ウチの店も何十人も入れる訳じゃないですからね。」
「そこでだ。今日、米倉さんを連れてきたのは二次会の話だ。手が空いたらキョウスケを呼んでおくれ。」
「ご飯は食べないんですか?」
「いや、食べるよ。ビールとおでんを適当に、それときんぴらとひじきをね。」
すると米倉氏が別の注文をユイにお願いする。
「オレはこの後に仕事があるから、ちょっと飯を食いたい。ご飯の上にカツとオムレツを乗っけてくれるかな?できる?」
「えーと、キョウちゃんに相談してみます。」
「いや、キミに作って欲しいんだ。できる?」
「えっ?私ですか?」
「そうだよ。そろそろ独身のユイちゃんの料理が食えなくなりそうだからな。ちょっとわがまま言っていいかな。ユイちゃんなりに美味しくなる工夫もしてね。」
「ええええ?なんかハードルが高くないですか?」
「よろしくね。」
ユイは注文をボクに伝えると、配膳を女将さんにお願いする。そしてカツを揚げていく。カツを揚げるのはお手の物だ。それが終わると玉子を割り、オムレツを焼いていく。切ったカツにみたらし風の餡をかけて、その上にかなり生に近い半熟に仕上げた甘めのオムレツを開いて載せる。オムレツにはハンバーグ用のソースを少し垂らした。ユイ特製の玉カツ丼の出来上がりだ。
それをボクが配膳する。
「ご注文の品です。ごゆっくりどうぞ。」
「やあやあこれは旨そうだな。いや、あんまりゆっくりもしてられないんだけど、キミにはお知らせがあるんだ。」
「なんでしょう。」
米倉氏はカツを頬張りながら、二次会のプランを話し始める。
「色々な人がキミたちを祝福に来たいはずだ。実はオレもその一人なんだが、どうだろう、ウチの店を使ってくれないかな。料理は『織田』にお願いする。どうだ、一石二鳥だろう。五十人ぐらいなら充分入るぜ。」
「それはありがたい話ですが、米倉さんのお店ってホストクラブですよね。そんな高価なお店にお願いできるほどのお金はボクたちにはありません。」
「ははは。いつもながら臆病だな。オレが祝いたいって言ってるんだ。もちろん金は頂く。でもそれは『織田』にかかる料理の費用だけだ。ウチの店を使うのはオレからの祝儀だと思ってくれればいい。どうだ?悪い話じゃないだろ?」
「そんなに甘えていいんでしょうか。」
「そうだな、オレもユイちゃんに惚れてるのかもな。幸せになってほしいと思うし、できるだけ多くの人に祝って欲しいと思う。だから、なっ。」
「ありがとうございます。」
ボクは礼を言うしかなかった。
すると米倉氏は続けて話を持ち出した。それは、ちょっと前にあった事件のことだった。
「先日来た馬鹿どもがいたろう。さっきの話、それの詫びの意味も含んでるんだが、それよりも、あいつらの実刑が確定しそうだ。それについては、近日中に裁判所に行くことになるかもしれない。キミも一緒にね。」
「ユイは行かなくてもいいですよね。」
「ああ、彼女はその現場にいなかったからな。キミとオレだけで十分だと思うよ。あいつらには前科があるし、実刑は間違いない。数年は出てこれないよ。それにしてもコイツは旨いな。玉子が甘めに仕上げてるのがいいねえ。」
ボクは米倉さんが旨そうに食べている様子を見て、頷くしかなかった。確かに旨そうだ。
「これは甘党にはたまらないカツ丼だな。」
「どれどれ、オレにも一口下さいよ。」
米倉氏があまりにも旨そうに頬張っていたので、ヒデさんはどんぶりを米倉氏の手から奪い取った。そしてカツを一口頬張ると、
「うん、確かにこれは旨い。これなんて言うカツ丼?」
ボクはユイを呼んで確かめてみる。
「ヒデさんがね、これはなんていうカツ丼か、だって。」
ユイは困ったような顔をしてボクに助けを求める。だけど、ボクも首をかしげるしかない。
