第14話 そろそろユイの誕生日

翌日、ヒデさんは午前中のうちにプランナーを連れて店に訪れた。

なぜか米倉氏も一緒だった。

「なんでオレが一緒にいるか不思議そうな顔してるな。」

「はい。どうしたんですか。」

「ヒデが使ってくれるプランナーっていうのがウチの会社のヤツなんだ。それにキミの結婚式の企画だって聞いたもんだから、オレも参加させてもらおうと思ってな。」

「ヒデさん、なんだか話が大きくなっていませんか。ちょっと腰が引けるんですが。」

「いいんだ。こっちは宣伝用のPVを撮りたいだけなんだから。お前さんたちはただの出演者なんだよ。お前の出番が来たら呼ぶから、それまでは自分の仕事をしてろ。」

そういうと、ヒデさんたちは企画コンセプトとカタログとを照らし合わせながら、ウチの店での可能なプランを作り上げていく打ち合わせを始めた。面白いのは営業中に開催されるパーティという内容である。客のテーブルにはパーティ食材とともにウチの惣菜が並べられる。そんな面白そうな企画だった。

すると米倉氏が素敵な提案をしてくれていた。

「企画の中じゃオプションになってるけど、PVでは絶対にシャンパンタワーを入れろよ。見栄えが全然違うからな。」

「ははは、確かにそれは面白いかも。この店でシャンパンタワーね。背景とのギャップがいいな。それは絶対に使うことにしよう。」

そんな話をしていたようだが、そこがタイミングだったのだろう。ボクとユイと女将さんが呼ばれた。

「店でのパーティプランはこんな感じでどうだろうとかと思う。女将さんがOKしてくれるんならこれで決まりだ。」

プランナーが女将さんにわかりやすく説明する。それを聞いていてボクはあまりの豪華さと奇抜さに度肝を抜かされる。ボクもユイもかなり腰が引けてしまっているが、女将さんはノリノリだ。

「これでウチはいくら払えばいいんだい?」

するとヒデさんが大笑い。

「女将さん。ウチがこの場所を借りて宣伝用のビデオ撮影させてもらうんです。費用は全部ウチの会社持ちですよ。」

「ええーっ?これ全部かい?それなら文句なんか言ったら罰が当たるね。それなら良いに決まってるよ。進めておくれ。」

「キョウスケもユイちゃんもこれでいいよね。」

「しかし、・・・・。ちょっと豪華すぎます。」

すると女将さんがボクの話を遮った。

「ここはまだあたしの店だ。あたしがいいって言えばいいんだよ。」

「じゃ、女将さん。これで進めますね。じゃあ次はセレモニーだな。こいつは申し訳ないが和式でいいか?それがウチの提携先との条件なんだ。ユイちゃんどう?これは恭介じゃなくてユイちゃんの許可をもらわないと。」

「実はね、お父さんが呉服屋のカタログを送ってきたの。白無垢が着られるならお父さんにも喜んでもらえるわ。」

「それはちょうどよかった。でもここの店ではドレスを着てもらうよ。そのカタログはこっちだけど、これはまた今度スタイリストを連れてくるから、その時に決めよう。よし、これで大方は決まった。あとは昼飯を食うだけだ。どう?折角だから、ここの定食食っていきませんか?」

プランナー氏だけが初来店である。米倉氏は前回と同じ焼きサバ定食を、プランナー氏はカレーライスを、そしてヒデさんは、

「ボクはユイちゃんが作ってくれるアジフライが食べたいな。」

いつもながらグダグダの顔をして注文するのである。

ユイはニッコリしながら、「ハイハイ」と言って答える。

そして思い出したようにヒデさんがボクに注文する。

「さっき言い忘れてたけど、パーティーの当日、ユイちゃんが作ったアジフライはマストアイテムだからな、それを忘れないように。もし忘れたら違約金として一千万円請求してやるからな。」

