第13話 突如訪れる迎えざる朝
何もかも順風満帆にことが運んでいく。
ボクは何だか空恐ろしい感覚に陥る。そんなにすべてが上手くいくはずがない。
果たしてそのことは訪れた。それはボクたちの結婚式を二ヵ月後に控えたころのある夕方のことだった。
十月にもなり、そろそろ日が落ちた後の風は涼しくなっている。道をそぞろ歩く人たちも上着を着用する人が増えてきた。
「そろそろおでんの量も増やそうかな。」
ボクが親方に相談しようとした時、
「そうだな・・・・・・・。」
そういい残したまま、突然膝から崩れ落ちた。
「親方、大丈夫ですか。」
「キョウ・・・ス・・・・ケ・・・。」
それだけ言って意識を失った。
「救急車を!早く!」
ボクの慌てふためいた言葉を聞いて、急ぎユイが電話をかけた。
数分後、救急車が到着し、救急隊員が倒れた時の様子を聞きながら、適切な病院を探す。やがて入院可能な病院が見つかると、即座に搬送される。
「女将さん、ユイと一緒に救急車に乗ってください。落ち着いたら、後で連絡を下さい。」
そう言って二人を救急車に乗せた。
ボクはその後でヒデさんに電話をかけて応援を要請することとした。ヒデさんも電話を受けてすぐに来てくれた。走ってきたのか、肩で息をしていた。
「大変だったな。その後連絡は?」
「まだありません。こっちもまだ片付けが終わってないので、冷蔵庫のビールを適当に飲んでいてください。」
ボクはすでに暖簾を中へしまいこみ、店は臨時休業としていた。
「最近、親方の体はどうだったんだ。」
「いやあ、ボクには普通どおりに見えたんですけどね。」
「この春に女将さんが倒れた時も急だったんだろ?今回も軽く済めばいいけどな。」
すると店の電話が鳴り響き、ボクが出ると電話の向こうはユイだった。
「どう?親方の様子は。」
「うん。今すぐってことはないけど、あんまり良くないって。入院してしばらく様子を見るしかないって。」
するとヒデさんがボクの受話器をとってユイと話し始める。
「もしもし、病名は?聞いた?病院はどこ?」
「クモマクなんとかって言ってた。ここは西新宿南病院よ。」
「ううん。クモ膜下出血か。女将さんの様子は?」
「今は病室で親方の手を握って話しかけてる。今日は帰れそうにないかも。」
ヒデさんはユイも女将さんも今日は帰れない旨をボクに伝えてから受話器を渡した。
「ボクの方はいいから、女将さんをよろしく。何かあったらいつでも電話して。」
そう言って一旦、受話器を置いた。
「クモ膜って言ってたな。一応、娘さんたちに連絡を入れておいた方がいいかも。連絡先はわかるんだろ?」
「はい。今晩のうちにしておきます。」
ボクは女将さんの了解をとるまでもなく、三人の娘さんたちに、状況と入院先の病院について連絡しておいた。このことが後になって功を奏することになるのである。
ヒデさんは心配そうな顔でボクを見た。
「明日からの営業はどうするんだ?一人じゃできないだろう。とはいえ、平日はオレも手伝えないからなあ。」
「とりあえず明日は何とか踏ん張ってみますよ。メニューも限定すれば仕込みも楽になりますし。」
「よし、米倉さんに相談してみようか。」
「止めて下さい。この間お世話になったばかりですから。」
それを聞いてヒデさんは思い出したように笑みを浮かべた。
「そういやその話を詳しく聞いてなかったな。米倉さんにはあらかたのことは聞いていたが、随分と評判だったぜ。だからまた一緒に仕事がしたいって言ってたし。そうだよ、だから手伝ってもらおうよ。ずっとじゃない。ほんの何日かだ。ユイちゃんが戻ってくれば、手伝いもいらなくなるだろう。だからそれまでだよ。」
ヒデさんはボクの返事を聞く以前に、すでに米倉さんに連絡を入れていた。電話を切ってからニヤッとした顔でボクを見た。
「やっぱりそうだよ。何でもっと早く電話をくれなかったかって叱られたぜ。明日、厨房の中から希望者を募って一人行かせるってよ。」