「これはユイが作った料理だよ。」
「甘いタレがかかってるから甘口カツ丼かな。」
「それは面白い。でもこれはオレが命名しよう。知らない人は知らないでいい。だから甘いユイちゃん丼。よし、これで決まりね。」
「ええ?これってメニュー化するんですか?」
「そうだね。試食係のオレがイケるっていうGOサインを出すんだからいいだろ。ねっ、女将さん。」
するとその様子を聞いていた女将さんは満面の笑顔で話しに入ってくる。
「もちろんだよヒデさん。これでウチの名物どんぶりができたも同然。『もりや食堂』は万々歳だよ。」
女将さんが近くに来たので、米倉氏は先ほどの話を切り出した。
「ああ女将さん、近日中に後継者をお借りしますよ。ほら、例の二人組の裁判があるんで、証人としての出廷が要請されるはずです。私も一緒に行くことになると思います。」
「そうですか、よろしくお願いします。」
女将さんは米倉氏の手を握り、ボクの安否を心配してくれる。
「大丈夫。もうこれでヤツらもここに来ることはないでしょう。」
するとユイが心配そうな顔をしてボクの顔を見た。
「ボクは大丈夫。」
「ううん。私のこと・・・・。」
ユイが心配しているのは例の写真のことなどだった。
その様子を見て米倉氏がユイに話しかける。
「ユイちゃん、心配ないよ。今度の件についてはキミはノータッチだ。だから法廷に行く必要もないし、そのことについて何も言う必要もない。もうデータが入っていたスマホはどこにも無いんだから。そしてもうそのことは忘れなさい。そう言ってくれる彼氏がいるんだから。」
米倉氏はユイに笑顔で答え、ユイは黙って頭を下げる。
「ありがとうございます。」
そしてボクの腕を握りしめた。
翌日から『もりや食堂』には多くの客で膨れ上がる。
そう、甘いユイちゃん丼が瞬く間に常連さんの間で噂になり、その噂を聞きつけた商店街のお兄さんやおじさんたちが、こぞってこの丼を食べに来るのだ。
甘い味付けは彼らの求めるユイのイメージを相当に増幅させたようだ。その様子を見ていた他の客も変わった名前の丼に大いなる関心を持ち、次々と甘いユイちゃん丼を注文していく。普段、『もりや食堂』で提供するカツはせいぜい十枚から二十枚。それが飛ぶように食されていくのだから、すぐにカツ用の肉は底をつく。ランチタイムから始めて午後の二時ごろには、もう肉のストックはなくなってしまった。
最後の丼を提供してから飛び込んできたのは質屋のマサやんだった。誰かから噂を聞いて来たのだろう。テーブルに座るやいなや注文を発する。
「オレも甘いユイちゃん丼を一つ。」
その様子を見かねた女将さんはマサやんの頭をぐりぐり撫でながら言う。
「残念だったねマサやん。たった今売り切れたよ。また明日おいで。」
「エエーッ。自治会長から聞いて慌てて走ってきたのに。」
「でもさ、作ってるのはキョウちゃんだよ。ユイちゃんが作ってるわけじゃないよ。」
「じゃあ、明日オレが注文する甘いユイちゃん丼は、ユイちゃんに作ってもらえるかな。」
「それは聞けない注文だねえ。なんであんただけ特別扱いなんだい?」
「オレが弁護士頼んでやったんだろ?一回ぐらいいいじゃねえか。」
そのやり取りを聞いていたユイは、マサやんに約束する。
「明日は開店と同時に来てくれれば、私が作ってあげますよ。」
それを聞いたマサやんは大喜び。ユイと指切りをして飛んで跳ねて帰っていく。結局この日はなんにも食べないで。まさか明日の昼まで何にも食べないつもりだろうか、そんな勢いだった。
翌日一番に来たマサやんがユイの作った丼を食べて、それは満足して帰ったことは言うまでもない。
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