もう笑うしかない。どれだけユイのアジフライが好きなんだと思う。

なんだかボクたちの周りでどんどん話が進んでいく。なんだかこれでいいのかと思う程に。

皆の笑顔を大切にしよう。そう思う。

「ところでヒデさん、来週の日曜日はユイの誕生日なんです。親方秘伝のメニューも作りますから、ぜひとも来てくださいね。」

「そうか、ユイちゃんの誕生日か、それは絶対来なきゃいけないな。誕生日ケーキはオレが用意することにしよう。で、彼女いくつになるの?」

「二十三歳です。」

「お前はいくつだ?」

「三十六です。」

「ああ、聞くんじゃなかった。羨ましいなあ。オレも年の離れた若い奥さん欲しいなあ。今から探そうかなあ。ねえユイちゃん。」

「えっ?」

何の話をしていたのか聞いていなかったユイは不思議そうな表情でボクたちを眺めていた。



その次の日、ユイの両親が店にやってきた。

お義父さんお義母さんが店に来てくれるのは初めてだ。折角だからと、まずは昼ご飯をご馳走する。ユイも厨房に入ってアジフライを揚げる。ボクは肉じゃがに火を入れ、生姜焼きを仕上げていく。

膳を運んだあと、ユイは自然とお義父さんの隣に座っている。するとボクはお義母さんに呼ばれた。

「今日はユイを少し借りていくわよ。お父さんがねどうしてもっていうから。ゴメンね。」

なんだろうと思っていたのだが、東京の呉服屋に白無垢を見に行くのだという。

「ゴメンねっていうけど、どんなユイになるのかは当日までお預けにしておくわね。その方がね、うふふっ。」

お義母さんも楽しそうだ。よかった。みんなに喜んでもらえて。昼ご飯を食べた後、ユイもすぐに身支度をして、三人で出かけて行った。

そのあとでちょっとした事件が起こるのだが、ユイがいない時で本当に良かったと思う。

その事件は、お昼時が終わろうとしている二時前ごろだったろうか。その少し前に突然米倉氏が店を訪れた。

「まだいけるだろう。ちょっと役所まで行ってきた帰りなんだが、可愛いお嬢さんの顔を見たいと思ってな。」

「すいません。ユイは今さっき用事で向こうの両親と出かけてしまいました。」

米倉氏は相当残念そうな表情を見せたが、すぐに思い直し、奥の方のテーブルに座る。

「まあいいや。とりあえず、アジフライ定食をくれ。昨日、ヒデが食ってたのがうまそうだったからな。お前さんが作ってもおんなじもんが出てくるんだろ?」

「はい、同じ店で修業しましたから、レシピはおんなじですよ。ピカイチのアジフライお出ししますから、少々お待ちください。」

そしてボクがアジに衣をまぶしている丁度その時だった。店の引き戸がガラガラッと開いて、二人の男が入ってきた。どこか見覚えのある男たちだったが、すぐには思い出せなかった。

キョロキョロと店内を見回していた彼らは厨房の奥に聞こえるような声で怒鳴り始める。

「角田恭介はいるか。」

その声を聞いてようやくボクはヤツらを思い出した。ユイの元カレの弟分である背の高い髭の男とサングラスの男だ。彼らは厨房の中のボクを見つけると、さらに大きな声でボクを呼びだす。しかし、何人か他の客もまだいたためか、はたまた偶然にも米倉氏が彼らに背を向けた姿勢で座っていたためか、彼らはまだ店の奥にいる米倉氏の存在には気づいていないようだった。