「そんな人が来てくれたって、あそこの店みたいに高い給金なんか払えないよ。」
「バーカ、あの人がそんなチンケなこと言う訳ないだろ。それよりもココの食堂のレシピを盗まれないようにしないとダメだぜ。そっちの方は抜け目ないからな。はははは。」
その日は夜遅くユイが女将さんを連れて帰ってきた。女将さんはかなり憔悴している様子だった。
「明日の朝、もう一度女将さんを連れて見舞いに行ってくる。今夜はこのまま何も変わらないだろうって言われて帰ってきたけど、女将さんがなかなか帰るって言わなくて。」
「女将さん、しっかりしてくださいね。こういうときこそ女将さんの本領を発揮してもらわないと、ボクたちが不安になりますよ。」
すると女将さんも何か思いついたように姿勢を正した。
「そうだね。キョウちゃんの言うとおりだ。ここでクヨクヨしてちゃお前たちに迷惑がかかるばかりだ。明日は一人で行くよ。娘たちにも連絡してくれたんだってね。ありがとう。きっと誰か来てくれるよ。」
女将さんが言ったことは翌日すぐに実現する。早いうちに連絡しておいたおかげで、早々に参上してくれたのだ。
最初に来たのは一番近くの横浜に住んでいる次女のゆかりさん。次に来たのは八王子にいる長女のみゆきさん。最後に到着したのは遠い北海道から飛行機で飛んできたさゆりさんという順番だった。
みゆきさんとゆかりさんとはすでに面識があった。近くに住んでいることもあり、彼女らが何度か帰省した折に会っている。
三人の娘たちはまずはもちろんのことながら病院に足を運ぶ。次いで食堂へと集まってくる。その間、誰かが病院に残っているという段取りだ。
その理由として、娘たちが病院に見舞いに来ることを確認した女将さんが、親方の面倒を娘たちに任せて食堂へと戻ってきたからである。
女将さんは、店に残ったボクとユイの心配をして店に戻ってくるのだが、その女将さんを心配した娘たちが順次食堂へとやって来るのである。
当然のことながら、うわさに聞いている親方の跡継ぎとなるボクの仕事ぶり見に来ることも大きな目的の一つであった。
数か月前、最初に会ったのはゆかりさんだった。彼女は小さな子供を連れて来ていた。
「あなたがお父さんのお弟子さんなのね。よろしくね。」
女将さんはユイも紹介してくれる。
「可愛い人ね。こんな汚い店に置いておくのはもったいないぐらい可愛い子ね。それともお母さんたちが引退したら別のお店になるかもね。なあんて冗談よ。お父さんお母さんをお願いね。」
明るく声をかけてくれたのを覚えている。
次に会ったのはみゆきさんだった。彼女もボクたちを気遣うように話しかけてくれた。
「お父さんがこの人って言うんだから、間違いないんでしょ。そうなんでしょお母さん。」
そして今回、最後に会うこととなったさゆりさんだったが、彼女は遠い所に住んでいるせいか、割とそっけなかった。
「もう私は遠いところへ行っちゃってるから何にもできないけど、あとはキミに託したからよろしくね。」
こうして三人の娘たちとの面談(?)が完了したボクたちだったが、最後の面接試験にも無事に合格したようだ。
みゆきさんとゆかりさんは見舞いに来たその日のうちに帰るが、さすがにさゆりさんだけは食堂に泊まることになる。まだ使いきれていない三つ目の部屋に泊まってもらうことにした。
「私の部屋はもうお二人の寝室になっているのね。なんだかそれはそれで変な感じがするわ。夜な夜な妙な吐息が聞こえていそうね。うふふ。」
なんて、ちょっとしたピンクジョークが飛び交う。それを聞いたユイの耳が少し赤くなるのを見逃さなかったさゆりさんは、さらにボクたちに追い打ちをかける。
「今夜は私に聞こえないようにお願いね。」
だって。
親方の様子はあい変わらず予断を許さない状況だった。
さゆりさんと女将さんが順繰りに毎日通っているので、みゆきさんとゆかりさんは何日か置きに来ることになっていた。
みゆきさんやゆかりさんが来たときにはさゆりさんは店に戻ってきて、ボクたちを手伝ってくれる。
「小さいころから手伝ってたから、厨房以外なら何でもできるわよ。」
と豪語するとともに、近所のおじさんたちは彼女らの存在を懐かしがって顔を見に来る。おかげでいつも店は賑やかだ。
米倉さんがよこしてくれた人も、あの翌日から色々と手伝いをしてくれたので随分と助かっていた。それでも三人娘が接客を手伝うことでユイが厨房に入れる時間が増えると、ヘルプの仕事が必然と減った。ボクは丁重にお礼を述べ、謝礼を渡そうとしたが、それは頑として受け取らなかった。
「店長にきつく言われてますから。また何かあったら呼んでください。」
と言って帰って行った。またぞろ米倉氏には借りができてしまった。
そしてある日の昼ごろ、病院に詰めていた女将さんから電話が入る。
「親方の目が覚めたよ。キョウちゃんとユイちゃんに会いたいって言ってるから。昼が終わったら片づけを娘たちに任せて病院へ来ておくれ。お願いだよ。」
「わかりました。ユイを連れて行きます。」
そして女将さんの予定通り、ランチタイムが終わるころ病院からゆかりさんとさゆりさんが戻ってきた。
「キョウちゃん、あとかたずけは私たちがするから、早く行ってあげて。実の娘が目の前にいるって言うのに、私たちよりキョウちゃんの方が心配なんて、ちょっと妬けるわね。まあいいわ。それだけキョウちゃんたちのことを信頼してるのね。安心したわ。さあ、早く早く、ちゃっちゃと用意して・・・。」
そう言ってボクたちをせかしてくれるゆかりさんとさゆりさんに後をお願いして、ボクたちは病院へ向かった。
病院へ向かいながら、街路樹の銀杏の葉が黄色くなりかけているのを眺めながら歩いた。銀杏のサイクルは葉っぱが枯れても半年もすれば、また新しい青い葉が芽生えてくる。人の場合は一度限りのサイクルで命は枯れていく。親方の人生もこの銀杏の葉のように黄色くなりかけているのかなと思った。されど、一度黄色くなった葉は二度と緑には戻らない。永遠ではない命なのである。
親方には、まだまだ教わらねばならないことがたくさんある。まだ枯れてくれるなよ。ボクはそんな思いで銀杏を眺めていた。
病室へ到着すると、ベッドの傍らで女将さんが今か今かとボクたちを待ち構えていた。おそるおそる親方の様子を覗くと、
「キョウスケ、もう大丈夫だ。お前の顔を見たらいっぺんで元気になったぞ。ユイちゃんもありがとうな。シズが随分と世話になったって言ってたぞ。」
ユイは「うふふ」とはにかみながら親方の手を握る。
「親方。よかったです。早く元気になって店に戻ってきてください。やっぱり親方がいないと淋しいですよ。」
「やっぱりお前ならそう言ってくれると思ってたよ。」
思ったよりも元気そうだ。この時はそう感じていた。
「まだ教えていない料理があるんだ。そいつを教えるまではまだ死ねんからな。」
女将さんもその料理のことをわかっているようだ。親方の側でウンウンと頷いていた。
するとユイが持ってきたカバンからそっと出したものがあった。
「はいコレ。気になってたでしょ?」
ユイが取り出したのは一つは弁当箱で、中には今朝方ボクが用意したおでんの大根が入っていた。もう一つは汁物の出汁で、それは小さな保温式の水筒に入っていた。
「さすがユイちゃんだね。こういうところに気が付く子はなかなかいないよ。どれどれ。」
そう言って親方は大根を一口齧る。
「もう普通食を食べてもいいんですか。」
「ふん。そんなものくそ喰らえだ。こういう時に味が変わってないか確かめる方がよっぽど大事だ。ワシの命なんかよりもずっとな。」
そしてさらに水筒の出汁を一口飲んだ。
「うん。大根のしみ方はもうちょっとだろうが、出汁の方はこんなもんだな。落ち着いて出来てるようだな。安心したよ。」