ボクは意を決して彼らの前に出る。もちろん丸腰だ。もう包丁を持って人前に出ることはボクの意思が許さなかった。

「おう、テメエのおかげでオレたちはひでえめにあった。兄貴は殺されるし、オレたちはクビになるし、この一年のケリをつけに来たぜ。覚悟しな。」

サングラスの男がそう言って懐からナイフを取り出した。

女将さんがあわててボクをかばおうとしてボクに覆いかぶさる。

「どけババア、お前に用はねえ。引っ込んでろ。」

のっぼの男がそう言って女将さんに近づいてきた瞬間、「うっ。」と喉の奥から絞り出したような声を残して米倉氏に取り押さえられた。

そこで初めて米倉氏の存在に気付いたサングラスの男は、驚愕の表情を見せて一瞬ひるんだように見えた。その隙を見逃さなかったボクは、勇気を出してサングラスの男のナイフを握った右手に蹴りを入れた。不意を突かれたヤツの手からはあっという間にナイフが吹き飛んで行き、ギッと睨むような顔でボクの方を振り向いた。その瞬間、ボクは再びヤツの腹部に思いっきり蹴りを叩き込んだ。ヤツは膝から崩れ落ち、もんどりうって転がっていったのだが、転がっていった先が悪かった。まさに米倉氏が待ち構えている足元へと行ってしまったのだ。これ幸いとさらに踏みつけるように蹴りを打ち込む米倉氏、その一撃の威力はボクの蹴りの何倍もあったのだろう。あっという間にヤツは気を失った。

「女将さん。お手数ですが警察に電話してくれますか。あとはこっちで片付けますから。」

その様子を唖然としてみていた女将さんだったが、気が付いたように電話をかける。

髭男の右腕の逆関節をとっている米倉氏はそのままの体勢でさらに髭男の脇腹に蹴りを叩き込んだ。「うっ」と言ったっきり、髭男も気を失った。

「米倉さん、助かりました。すみません、またご迷惑をおかけして。」

「いやいや、迷惑をかけたのはこっちじゃねえか。すまねえな。怪我はなかったか。」

「大丈夫です。女将さんが無事だったのが一番でした。」

やがて数分後にお巡りさんが到着し、すでに気絶している二人を引きずるように連れて行った。

すぐにお巡りさんによる事情聴取が行われるが、パトカーの到着にしばらくの間、店の周囲は野次馬の人だかりで一杯になっていた。

失神しているのは奴らだったが、女将さんや他のお客さんの証言でヤツらが押し入ってきたことは明らかになり、さらにはボクが蹴り飛ばしたナイフがサングラス男の持ち物であることは、そこに残されていた指紋が物語っていた。

警察による事情聴取は簡単なもので終わった。ヤツらを連れていった後、野次馬の客がそぞろ入ってきたが、店内の様子も女将さんもいつも通りの平穏さを取り戻していた。

「米倉さん、まだアジフライ作ってる途中なんで、食べてってもらえますか。」

「そうだな。そういえばオレの腹はずっと泣きっぱなしだしな。五月蝿いのも消えたことだし、ゆっくりといただくことにするか。」

ボクはもう一度アジを捌くところから始める。特製の衣をつけて油で揚げていく。いつもの定食は二枚なのだが、女将さんを守ってくれたお礼も含めて、もう一枚サービスさせてもらった。

「どうぞ、召し上がってください。」

「おお、これはうまそうだ。いただくよ。」

米倉氏は相当気に入ってくれたようで、ご飯もお替りしてくれた。

まだ野次馬の客たちの興奮が冷めやらぬうちにユイ達が帰ってきた。通りがかりの人たちが店の前で中の様子を伺っていたようなので、揃って怪訝な顔をして中に入ってきた。

「キョウちゃんどうしたの?なんかやけに表の人が多いけど。なんだかウチを覗いているみたいで・・・。」

「おかえり。ユイがいなくてよかったよ。」

「ん?どうしたの?何があったの?」

店の奥から米倉氏が声をかけてくる。

「ユイちゃんおかえり。」

その声を聴いてユイが駆け寄った。

「いらっしゃいませ。いつもお世話になっております。」

「なんだ、もうすっかり女将さんと同じだな。恭介君の言うとおり、ホントにキミがいなくてよかったよ。」

「何があったんですか。まだ表が少し騒々しいんですけど。」

「ああ、馬鹿な連中が逆恨みに来ただけさ。恭介君も勇敢だったぜ。髭男の方はオレが抑えたんだが、もう一人の方は彼が撃退したんだよ。結構そっちのウデにも自信あるんじゃないか、彼は。」

ボクは慌てて打ち消した。

「いや、そんなことはないさ。女将さんを守らなきゃと思って思わず出たのが足だっただけだよ。」

「いや、あそこで取り押さえにいかずに蹴りを入れたのはケンカの理に叶っている。本当はお前さん相当やってきただろう。でなきゃあの蹴りは出ないぜ。」

「米倉さん、冗談はやめてください。どうやって足を出したかも覚えてないんですから。」

「まあいい、とにかくキミがいなくてよかったよ。」

ユイの両親はまだ目をぱちくりさせながら店内の様子を伺っていた。それでも何もなかったことを確認すると女将さんを見舞ってから木更津へと帰っていった。

結婚式の当日はよろしくとお互いに挨拶をして。

「ところでお嬢さん、来週誕生日なんだろ。オレもなんかプレゼントさせてくれよ。」

思いがけない米倉氏からの申し出に戸惑うユイ。

「なんか欲しいものはねえか。」

「そんな、特にありません。気を使って頂かなくても大丈夫です。」

しばらく考えていた米倉氏だったが、何かを思いついたように手をたたいた。

「よし、じゃあ当日にゃ間にあわねえかも知れないが、オレからのプレゼント、きっと届けるから。それと、今度この店に来るときには、きっとキミが作ってくれるアジフライを食いに来るからな。」

そう言って颯爽と店を出て行った。なんともカッコいい人だ。ボクには到底真似できない。凄みのあるカッコよさだ。ユイは何をプレゼントしてもらえるのだろう、なんだかボクの方が今からワクワクしている。



そして翌週の日曜日、どこから噂を聞きつけてきたのか。お昼前からお客さんがぞろぞろとユイにプレゼントを持って来訪する。

「ユイちゃん誕生日おめでとう。」

みな口をそろえたように、この言葉が店の中を飛び交う。

「何でみんな知ってるの?」

ユイは勿論のこと、ボクにも不思議でたまらない。しかし、情報の発信元が誰かは想像に難くない。

「女将さんですよね。あっちこっちにユイの誕生日のこと言いふらしてるのは。」

「そうだよ。なんだって店の看板娘だからね。こうやって宣伝しておくだけでウチの売り上げに貢献するってもんじゃないか。それにユイちゃんだってたくさんの人に祝ってもらったほうがうれしいだろ?」

ちらっとユイの方を見たが、すでに彼女の両手は花束とプレゼントで溢れていた。やや困惑したような表情だったが、すぐに持ち前の笑顔を取り戻し、いつものにこやかな表情で対応していた。

「お母さん、こんなにプレゼントとかもらっちゃっていいの?」

「ほらね。キョウスケ、お前と違ってユイちゃんは店の中でもお母さんって呼んでくれるだろ。こんな子がさ、花束やプレゼントで溢れてる姿って見たいものじゃない。」

そんなやり取りをしている最中だった。宅配便で大きな箱が店に届く。差し出し主はユイのお父さんだった。

「なんだろ。あけてごらんよ。」

するとユイは恥ずかしがる仕草を見せた。

「これ、中身わかってるから恥ずかしい。」

「なんだい?」

女将さんは思わず身を乗り出してユイに尋ねた。

「あの結婚式の・・・・・。」

そこまで聞いて察した女将さんはすぐに箱を開けて中を覗いた。

そう、そこに入っていたのは白無垢の『おからげ』という着物だった。

「ボクは詳しくないからよくわからないけど、なんだかもう少し重厚なイメージだったんだけど・・・。」

するとユイがボクの疑問に答えてくれる。

「そうね。でもあんまり重たいのはいやだから、どっちかというと洋装に近いタイプにしたの。これなら頭も簡単だから、お色直しのドレスに着替えてもそのままで大丈夫よ。」

ボクはユイの言ってることが想像もつかなかったが、彼女が言うのだからきっとそうなのだろう。ようは、頭を文金高島田にしないということらしい。それだけはなんとなく理解できた。