「キョウちゃん、あたしゃユイちゃんにそんなものを持ってくるようになんてこれっぽちも言ってないからね。それでもちゃんと用意して持ってくるんだ。この子は大事にしなきゃいけないよ。」
「はいはい。わかってますよ。ボクの大事な人ですから。親方も女将さんもみんなね。」
「ところでキョウちゃん。お前さんが仕立てた出汁のこと、毎朝ユイちゃんもちゃんとチェックしてるの知ってる?」
「ええっ?それは知りませんでした。」
ボクはユイの方を振り向いた。
「ゴメンね黙ってて。でも、もしキョウちゃんに何かあったら、私が気付いてあげないとと思ってたし、今までずっと大丈夫だったし。折角親方や女将さんにも色々教えてもらってたし・・・・・。」
なんだかいたずらっ子が大人に見つかったように、今にもべそをかきだしそうな言い訳をし始める。
「ボクは怒ってなんかないんだよ。逆に安心したよ。親方がいないとき、ボクが独りでやらなきゃと思っていたけれど、明日からはユイに相談しながらするよ。お願いね。」
親方はボクたちの姿を見て、ほっと胸をなでおろしたようだ。
「うんうん。安心したら少し眠くなったな。そろそろ昼寝の時間だ。夕飯の時間になったら起こしておくれ。」
そう言って親方は静かに目を閉じた。その言葉が親方から直接聞いた最後の言葉になるとは思いもよらなかった。
お店の厨房はボクが八割、ユイが二割を担当することで切り盛りできていた。接客はユイが主体で、足りないところは女将さんと三姉妹が順繰りに手伝ってくれていた。
親方の意向でもあったし、女将さんもそうすべきという意見だったので、店の営業は通常通りに行っている。
そして何日か経過した頃、店の客がそろそろ本格的に親方の心配をし始める。
「おい、親方はまだいけねえのかい?」
その夜は女将さんが戻っていた日だった。
「いまんとこ大丈夫みたいだよ。なんせ娘が面倒見てるんだから、ある意味天国だろうよ。ホントはあたしの看病の方がいいのかもしれないけどね。」
「それは今度親方に聞いとくよ。」
そんな会話をしているときだった。突然店の電話が鳴り響く。
ユイが電話を取り女将さんを呼ぶ。
「さゆりさんからです。親方の様態が急変したって。今すぐ来いって。」
女将さんは驚いてユイから受話器を奪い取る。
「さゆり、どうしたんだい。」
電話の向こうではさゆりさんが怒鳴り散らすような声でわめいている怒号しか聞こえない。
「女将さん、とりあえず行きましょう。ボクも行きます。」
ボクは店内にいた客に事情を説明して詫びを入れ、今すぐに店を閉めたいと申し出た。ほとんどの客が常連客だったので事なきを得たが、二人ほどいた一見さんには、お代はいらないから早く食べ終わってほしいと言い残してボクは二階へ上がった。
その時、店にいたのはボクとユイと女将さんとゆかりさんだった。四人でタクシーを拾い、急ぎ病院へと向かう。なにかしら嫌な予感が通り過ぎる。時間の進み方がこれほどじれったいと思ったことはなかった。
病院に到着すると急ぎ病室へと走り込んだ。ベッドの周りではみゆきさんとさゆりさんが心配そうな顔で親方を見下ろしている。
「で、どうなんだい。」
女将さんがみゆきさんに尋ねた。
「急に様態が悪くなって、ドクターを呼んだんだけど、今夜がヤマだって。」
その言葉を聞いて女将さんが膝から崩れ落ちる。
ボクたちはそれをやっとのことで支え、椅子に座らせた。
「大丈夫。きっとまた目を覚ましてくれますよ。」
ボクがそう言った途端、親方の目が反応したようだった。
ゆかりさんはボクを親方の右手に立たせ、手を握るように示唆した。
「お父さんね、私たち三人に誰かが息子だったらよかったのになって、ずっと言ってたの。やっぱり男の子が欲しかったみたい。だから、恭介さんが弟子になって、ウチを継いでくれることになって本当に喜んでた。」
するとみゆきさんも同じような話を始める。
「だからね、恭介さんが自分の息子になってくれないかなって、そんなことも言ってた。だから、声をかけてあげて。」
唐突に訪れた状況に、どうしていいかわからないほど混乱するボクの想い。ユイがそっと背中を押してくれた。
ボクは親方の手を握り、耳元で親方を呼んだ。
「親方、恭介です。明日の仕込み、一緒にしますよ。」
ボクが絞り出した精一杯の呼びかけだった。
ボクの声を聴いて親方の唇がかすかに動いた。
「キョウスケ」
声は出なかったが、ボクにはそう言っているように見えた。
親方につながっている機械の数値が、波がどんどん小さくなっていく。
「おやじさん。お父さんっ。」
ボクは自然とそう呼んでいた。その言葉を聞いた親方の心拍数が一瞬上がった。数値も波も一瞬その全てを正常値へと引き戻した。
その瞬間、親方の目がうっすらと開く。周りを見渡す目線が女将さんから三人娘へと流れてゆき、最後にボクとユイの姿を見つけると、安心したような笑顔に変わり、そのまま瞼を閉じた。そしてフェードアウトするかのように、数値が、波が少しずつ削られていく。そしてその全てがゼロ値を示した時、ドクターが戦いの終了宣言を述べたのである。
「ご臨終です。」
泣き崩れる女将さんと三人の娘たち。ユイはボクに抱きついたまま離れなかった。知らせを受けて駆けつけてきた三人娘の婿殿たちは、とうとう臨終の瞬間には間に合わなかった。
それは、やがて北風が我が物顔で闊歩し始めるころのこと。そしてその北風を見下ろす透明感のある光が美しい月の夜の出来事だった。
翌日に通夜、さらにその翌日に葬式が行われる。
喪主はもちろん女将さんが務めることとなるが、ボクとユイも家族の一員として列席を許された。なによりもそれが女将さんと三人娘の希望だったからである。
親族は三人娘とその婿と子供たち。都合五人の孫がいた。
葬式には商店街の人たちや常連客が来てくれた。『織田』の親方と女将さんも圭ちゃんが連れて来てくれた。ウチの両親もユイの両親も来てくれた。ヒデさんも来てくれたし、米倉さんも来てくれた。みんな親方の料理と店と親方の気質を愛してくれた人ばかりだ。
ボクは大きな礎を失った。まだ色々任されるようになってから数カ月しかたっていない。まだまだ不安なことばかりが目の前に立ち並んでいるというのに。
葬式が終わると、三人娘たちはそれぞれ自分の家に帰っていくことになる。その前夜、ボクとユイは女将さんの部屋に来るように三人娘に呼び出されていた。
まずはみゆきさんが口火を切る。
「恭介さん、ご苦労さまでした。私たちはこれで帰りますが。あと、お母さんをよろしくお願いします。」
女将さんは娘の言葉を聞いても気丈にふるまう。
「なあに、キョウちゃんはお前たちなんかよりもずっと頼りになるんだ。心配なんかいらないよ。」
するとゆかりさんは女将さんが座っているすぐ後ろの押入れを開いて、文箱から一枚の紙切れを取り出した。
「恭介さん。これはお父さんとお母さんからも相談されてたことだし、私たちはみんな了解しているの。」
そう言って取り出したのは、何かの届出書のようなものだった。
「最後にね、恭介さんが『お父さん』って呼んでくれたでしょ。その時のお父さんの表情は私たちが知っている最近で一番の笑顔だった。そう思ってる。だからね、恭介さんと養子縁組を正式にできないかなと思ってるの。そうすれば、何の問題なくお店を継いでもらえるし、お母さんも任せられるし。もちろん、なんかあったら私とみゆき姉さんはすっ飛んで来るわよ。介護が必要になったらそれも押し付けたりしない。でも日頃のことや、急に何かあったら私たちじゃ対応できないし、お店だって継いでもらわなきゃいけないし。」
さゆりさんも膝を乗り出してくる。