「素敵な誕生日プレゼントだねえ。お父さん、今日に合わせて送ってくれるなんて素敵だねえ。ん?ところでキョウちゃん、お前、ちゃんと結納とかはしたんだろうな。」

「ボクはしてません。でも兄貴の話だと、ウチの両親が木更津に行ったとき、それも兼ねたって言ってました。」

「お前さんはのんきだねえ。やっぱり長男はしっかりしてるよ。お前の兄貴に感謝しな。」

「はいはい。さあ、ビーフシチュー仕上げますよ。色々と手伝ってね、お母さん。」

「こいつめ、奥の手を出してきやがる。」

ボクは女将さんを連れて厨房へと引き込んだ。店内ではまだまだぞろぞろとユイにプレゼントを渡しに来るお客さんが絶えなかった。

やがてお昼時になるとヒデさんも姿を現す。

「ユイちゃーん、お誕生日おめでとう!」

そう言って抱えてきたのは大きなケーキだった。

「キョウスケ、まさかケーキを買ってないだろうな。」

「はい、ヒデさんが用意するって言ってましたから。」

そのケーキは直径が五十センチ、高さも三十センチはあるかと思われる巨大なショートケーキだった。

「みんなでお祝いすることになるだろうからと思ってな。特注のケーキだ。キョウスケ特性のメニューはまだか、早く食わせろ。」

ヒデさんの言葉を聞いて野次馬のごとく集まっていた客が驚いてボクを見る。

「なんだ、そんなものがあるのか。注文してやるから早く出せ。」

もう店の中はてんやわんやだ。

「今から仕上げです。あと一時間ほどお待ち頂けるならお出ししますよ。」

「なんだい、いやにもったいぶるな。」

口を尖らせて不平を漏らしたのは乾物問屋のご隠居だった。

「こんなこ汚たねえ店で、一皿千円もするもんを出すわけじゃあるめえ。もったいぶってねえで早く出しな。」

これは質屋のマサやんだ。

「ところがねえマサさん。これは千円頂くんですよ。だからもったいぶってお出しするんですよ。」

「ほう、そんなものがこの食堂にあるとは知らなんだな。それは待ち遠しい。じゃ、もったいぶって早く出しな。待っててやるから。」

「はい、特製メニュー一丁、ご注文いただきましたあ。」

ボクも目一杯おどけて見せた。

時計の針は正午を回っていた。店の中はユイにプレゼントを持ってきたお客さんですでに満席になっていた。だけどまだ誰もランチを注文していない。みんな特製メニューを待っているのだ。

本日の特製メニューは親方秘伝のビーフシチューだ。レシピは五食分だったが、ユイの誕生日ということもあり、ボクは六倍の三十食分を用意しておいた。特に多めに準備しておいたのだが、それが功を奏した。

今日のユイは完全にお姫様扱いだった。客がこぞってユイを真ん中のテーブルに座らせて、給仕をさせない。必要な注文取りやお茶だしなどはセルフでしたり、手の空いている者が給仕にこれ努めた。

やがて店内に広がる慣れない匂い。出来上がりが間近なのは誰の鼻にも明らかだった。そして盛り付けが終わり、各テーブルに運ばれるビーフシチュー。最初に食べる権利を与えられるのはもちろんユイだった。箸でもちぎれるほどやわらかく煮込んである肉にはナイフもフォークも必要ない。今日の肉はランプと呼ばれるモモの肉だ。和牛のいい赤身肉が手に入ったので、さほど煮込みに時間はかからなかった。

そっとその一口目をほおばるユイ。そのとたんに満面の笑顔が広がる。

「うーん、おいしい。みなさんもどうぞ。」

ユイの第一声を聞いてみな一斉に食べ始める。

あっという間に平らげたあとは、みんなユイと写真を撮りたがる。しかも白無垢が届いたことを知っているから尚更だ。

「ねえユイちゃん、その白無垢羽織って見せてよ。」

とは町内会の自治会長だ。どうやら、今度の町内会の広報に掲載するつもりらしい。

女将さんが箱の中から着物を取り出して見せた。一斉に歓声が沸き起こる。

「ユイちゃん、見せておやり。これもサービスの一環だ。」

ユイははにかみながらも引き寄せられるように女将さんの傍らに立つ。そして白無垢を羽織ったとたん、再び大きな歓声が沸き起こった。

自治会長は自前のカメラで撮影を始める。客たちもスマホやケータイを取り出してユイの姿を納めていく。

あちらこちらで聞こえるシャッター音にボクも昔を思い出していた。

すると女将さんがボクの側に寄ってきて、「キョウちゃんもカメラを持っておいで。」そう言ってくれた。

ボクは慌てて二階に上がる。そして引き出しの中にしまっておいたカメラをそっと取り出した。一人前になるまで封印しようと決めていたカメラ。今日、親方直伝のメニューも完成した。「いい機会かな。」そう思った。

ボクは階段を駆け下り、ユイにポーズをお願いする。三枚ほど撮影してから、ボクはあることに気づいた。この姿は月夜にこそ映えるのだと。なぜなら、ユイは猫だから。

「あとは今夜ね。今日は夜もいい天気みたいだから、きっと明るい月がキミをより美しく照らしてくれるはずだよ。」

ボクは着物姿のままのユイを抱きしめていた。周囲の歓声など耳に入らなかった。相変わらずいい匂いだけがユイを包んでいた。

その日は夕方の休憩もなしに、夜まで宴会が続いた。店番のある客たちはいったん店に戻ったり、奥さんが迎えに来たり、ひっちゃかめっちゃかだったが、結局は抜け出して食堂に侍りに来る。何度か繰り返したら、奥さん方もあきらめたようだ。商店街のアイドルの誕生日だもの。仕方ないよね。中には店を閉めて奥さんと二人で祝いに来てくれた夫婦もあった。そんな夫婦を見つけては女将さんがサービスにこれ努める。

久しぶりに店が賑わった。親方が亡くなってから初めての賑わいだった。女将さんの目は赤く潤んでいた。そして皆に気づかれないようにそっと席を立つと、奥の部屋へと消えていく。その姿をボクだけが見つけていた。

そっと後をつけていくと、親方の仏壇の前で手を合わせている。

「あんた、見てるかい。キョウちゃんとユイちゃんが店をこれだけ盛り上げてくれているよ。よかったねえ。」

ボクはそっと女将さんの背中を抱きしめた。

「よかったねお母さん。」

女将さんはボクの手を握り、大粒の涙を一つ二つこぼした。

そしてフロアに戻ったボクたちは、そろそろ宴会のお開きをお願いする。最後の締めの挨拶はヒデさんが買って出てくれた。

「みなさん、来月、この店の若旦那であるキョウスケとユイちゃんは目出度くも結婚します。二十五日はここで披露宴を行います。参加費はお一人二千円です。ぜひともお越しください。但し、当日は両名のご親戚の方々がご参列のため、空いてる席は限定十席です。奮ってご参加ください。」

調子のいいことこの上ない。そんな挨拶だった。


みんなが帰って静まり返った店の中、女将さんとボクとユイと、そしてヒデさんまでが後片付けの手伝いをしてくれる。

「ユイちゃん、みんなに祝ってもらってよかったな。」

「ヒデさんの大きなケーキが一番うれしかった。」

「さすがユイちゃんだね。その言葉が聞きたくて今まで残ってたんだ。よかったよ。」

ヒデさんもやっと満足してくれたようだった。

その夜、ボクは二階で支度をしていた。月夜のユイをカメラに収めるためだ。そしてヒデさんが片づけを手伝ってまで残っていた本当の目的はここにあった。ボクの撮影の様子と月夜のユイが見たかったのだ。

ボクは部屋の明かりを消して窓を開ける。少し寒いのは我慢してもらう。ああ、今夜もいい天気だ。月夜がまぶしいぐらいに明るい。

白無垢を羽織って、目線を月に向けるユイ。その姿は想像以上に美しい。ボクは夢中でシャッターを切る。ボクのシャッターの音に酔いしれるユイがそこにいた。

やがてボクは女将さんやヒデさんがいるにもかかわらずユイを抱きしめる。

「あたし達はここまでだねえ。」

女将さんはそうつぶやいて部屋からヒデさんを連れて出て行った。

ボクはそっと窓を閉めてユイの着物を脱がせた。乱れた後のような痕跡でうずくまる白無垢。それがいっそうボクをかきたてた。

「誕生日おめでとう。」

「ありがとう。」

そしてボクたちは熱い口づけを交わすのだった。

しばらくの間、吐息の交換をした後、ボクたちは下に降りていく。女将さんが店の戸締りをしているところだった。

「おや、もう降りてきたのかい。今からお楽しみが始まるのかと思って、遠慮して降りてきたのに。」

ユイは耳を真っ赤にして女将さんに抱きつく。

「もう、意地悪ね。」

「ヒデさんも帰りましたか。」

「ああ、お楽しみを邪魔しちゃ悪いって言ってね。」

「そう、女将さん。いやお母さん、今日はお疲れ様でした。後はボクたちがやるから、早く休んで。風呂も沸かしたから。」

「ありがとね。今日は疲れたからあたしはこのまま寝るよ。風呂はあんたらで入んな。二人でゆっくりとな。」

そう言って奥の部屋へと入っていった。

女将さんの進言どおり、今宵は二人で風呂に入る。二人で入るのは久しぶりかも。言ってなかったかもしれないが、この店の風呂は湯船が大きい。ボクたち二人が入っても窮屈を感じない。なんでも親方が風呂好きで、疲れた体を休ませるために、風呂だけは贅沢に入りたかったという嗜好だったらしい。

湯船の中では、心地よい熱い湯がボクたちの肌をみるみる赤く染めてくれる。後ろから抱きしめるようにして浸かるのがボクたちのデフォルトの体勢だ。なぜなら、この体勢ならユイの首筋がすぐ目の前にあり、さらにボクの自由な両手がユイの豊かな丘陵を占領できるからである。だからといって湯船の中でずっとエッチなことをしているわけではない。ただ、抱きしめていたいだけなのである。やがて正面を向くようになると、多少はAVめいた行為が始まる。湯に浸りながらボクはユイの唇を奪い、祠の中の女神様をおびき出す。ユイの独特な匂いがさらにねっとりと絡みつく。ボクは思わずそのままの勢いでいきり立った銃口を祠の中に押し入れるのだ。それでもやさしく対応してくれるユイは、ゆっくりとボクの銃口を慰めてくれる。ときには祠の中で果ててしまうこともあるほどに。

しかし、この夜は少しの間女神様の歓迎を楽しむと、早めに退散し、後はもう一度ユイの匂いだけを堪能することに専念した。続きは風呂から出てのお楽しみだからである。

布団の中ではいきなりワルツが始まった。

二人のステップはいつも以上に呼吸が合っていた。滑るような透き通った肌、ボクの指をはじき返す弾力、ねっとりと絡みつく女神様。いつものようにボクを陶酔させてくれる。この日もユイはボクを離そうとはしなかった。じっとボクの目を見つめたまま、ボクのすべてを受け入れようとしていた。

ボクが「いいの」と聞いたら、ユイがにっこりと答えた。ユイがうなずくのを見てボクの振動はさらに加速することになる。黙ったまま目を瞑る彼女の表情はまるで自愛に満ちた観音様に見えた。ユイの両手がボクの背中で弧を描くとき、ボクのやんちゃな銃口はユイの洞窟の奥深くへとその痕跡を残していた。

そしてボクたちは心地よい疲れとともに、漆黒の夜のしじまへと誘われるのである。

今宵も眩しく光る月は、ボクたちをただ見守るだけだった。



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