「ごめんね。私なんか北海道に行っちゃってるから何もできないんだけど、あなたなら安心できるってわかったわ。ユイさんもいい人だし。だから、色々な意味での財産管理をお任せするってことになるんだけど、引き受けてくれないかな。」
最後はみゆきさんだ。
「もちろん即答でなくていいのよ。でも前向きに考えてね。きっといい返事をくれると信じてるわ。近い将来の弟くん、妹さん。」
ボクもユイもあっけにとられるしかなかった。うすうすそんな計画があるらしい気配は感じていた。ヒデさんがちらっと漏らしたことがあるからである。しかし、届出書が目の前にあるほど具体化しているとは思わなかった。
「この話はね、キョウちゃんが世話になった弁護士先生がいるだろ?あの人にも相談してある話なんだ。あたしの胸の内はもう決まってるんだけどね。娘たちに相談するまでもなく。親方もそうしたいって言ってたんだから。だからあの人の遺言だと思って考えておいてね。きっとだよ。」
女将さんは言い終わると同時に涙をこぼす。
「はい。ユイとよく相談して決めさせていただきます。でも、ボクは養子になんかならなくても親方夫婦の面倒は見るつもりでしたよ。今まで随分とお世話になりましたし、今のボクたちがあるのは、とにもかくにも親方と女将さんのおかげなんですから。」
ユイの顔を見ると、ボクの目を見つめ返してニッコリと微笑み、そしてゆっくりと三人姉妹に意を伝える。
「女将さんは私にとって東京のお母さんなんです。本当にそう思っています。いつも甘えさせてもらって感謝しています。女将さんのお世話は私にお任せください。」
そう言って胸を叩き、女将さんに寄り添っていった。
「どうだい、可愛いだろ?お前たちなんかよりも数倍もユイちゃんの方が可愛いよ。」
女将さんも負けじとユイを抱きしめた。
翌日、北海道へ帰るさゆりさんを皮切りに、遠い順番で食堂を離れていく。最後に帰ったのはゆかりさんだった。最後の最後までボクたちに女将さんのことを頼んで帰っていった。
賑やかだった食堂も、あっという間に三人になり、淋しく感じてしまう。今まではココに親方がいたのに、もう今はいない。
今宵も秋の空。いつもよりも淋しい風が吹いていた。
ひと段落したのは、親方が亡くなってから一週間も経った頃だろうか。
間もなく秋も終盤を迎えようとしていた。ボクは親方が最後に言い残していた、まだ教えてもらっていない料理のことについて女将さんに尋ねた。
「ああ、あれかい。知ってるよ。あの人、キョウちゃんに教えてやるからって、ちゃんと帳面に書いて残してあるよ。」
「よかった。女将さんもその作り方まで知ってるんですよね。ぜひ教えてください。」
すると女将さんは腕を組んでしかめっ面でボクを睨む。
「いいけど、ウチの息子になるって話はどうなった?」
「えっ?」
ボクは言葉に詰まった。
「もしかして、それが条件なの?」
すると女将さんはニヤッと笑う。
「当たり前だよ。なんせ、ウチの一子相伝の秘伝のレシピだからねえ。ウチの息子にならないと教えられないよ。」
我が意を得たり、そんな勝ち誇ったような顔だった。
ボクは恐る恐る聞いてみる。
「それはどんな料理ですか?」
「それも教えられないよ。」
ボクはこの件に関しては完全に敗北を認めざるを得なかった。それでもその件に関してはユイとも話をしており、受ける方向で考えていた。ボクは厨房にユイを呼んだ。
「どうしたの?」
「女将さんがね、ボクとユイにここの家の子になってくれないと、親方の最終レシピを教えてくれないっていうんだ。」
「うふふ、女将さん意地悪ね。でもホントに私たちでいいの?」
「あたしがずっとお前たちにお願いしてることなんだ、後はお前さんたちの返事待ちじゃないか。」
「わかったわ、お母さん。」
その瞬間、女将さんはユイを抱きしめた。
「本当かい?嬉しいよ。」
ユイの体をぐっと抱きしめながら、ボクの背中をバンバン叩く。
女将さんは一息つくと、戸棚の奥にある一冊の新しいノートを持ってきた。最近買ったばかりと思われる新しいノートだった。女将さんはそのノートをそっとボクに渡す。
ボクの指は震えていた。その奮える指でノートをめくっていく。そこに書かれていたのは、ビーフシチューのレシピだった。そういえば、ウチの食堂でシチューが並んでいるのを見たことがない。
「女将さん。これって、いつ作るんですか。」
女将さんは、口笛を吹きながらそっぽを向いて答えてくれない。それでもボクに言い聞かせるようにユイを目線で追いながら、
「お前は冷たい子だねえ。ユイちゃんはちゃんとお母さんって呼んでくれたのに。」
その時の女将さんの心境を察したボクは素直に呼んでみることにした。
「わかったよ、お母さん。」
すると今度はボクに抱きつき、ぐぐぐっと締め付ける。
「痛い、痛いよ。」
「ゴメンよ。でもあの人も最後にキョウちゃんにお父さんって呼んでもらって幸せだったと思うよ。念願の息子だったからねえ。」
女将さんの目にうっすらと光るものが見えたが、ボクはわざとそ知らぬふりをしてノートに目を移す。
「そのノートはね、昔あの人が修業したレストランで教えてもらったレシピなんだよ。古いノートに書き留めてあったものをもう一度わかりやすいように清書して、今のそのノートになったってわけさ。」
「でもこんな料理、この店で出してるの見たことないけど。」
「そりゃそうさ。これは娘たちの誕生日の日だけに作ってた料理だからね。」
「どうして?」
「材料費も手間もかかるし、売れ残ったら大赤字になるからだよ。これをウチの食堂で出すとしたら、一皿千円以上もらわなきゃいけなくなる。そんなものを食うような上品な客なんかいないじゃないか。」
それもそうかなと思ったが、折角のレシピなのだから、何とかならないものだろうか。そしてボクは名案を思いつく。
「いいことを思い出しましたよ。来週の日曜日はユイの誕生日です。それに合わせて作ります。お客さんにも限定で提供してみましょう。」
そう、来週の日曜日、十一月十九日はユイの誕生日なのである。
「そういやこの時期だったかね。それにしても何でそんな大事なことを早く言わないんだい?まあでもいい機会じゃないか。よし、じゃあそれに決まりね。そういや、お前さんの誕生日にはらーめん祭りをやったんだっけかね。」
「そうですよ。」
「来年の誕生日には、あたしがこれをお前さんのために作ってやるよ。」
「楽しみにしています。」
そんな折、ヒデさんが店に訪れた。ボクたちの結婚式の相談だったのだが。
ヒデさんはテーブルに着き、女将さんと話しを始めていた。ユイも水を運んで注文を聞きに行くついでに、その話の内容を聞こうとしたが、二人に遠ざけられるように他のテーブルの片づけを言いつけられていた。
ユイはボクのところへ来て、
「なんだか結婚式の話をしているらしいんだけど、向こうへ行くように言われちゃった。」
「どうしたんだろ。親方が亡くなったから延期になるかな。」
「そうねえ。もう一緒に住んでるんだし、式なんていつでもいいのよ。別に来年でも。」
などと話しをしているとき、接客も調理も少し手が空いたタイミングでボクとユイは女将さんに呼ばれた。
「あのさ、二人ともよくお聞き。世間様は親方が亡くなったことでお前たちの結婚式は延期されるべきだとか言ってる輩もいるけど、あたしは断固として予定通りやってもらうからね。そのつもりでいなよ。」
「どうして?ユイはいつでもいいのよ。」
すると女将さんはユイを膝の上に座らせて、ユイの問いに答える。
「それはね。あたしのためだよ。親方は結局ユイちゃんの花嫁姿を見ずに逝っちゃっただろ。あたしはそれが悔しいし、嫌なんだよ。あたしだっていつお迎えが来るかわからない。だからこそ、あたしが元気なうちに二人の晴れ姿を見せておくれ。それに四十九日を迎えるとあの人もあっちへ行っちまうだろ。まだその辺にうろうろしているうちに見せてやりたいんだよ。お前たちの晴れの姿を。」
するとヒデさんも企画書をボクたちに見せる。
「すでにプランは進んでいるんだ。これについてはウチの都合もあるけど、こっちの都合もあるからね。それで女将さんの了解をもらいに来たってわけさ。」
「でもそれって仕事の都合でしょ?お母さんホントにいいの。」
「ああ、キョウちゃんとユイちゃんがあたしのことを母さんと呼んでくれるんなら、早い方がいい。あの人だってそれを望んでいるに違いないんだから。娘たちが何と言おうとあたしはやるよ。ここの跡継ぎはお前さんたちなんだから。早くあたしの気持ちを楽にさせておくれ。」
ヒデさんはボクの肩をポンとたたき、
「じゃあ決まりね。明日にもプランナーと一緒に来るから、細かい打ち合わせはその時。じゃあ腹も減ったし、肉じゃが定食でも食って帰ろうかな。あとビールとね。」
「はい。」
ユイの透き通るような声は今日も生き生きとしていた。
「それとねヒデさん。」
不意に女将さんがヒデさんに声をかけた。
「さっきの話だけどね。ユイちゃんの結婚式とあの人の四十九日を一緒にできないかね。賑やかなことが好きな人だったし、キョウちゃんとユイちゃんの晴れ姿を見せてあげて、みんなとワイワイはしゃぎながらあっちの世界へ送り出してやりたいんだよ。湿っぽい陰気な儀式より、親しかった人たちに賑やかに送り出されたい。そう思ってるはずだし、二人の結婚式がいいきっかけになるんだよ。」
ヒデさんはちょっと考えた様子だったが、女将さんの真剣な表情に負けたようだった。
「わかりました。そっちも段取りしましょう。しかし、ユイちゃんはドレスのまま四十九日に出席することになりますよ。」
「馬鹿だねえ。その姿を見せるためにやるんじゃないか。」
「了解。」
こうしてボクたちの結婚式と親方の四十九日を同日、ここ『もりや食堂』で行われることが決定したのだった。
今宵も月は綺麗だ。
こんな月がきれいな夜は、無性にユイが欲しくなる。ボクが狼たる所以であるからだろうか。それとも月の光がユイをより一層輝かせるからだろうか。
ボクはユイの匂いに導かれるまま、寝間着を脱がせていく。ここに住み始めてこんなにも狂おしいほどにユイを欲しく感じたのは久しぶりだった。もうボクの理性はすでに吹き飛んでいる。誰もボクを止められない。
「キョウちゃん、どうしたの?」
ユイはニッコリ微笑んで、激しく求めるボクを受け止めてくれる。ふくよかな丘陵、その頂点に立つ石碑への挨拶がいつもより激しい。今宵はユイの素肌がまぶしく光っている。そのことがボクをいつも以上に狂わせるのだ。
さらにボクはユイの祠に無理やりと言っていいほど強引に銃口を差し込んだ。それでも中の女神様は優しくボクを受け止めてくれる。
ボクもユイの洞窟の奥底であふれている泉に口づけを捧げた。ボクの祠の大黒様を精一杯泉への奉仕に努めさせる。その泉の香りは甘い蜜のような誘引剤となって、別世界への階段を登らせてくれる。
やがてボクは銃口を祠から洞窟へ移動させ、奥深くへと進撃を始める。ボクの手はやわらかな肌を滑り降りるように弧を描く。そして彼女の匂いは銃口の進撃をより加速させる手助けをしてくれる。
薄暗闇の中、わずかな月の光がユイの姿と表情を映し出し、上から下からあらゆる角度から眺めては歓喜する。この日のボクたちは何か違っていた。ボクはより猛々しく、ユイはより神々しく。そんな二人がそろそろフィナーレの演目を奏でようとしたとき、ユイはボクの体を離さぬよう、しっかりと抱え込んだ。ボクの全てを受け入れるかのように。そしてボクは最後の吐息を漏らした。
ボクたちは心地よい疲れを感じるとともに、将来のボクたちを夢見ながら、月夜の世界へと吸い込まれるように朦朧としていくのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます