第10話 ケジメをつけるために朝は来る
そして梅雨も明けたある夏の夜。暦が次の月に変わっていた頃、店の片づけが終わってから親方がボクとユイを厨房に呼んだ。
「今日もご苦労様でした。はいこれ。」
そう言って渡されたのは、明らかに給料袋である。ボクたちの給料日は毎月月末と決まっており、今日はまだ月の中日だ。
「親方、大丈夫ですか?今日はまだ給料日じゃありませんよ。」
「あのな、ワシを老人扱いするんじゃない、まだボケとらん。これはボーナスだ。二人が来てからワシらの仕事が楽になって、しかも客も増えた。これはお前たちが受け取るべき当然の報酬なんだ。少ないけど、気持ちだから受け取ってくれ。」
「親方、毎月の給料でも精一杯でしょう。ボクたちは昼も夜もここで食事させてもらってるんです。今貰ってる給料だけで十分ですよ。」
「そうよ、私も今のままで十分だと思ってます。気持ちだけで十分ですよ。」
すると女将さんも厨房に入ってきた。
「黙って受け取っておきな。それと明日から三日間、お前たちは夏休みだよ。ちょっとお盆には早いけどね。」
いつもの様に言い方はぶっきらぼうだが、言ってることは優しさにあふれている。しかも、またぞろ何か魂胆がありそうだ。
「キョウスケ、その休みの間にユイちゃんの実家に行っておいで。そんでもってちゃんと結婚する準備を始めな。それがボーナスと夏休みの理由だよ。以上。質問や意見は一切受け付けないからね。はい、二人ともとっとと帰った帰った。」
そう言ってあっけらかんとして厨房を出ていく女将さん
すでに親方はボクたちに背を向けて、口笛を吹きながら作業着を脱いでいる。
「親方、ありがとうございます。ボク、行ってきます。」
そのときユイはボクの隣で下を向いたままだった。それでも意を決したように女将さんのところへ駆け寄って、抱きつきながら礼を言う。
「ありがとうございます。明日、恭介さんと一緒に行ってきます。」
「うん。行っておいで。キョウスケ、ちゃんと挨拶して来るんだよ。反対されてもいい。しっかり報告して来い。もう誰が反対しようと、お前たちが結婚することは決まってるんだ。このアタシが誰にも文句なんて言わせないんだからね。それと、それが終わったら、栃木にも行ってくるんだよ。だから三日なんだからね。」
「はい。」
ボクたちは素直に感謝の意を込めて礼を述べた。
その日のアパートへの帰り道。
ボクたちはいつもの様に手をつないで帰っていたが。内心はかなり緊張していた。ボクはもちろんのこと、ユイもまだボクのお袋には会っていなかったのである。
「ユイのお家、今日のうちに電話しておいた方がいいんじゃない。」
「うん、お母さんに電話しておく。キョウちゃんのお家は?」
「うん、ボクもお袋に電話しておくよ。親父はカンカンに怒ってるらしいし。」
部屋に戻るとまず一番にすることは、決まって抱擁とキスである。この日もボクたちは互いの疲れを労いながら体温を確かめ合う。
そして風呂に入って寝るだけ、というのがいつもの生活なのだが、明日は朝から出かけるために、今夜はその準備をしてから寝ることとなる。
まずは前もっての連絡であるが、ユイの方は母親にあらかた説明してあったこともあり、とりあえずは会ってくれることになった。ボクもお袋に電話してみたが、相変わらず親父はボクを勘当状態としてあるらしく、会う事すら拒否された。しかし、お袋は来いと言うので、一応は行くことにする。
次はネットで宿を探す。ユイの実家は木更津である。ユイは実家に泊まればいいが、ボクはそう言う訳にはいくまい。幸い、駅の近くにビジネスホテルがあったのでそれを予約した。ボクの実家は宇都宮だが、こっちは二人分の宿を探しておいた方がいいだろう。今の勢いではボクが玄関から先に入れるかどうかも疑問だ。
ボクたちは明日以降の不安を抱えながら、今宵も息遣いと体温を感じながら静かに夢の世界に落ちていくのであった。
翌朝、ボクたちはいつもより遅い時間に目が覚めた。それでもよく眠れなかったと見え、二人してまだ寝ぼけ眼である。それでも顔を洗って身支度をして部屋を出た。
東京から木更津までは一時間半もあれば到着する。
都心から離れても熱い日差しは変わらない。風はさすがに少し涼しいかもしれないが、蝉の鳴き声が五月蝿いのは同じである。
駅を降りてからユイの先導でバスに乗り、さらにバス停を降りてから十分ほど歩く。割と閑静な住宅街にユイの実家はあった。二階建てで小さな庭と窓が大きな家、白い壁が印象的だった。
「キョウちゃん、覚悟はいい?ユイも緊張してるけど、キョウちゃん大丈夫?」
「う、うん。ここまで来たら腹をくくるしかないでしょ。殺されてもいい覚悟で行くよ。」
「うふふ、大げさね。それぐらいの冗談が言えるなら大丈夫ね。」
ユイは呼び鈴を押した。
=ピンポーン=
当たり前のように、当たり前の音が聞こえてくる。
玄関のドアが開き、ユイと雰囲気がよく似た女性が顔を出す。間違いなくユイの母親だ。
「ユイ、おかえりなさい。そしてあなたもね。お父さんがお待ちかねよ、入りなさい。」
彼女はボクの方へも目線を向けて中へと招く。
「初めまして、角田恭介と・・、」
そこまで言ったが、ユイの母はボクの自己紹介を遮るようにして、二人を家の中へと引きいれる。
「いいから、堅苦しい挨拶はいいの。早くお入りなさい。」
ボクは言葉に詰まってしまう。その様子を見てユイがボクの手を引いて家の中へと招く。
そしてボクたちは家の奥の居間へと案内されると、そこにはユイの父親と思しき人がしかめっ面で座っている。
「お父さん、ユイが帰って来たわよ。」
「・・・・・。」
ユイの父親は黙ったまま、天井のどこかの一点をただ見つめていた。
ボクは軽く一礼をして、ユイのお父さんの前に立ち、同時にユイは挨拶と共にボクを紹介しようとした。
「お父さん、ただいま戻りました。私の彼を紹介します。」
「ユイ。誰が帰って来てもいいと言った。母さんはいいと言ったかも知れんが、父さんは許さんからな。」
いきなり非情な空気が流れる。ボクも身を乗り出して自己紹介と挨拶をしようとしたとき、ユイのお母さんが割って入る。
「お父さん、頑張ったって無理よ。昨日の晩からソワソワしてたくせに。」
「五月蝿い。」
「お父さん、ごめんなさい。ユイがお父さんの思うような子じゃないのは許せないかもしれないけど、今はちゃんした仕事してるから。お母さんから聞いてるでしょ。」
「ユイ。お父さんがお前のことをどれだけ期待してたと思ってるんだ。いい学校へ行かせてやって、その挙句に中退して夜の仕事だと?お前の顔なんか見たくもない。」
するとお母さんはニコニコとした顔で笑い飛ばす。
「うそよ、ユイの居場所がわからなくなったとき、どれだけ慌てたと思う?警察に届け出ようか、興信所に依頼しようかって、それはもう大変だったんだから。」
「母さん、そんな事を言ってしまったら元も子もないじゃないか。」
「嘘ついたって仕方ないじゃない。それよりもユイが無事に見つかって何よりだって、真っ先に喜んでいたのはあなたでしょ。」
「ううむ。」
お父さんはとうとう黙ってしまった。するとお母さん、今度はボクに水を向ける。
「さて恭介さん、今度は貴方の番よ。」
「はい。初めまして、角田恭介と申します。今は東京の新宿近くにある『もりや食堂』というところでユイさんと一緒に働いています。ユイさんと結婚しようと思っています。どうかボクたちの結婚を認めていただけないでしょうか。」
ボクは言うべきことを一気に話した。緊張のせいか少し早口だったかもしれなかったが。
「角田君か。その子はもう私の娘ではない。キミたちの好きにすればいい。ただし、私は認めない。キミのことをどうこう言うのではない、娘のことを許せないのだ。」
「うふふ。ユイ、お父さんね、昨日から知り合いの呉服屋さんに電話して白無垢のカタログ取り寄せたりしてるのよ。私に聞こえないように電話してるつもりなんだけど、台所までまる聞こえなの気付いてないのよ。可笑しいでしょ。」
それを聞いてユイはたまらず父の下へ駆け寄り抱きついた。
「お父さん。ゴメンね。」
「ユイ。」
お父さんもたまらずユイを抱きしめていた。
「お父さん、心配かけたけど、ユイは今とっても幸せよ。だから、恭介さんとの結婚のこと許してね。」
「このこと母さんはどこまで知ってたんだ。」
「うふふ。私はいつもユイから電話をもらってましたからね。かなりのことを知ってますよ。トンカツ屋に行ってたことも、今住んでるところも。恭介さんと結婚したいっていう話も、みいんな知ってるわよ。あなたがへそを曲げてる間中もずっと私はユイと向き合ってきたわ。夜の仕事のことも何となくは感づいてたわ。」
「お母さん、私ね。」
「いいのよ。そんなことは知らなくてもいいの。最終的に恭介さんと知り合えたんでしょ。それでいいじゃない。恭介さん、こんな娘だけどよろしくお願いしますね。ほらお父さん、あなたからもちゃんと挨拶するのよ。」
「ふん、オレは認めんからな。」
そういうとお父さんはとうとう席を立ってしまった。
「大丈夫よ。一旦振り上げた拳を下ろすところが見つからないだけよ。明日になったら違う顔が見られるわよ。うふふ。」
最後の「うふふ」って言うのもユイそっくりだ。
「恭介さん、ユイが帰ってきたのも二年ぶりなの。私たちの知らないユイの話を聞かせて頂戴。」
ボクはユイのお母さんに圧倒されていた。『もりや食堂』でも『織田』でもそうだったが、どこの家でも主導権を握っているのは女性なのかと思った。
ボクはユイのお母さんに導かれるようにして、ボクとユイとの出会いから今に至るまでの話をした。もちろん、ユイがどんな店にいたかは伏せたつもりだったが、お母さんもそこのところは詳しくは聞かなかった。
ボクとユイはなるべく話し過ぎないように話をしていたつもりだった。ところどころ詰まりながらしていた話は脱線したり、時間を戻したりしながらもユイのお母さんが今までずっと知りたかったユイの詳細についても、大まかながら知りうることができたことについて満足してもらったようだ。
「恭介さんありがとう。おかげで今までの時間をいっぺんに取り戻したようだわ。今日は泊まっていくんでしょ?」
「お母さん、ユイはもちろん泊まっていきますが、ボクの分は外に宿を取ってありますから。ユイもお母さんに甘えたいはずです。ボクは今日はこれで失礼します。久しぶりに親子水入らずの時間を過ごしてください。」
ボクはそう言って立ち上がり、ユイのお母さんに明日の朝、ユイを迎えに来ることを約束して家を出た。
家を出て、今宵の宿へ行こうとバス亭に向かう途中の角を曲がった途端、ボクは心臓が止まるかと思うほど驚かされた。そこにはユイの父親が立っていたからだ。
「角田君、話がある。ちょっと付き合ってくれないか。」
驚きはしたが、誰だかわかるとボクは次第に落ち着きを取り戻し、「はい」と返事をしてお父さんの後ろに従って歩き始めた。
お互い無言のまま歩くこと数分。小さな小料理屋の前に到着した。そこはお父さんの知っている店らしく、暖簾をくぐると同時に中の女将さんが愛嬌よく挨拶をしていた。
「あら、どうしたの怖い顔して。」
「女将、奥の部屋空いてるかな。小さい方でいい。」
「空いてるわよ。こそこそと何の相談?」
「いいから、ビールとつまみを適当に持ってきてくれ。」
ボクはお父さんの後について行き、ただ適当な愛想をふりまくしかなかった。そして導かれるままに座卓に座った。
「角田君、先ほどは失礼したな。オレもわかってはいるんだ。娘ももう子供じゃないってことぐらい。しかしな、父親にとって娘とは特別な存在でな。」
そこまで話した時、女将さんがビールと小鉢を運んできた。
「いらっしゃい。こちらの若い方、仕事関係の人?」
女将さんが場の雰囲気を和ませようと話しかけてくれたのだが、お父さんはしばらく二人だけにするようにと言い聞かせて、部屋の外へ追い出してしまった。
ボクはビールを注ごうとして瓶を取り、お父さんのグラスに注いだ。お父さんもボクのグラスに注いでくれる。
「酒が入る前にはっきり言っておきたい。」
その言葉を聞き、ボクに本日最高の緊張感が走り抜ける。
「一応認めないとは言ったが、もはやユイはオレの手を離れている。ここから先はキミに託すしかないようだ。角田君、娘をよろしく頼む。」
「お義父さん。」
ボクは初めてこう呼んだ。
「今日、キミがウチに泊まるような輩だったら、オレは本気で反対するつもりだった。だが、キミは娘をウチに預けて外へ出た。その瞬間、オレはキミを信用することにした。本当ならもう少し若い婿を想像してたんだけどな。まあでも今のユイにはキミのようなしっかりとした連れ合いの方がいいのかもしれない。そう思うことにした。だから、乾杯。」
その言葉を胸に刻み込んで、その場で立ち上がり深々と頭を下げた。
「改めまして、角田恭介です。これからもよろしくお願いします。」
「うんうん。まあいいから座りなよ。堅い話はお終いだ。今のユイの生活を聞かせてくれ。どうせ一緒に暮らしてるんだろ。」
「はい、すみません。」
「いいんだ。オレもキミが思うほど堅物のつもりはない。どうせ一緒になる人なら、予行演習ができてると思えばいいだけじゃないか。」
「ありがとうございます。がんばります。」
これからは素直にお義父さん、お義母さんと呼べるような気がした。
打ち解けた男同士の話が弾む小料理屋の時間はゆったりと過ぎていった。ボクはホッと胸をなでおろし、今宵の宿へと向かった。
都会と異なる夜の風は、熱く緊張していたボクの皮膚をゆっくりと冷ましてくれていた。
翌朝、ボクの気持ちと同じように晴れやかな空が天を突き抜けていた。
そしてボクは宿を出てユイを迎えに出向く。
そこにはわだかまりの溶けたユイ親子の姿があった。
「おはようございます。」
「恭介君、おはよう。」
お義父さんもボクを姓でなく名前で呼んでくれる。
「恭介さん、ユイをよろしくね。」
お義母さんの表情も晴れやかだ。
「お父さん、お母さん、ありがとう。じゃあ、行ってきます。」
ユイの声も気持ちいいほど軽やかだ。
いつまでも見送ってくれた二人を背中に、ボクたちは駅へと向かうバスに乗り込んだ。
「昨日はちゃんと甘えてきたかい?」
「うふふ、キョウちゃん、ありがとね。もう何にも心配はなくなったわ。」
「ところがどっこい、ボクにとっては最大の難関が待ち受けてるんだよ。」
木更津から宇都宮までは、一旦東京へ戻ってから湘南新宿ラインで宇都宮まで約三時間と少し。ちょっとした旅行気分になる距離かも。
ボクの場合はユイの場合と違って、お袋が大した理解者になっていない。そもそも亭主関白の色が濃い家庭である。お袋の意見などに親父が耳を貸すわけではない。従ってボクの足は鉛の足かせをはめているが如く重いのである。
「ユイ、何が起こっても我慢してね。全てはボクが悪いだけなんだから。」
「わかってるわ。お母さんにもそう言われてきてるし。大丈夫よ。」
残念ながらユイの言う大丈夫に根拠はない。しかし、ボクたちは行かねばならぬのである。宇都宮とはいえ、隣町の方が近い郊外である。宇都宮の駅を降りてバスに乗り、やがて現れる景色はビルの姿が消え、古い町並みと田畑だけが並んでいる。そんな光景である。
ちなみに説明しておくと、ボクの実家は昔から代々続く農家である。本家ではないがそれなりの屋号も持っている。幸いにしてボクには兄がいるので、現在はその兄が父の跡を継ぐことになっている。
やがて家が近づくにつれて鼓動が高鳴る。ボクはユイの手を握りしめた。
「ただいま。」
玄関のドアを開け、第一声を発したとたん、親父が奥の部屋からすっ飛んできた。
「何しに帰ってきた。ここはお前の来る場所ではない。」
親父の陰に隠れるようにしてお袋が心配そうな顔をしてみている。
「この度は迷惑をかけてすみませんでした。心から反省し、謝ります。」
まずは謝罪すべきと思っていた。結果的に正当防衛になったとはいえ、発端となった行為自体は浅はかな行動が原因なのである。そのことで、この家の名誉に傷をつけたことには違いなかった。
「お前など息子ではない。顔も見たくない、出て行け。」
「お父さん、折角結婚するって言う娘さんを連れて来てるんだから、話だけでも聞いてあげてよ。」
お袋はできる限りとりなしてくれるが、そんな声を聴くような親父ではない。ボクは親父の許可が出るまでは一歩も敷居の内側に入れない。
「お父さん、確かに恭介は浅はかでした。でも今はちゃんと反省して、苦労して立派にやってるんですよ。食堂の女将さんからもお礼の手紙をもらってるぐらいです。いい加減に許してやってもらえませんか。今度結婚するっていう娘さんも一緒なんだし。」
暫くボクをにらみつけながら思案していた親父だったが。なにを思いついたかユイだけを手招いた。
「お嬢さん、ちょっとお入りなさい。話しておきたいことがある。すまんな大きな声を出して。恭介、お前はそこで待ってろ。」
ユイも覚悟していたのだろう、すっと親父の前に歩み出て、招かれるままに敷居をまたいだ。
「なにも取って食おうとは言わん。茶でも飲んで帰りなさい。」
そう言って先に奥の部屋へと消えて行った。
「ユイさん、どうぞお入りなさい。ごめんなさいねビックリしたでしょ。」
「はい、失礼します。」
ユイはボクに相槌を送ってから家の中へと入っていった。ボクは軒先で待っているしかなかった。
生まれ育った実家の玄関。見慣れた光景のはずだったが、今日、ボクの視線から見える光景はまるで初めて訪れる友人の家の前、そんな感じだった。長く帰っていなかったせいもあるのだろうか、不思議な面持ちだった。
子供のころに使っていたブランコ、登った後に落ちたことのある無花果の木、昔飼っていた犬がいた小屋、親父に叱られて閉じ込められたことのある納屋・・・。
それら全てに記憶があった。
気が付けば風の音だけが聞こえていた。人通りはおろか車通りも少ないこの近辺では、鳥の鳴き声や蛙の鳴き声が当たり前のように常に聞こえている。
そんな中、家の中の様子を伺おうと耳を澄ませていると、親父とユイの笑い声が聞こえてきた。その声を聴いた刹那、ボクは幾らか安堵した。
どれぐらい外で待たされたことだろう。子供のころ愛用していたブランコに揺られながら時間が流れるのをただ見送っていたのだが、そろそろ懐かしい風の匂いにも飽きてきた頃、玄関から親父とお袋、そしてユイも一緒に出てきた。
ユイの表情からは一見何も読み取ることはできなかったが、特に大きな波風は立たなかったように見受けられた。そしてボクの顔を見つけると、にっこりと笑みを返してくれた。ボクはすぐに駆け寄って親父を睨んでみたものの、親父の顔はボクの表情とは裏腹に晴れやかな顔だった。
「キョウちゃん。お義父さんもお義母さんも許してくれたわ。大丈夫よ、お義父さんと約束したから。」
やや思いつめた表情にも受け取れたが、ボクは両親に無言のまま頭を下げて、ユイの手を引くように家を出た。
後ろからお袋がボクの名を呼び、あとで電話をくれるようにとかけてくれた声が名残惜しそうに聞こえた。
歩きがてらボクはユイに尋ねた。
「なんか酷いこと言われなかった?」
「ううん。私がねお義父さんとお義母さんに謝ったの。私のせいだもの、キョウちゃんがあんなことしたの。だから謝ったの。そしたらお義父さんがね、それはキョウちゃんが私のことを愛しているからだって、それだけ本気なんだって、だからずっとそばにいてやって欲しいって言われたの。だから、・・・・・・。」
ボクはユイの肩を抱いて、ぐっと引き寄せた。ユイはボクの顔を見上げて、
「だから、約束してきたの。ずっとあなたと一緒にいることを。」
ユイの目は赤く潤んで、そして美しく光っている。ボクは立ち止まり、やや強引にユイの唇を求めた。
「ありがとう。ゴメンね、辛いこと思い出させて。」
「いいの。ユイも確認できたから。おかげでみんな覚悟できたから。」
「ユイ、もしかしてそのせいでボクと一緒にいてくれるの?」
「違うわ。そんなことなら食堂に戻ってなんてこないわ。確認したのは、ユイがキョウちゃんを愛してるってこと。キョウちゃんのお義父さんもお義母さんも、解ってくれたわ。」
ボクは思いのほか早く終えた用事にひと段落つけて、折角の休日を楽しもうと思った。そしてあらかじめ予約していたホテルにチェックインする。
すると少し落ち着いたタイミングでユイがボクにお袋へ電話するように促した。
「お義母さん、あとで電話してって言ってたでしょ。」
部屋に入り旅装を解き、どこか観光にでも行こうかと行き先を模索している頃だった。
ボクは自分の携帯電話からお袋の携帯電話へとかけてみた。
「もしもし。ユイから話は聞いた。ゴメンな、色々と世話をかけて。」
「ああ、それはいいんだよ。それよりもそのあとの話をユイさんから聞いてないかい。」
「ユイには許すと言ったそうだね。」
「お父さんはね、とにかく無事でよかったとは思ってるんだよ。だけど、お前がやらかしたことで、本家に顔向けできなかったり、しばらくは近所の人に白い目で見られたことも確かだ。田舎ってそういうところだからさ。」
「解ってるよ。だから許してもらおうなんて思ってない。ただ、ユイを引き合わせたかっただけなんだ。」
「母さんはもう少しお前と話しがしたい。今から駅前の『みさき』までユイさんと一緒に来られるかい。夕飯の支度はリエさんに頼んだから。」
リエさんとは兄嫁のことである。
「ユイと一緒に行くよ。」
お袋にそう言って電話を切った。
「お義父さんはね、キョウちゃんが逮捕されてから親戚中に謝りに回ったんだって。特にお祖父さんの家は本家なんだって?かなり嫌味を言われたそうよ。お義母さんも一緒に行ったみたいだけど、最後まで自分の育て方が悪かったと言っていたそうよ。」
「いつまで昔の因習に囚われているんだろう。」
「聞いて、お義父さんね、そのあとキョウちゃんの正当防衛が証明されて、ヒデさんたちに教えられたいきさつや、今のキョウちゃんの様子をお義母さんから聞いた後に言ったそうよ。やっぱり自分の育て方は間違ってなかったって。」
ボクは後ろめたい気持ちで一杯になった。両親の名誉も本家の名誉も傷付けたことには違いない。あえて言い訳じみた弁明をするつもりはないし、所詮は女がらみの事件である。どんな理由も特にこんな田舎では正当化されるとは思っていない。
「この機会に仲直りしてね。ユイのために。」
ボクは彼女を抱きしめ、黙ってうなずいた。
このあと、熱い口づけを交わしたことは言うまでもない。
暫くしてボクたちは『みさき』に到着していた。
お袋は先に座敷で待っていた。
「かあさん、お久しぶりです。今回は色々と迷惑をかけました。素直に謝ります。」
「いいんだよ。それよりもユイさんのこと、大事にしてあげてね。とてもいい子じゃないか。お前にはもったいないよ。父さんもユイさんに本当にこんな馬鹿で良いのかって聞いたけど、それでもこの子はお前について行くと言ってくれた。だったらそのことに関しては、もう何も言うことはないって。こっちのことは心配せず、その食堂の世話になった方々への恩返しだけを考えるようにって。ねっ、そう言ったのよねユイさん。」
「はい。確かに伺いました。お義父さんの優しさがあふれていた言葉だと思います。」
「さっきも言ったけど、ボクは結婚のことを許してもらいに来たんじゃない。もう決めたことだから報告に来ただけさ。お袋が理解してくれればそれでいいよ。」
「父さんもちゃんと理解はしてるのよ。ただ、お前がしでかしたことについては、もう少しほとぼりが冷めるまでは仕方ないわね。でも二人の顔を見て安心したわ。」
「ありがとう。さあ、腹も減ったし、なんか食べよう。ユイは飲む?」
ここは子供のころ誕生日のときにだけ連れて来てもらえる店だった。何を食わせるところかと言うとウナギである。ボクはウナギが大好きで、お袋は覚えてくれていたようだ。
「もう注文してあるよ。小さいころから大好きだっただろ。」
丁度いいタイミングで女将さんがビールとつまみを持ってきた。女将さんは三人のグラスにそれぞれビールを注ぐ。
「ユイさんも飲めるの?」
ユイはボクの顔をみた。
「いいよ。今日はボクなんかよりもユイの方がずっと気疲れしたろうから。」
するとユイはニッコリ微笑んで手元のグラスを飲み干した。ボクは肩の荷を下ろしてホッとしているユイのグラスにお替りのビールを注いだ。
お袋はユイの飲みっぷりに少し驚いていたようだったが、続いてうな重が卓に運ばれて来ると、ボクたち三人は揃って美味しいウナギに舌鼓を打つことになるのである。
お袋は今の暮らしぶりと食堂での様子を聞いて満足気だった。ユイの人柄も大いに気に入ってくれたようだった。
そして和やかな時間はすぐに過ぎていく。
お袋は別れる間際に用意していた胡瓜と茄子をボクに持たせようとした。
「重いからいい。」と言ったのだが、ユイが笑顔で「いただきます。」と言ったので、ボクは受け取らざるを得なかった。確かにバスに揺られてここまで持ってきたお袋の気持ちも無碍にはできないとも思った。
ボクたちは店を出ると、お袋をバス停まで見送って別れた。
ホテルに戻り、早速胡瓜を冷蔵庫に入れるユイ。
「冷えたら食べよ。折角お義母さんがくれたんだから。ユイは食べてみたいわ。」
ボクはいつでも彼女の笑顔に癒される。結果は少し違うが、彼女のために命を張ってきてよかったなと思うし、これからも彼女のために頑張ろうと思う。
「じゃあ、ビールでも買いに行こうか。」
ボクらはホテルを出て、近くのコンビニでビールを仕入れてくる。ウナギのおかげでお腹はすでに満たされている。すでに日も暮れていて、この時間からどこかに出かける場所などはない。ボクたちは仕方なく宿に戻り時間を過ごすしかなかった。
どう過ごそうかと思っていた矢先、ユイが素敵な提案をしてくれた。
「この近くに銭湯ってあるかな。」
今晩宿泊する宿は、ビジネスホテルのツイン。シャワールームはあるが、大浴場があるわけではない。そういえばアパートの湯船は狭く、なかなかのんびり湯につかることはないし、近くに銭湯もなくはないのだが、忙しさにかまけてしばらく行ってない。ユイの日頃の疲れを癒すためにも絶好の提案だった。
「ホテルのフロントに聞いてみよう。」
そして銭湯はあった。今どき流行のスーパー銭湯だが、この際何でもいい。目当ては大きな湯船、ただそれだけなのだから。
ボクたちは着替えだけを抱えて、ホテルのフロントに教えられたとおりに歩いて行く。ホテルから何分か歩くとスーパー銭湯があった。いかにも最近できたと言わんばかりの建物だった。受け付けもチケット制でフロントも広い。フロント前はロビーになっているので、テレビと新聞さえあれば何分でも待てる。
「目安は一時間ぐらいかな。でも何分でも待ってるから、好きなだけゆっくりしておいで。」
そう言ってボクはユイを送り出した。
ボクも久しぶりの広い湯船を満喫した。木更津でもこっちでも今までにない緊張感を体験した。しかし、ボクの緊張感よりもユイの緊張感の方が絶対にシビアだっただろうなと思うと、彼女に対する感謝しかない。そう思っていた。
ボクの風呂は基本的に烏の行水である。それでも長めに浸っていたつもりだったが、やはりロビーに出てきたのはボクの方が早かった。予定通り新聞に目を通しながらテレビを眺めていたが、そろそろウトウトしかけてきたとき、ユイが背後からボクの肩を叩いた。
「お待たせ。」
「おかえり。」
「随分待った?ゴメンね。」
「いいんだ。ユイが満足したなら。帰りはタクシーでも拾おうか。折角汗を流したのに、ホテルに戻るまでにまた汗をかいたら元も子もないよね。」
「ダメよ、そんなもったいないことしないの。汗をかいちゃったら部屋でシャワーに入ればいいだけじゃない。歩いて帰ろ。」
いい子だ。思わずその場で抱きしめたくなったが、公衆の面前での痴態は避けられるべきだった。
「そうだね、東京と違ってこっちの夜はそんなに暑くないから、歩いて帰ろうか。」
気温自体は東京とさほど変わらないが、多少涼しい風が吹いてくれる分、体感的には幾分か涼しい。
ホテルに戻ると冷蔵庫の中から胡瓜と買ってきたビール、そして塩を取り出す。風呂上りに水を少し飲んだだけなので、喉はカラカラ状態だった。
二人してプシュッと缶を開け、冷えた胡瓜に塩を振ってかぶりつく。満足げなユイの表情がボクの不安な気持ちを払拭してくれる。
「キョウちゃんのお義母さんが作った胡瓜、美味しいね。」
今のボクには彼女の笑顔だけが前を向いて歩くための唯一の支えかも知れない。その笑顔のおかげで、昨日から今日にかけてのボクの精神的疲労は一気に吹き飛んだ。
広い湯船とビールのおかげで、色んな疲れから解放されたボクたちは、この夜も静かに眠りにつくのである。
あとは晴れ渡る夜空がボクたちを静かに見守ってくれていた。
翌朝、ボクたちは晴天の澄み渡る青空の様に晴れやかな気持ちで東京へと帰る。
貰った休みは三日間。今日がその最終日である。食堂とヒデさんとにお土産を買って、電車に乗り込んだ。
東京に戻ったボクたちは、アパートに寄ることなく『もりや食堂』へと足を向けた。
まずは親方と女将さんに報告すべしと考えたからである。
「ただ今戻りました。」
ボクの声を聴いて女将さんが駆け寄ってくる。
「ああおかえり。で、どうだった?ちゃんと報告できたかい?」
「はい。ボクの親父だけはダメでしたが、ボクも許してもらおうなんて思ってないですから、報告だけはちゃんとしてきたつもりです。」
「ユイちゃんのお父さんには会えたかい。」
「はい。とてもいいお義父さんでした。殺されてもいい覚悟で行ったんですが。とっても理解のある懐の大きな人柄の方で、お義父さんやお義母さんのためにもユイを幸せにしたいと思いました。」
「おおげさなんだよ。そんなことある訳ないだろ。ユイちゃん、おいで。」
女将さんはユイを抱きしめてしばらく立ちすくむ。
「よかったね。これでおばさんも一安心だよ。」
「女将さん。色々と気を使ってくれてありがとう。これで何にも心配事はなくなりました。あとは一生懸命ここで働かせてもらうだけです。」
「まだ、今日一日休みなんだから、キョウちゃんと一緒に映画でも見に行っといで。明日からまた元気な顔をそろって見せてくれればいいから。」
ボクはお土産を女将さんに渡して、
「もう十分休暇をもらいました。部屋にはいったん帰りますが、夕方の仕込みからやらせてください。昨日はゆっくり寝られましたから。」
すると奥から親方が現れてきて、
「ワシが与えた休暇は三日間だ。それをきっちり使ってから戻ってこい。たかだか三日ぐらいの休暇をちゃんと使えないやつは、仕事もままならん。だから最後の半日、これも仕事だと思って時間を使って来い。これからもっとお前たち二人に頼らなきゃいかんのだ。ワシらが動ける間に休みをちゃんと活用してくれ。」
ボクたちは困惑したが、女将さんもお土産だけ受け取ると、ボクたち二人の背中を押して店から追い出した。
「いいから、後半日、遊びに行っておいで。昨日も一昨日も遊びには行ってないだろ?ちゃんと落ち着いた気持ちでデートしておいで。そしてどんなデートをしたか、後でちゃんと報告しな。わかったね。」
ボクたちは親方と女将さんの気持ちに感謝して、アパートに戻ることにした。
アパートに戻り、荷物を置いたとたん大きなため息をついた。
なんだかんだ言いながら、重い使命を果たした気持ちが大きかった。
ユイも同じ気持ちだったのだろう。やはり荷物をおろした途端、大きな溜め息をついていた。そして二人で笑ったものだ。
「折角もらった休みだし、有効に使おうか。何がしたい?」
「そうねえ。」
そう言って何かを訴えかけるような目線でボクを見た。しかし何も言わぬままユイはボクに抱きついてくる。
「買い物行かない?二人の指輪を買いに。ボーナスももらったし。」
ボクはなんて乙女心の分からない馬鹿なんだろう。何のために二泊三日もかけて千葉や栃木に行ったのか。両家の両親に結婚する報告をしに行ったのではないか。ボクの親父には最終的な返事はもらえなかったが、ユイの両親に認めてもらった以上、何も障害はなくなったのだ。
「なんだか現実味を帯びてきたね。緊張するよ。」
ボクはユイの匂いを確認するかのように抱きしめた。そしてそのまま押し倒すようにしてユイの上に覆いかぶさる。
黙って目を瞑るユイ。そのしとやかな表情にボクの狼が突然衝動を覚える。少し汗ばんだ肌は妖艶な色艶を放ち、ボクをいけない世界へ誘う。ユイの腕がボクの首へと回った瞬間、ボクのスイッチが突如入ってしまった。
夏のブラウスはすぐに脱がせることができる。スカートもしかり。あっという間にユイは下着だけの姿になってしまう。するとボクの狼はさらに野獣化するのだ。
若く美しい乙女の匂いはボクをボクでなくしてしまう。やや強引な行為もユイは黙って許してくれる。ボクがボク自身である時は、ジェントルのつもりだが、野獣と化したときにはワイルドな暴徒と変わらないかもしれない。
ボクは下着の上からやや強引にたわわな丘陵を弄ぶ。ときおり聞こえる吐息や甲高い声も獣にとってはただの誘引剤にしかならない。
「愛してる。」
心の底からそう思う。
「私もよ。」
ボクたちはそのことを正当化するために千葉や栃木に行ったのだ。そしてボクたちは認められた。そのことを二人だけで証明するかのように互いの体温を確かめあう。
口づけも互いに汗ばむ挨拶も、すでに知り尽くした範囲の中の出来事だった。ボクはそれでも新しい何かを探すかのように、ユイのやわらかな皮膚の上を滑るようにスキップしていく。そしてそのたびに木霊する心地よい女神様の呼び声がボクを奮い立たせるのだ。
ユイもボクを招くための準備を怠らない。これ以上にないほど熱せられた銃口は、それを鎮めるかのように祠の中へと導かれ、入念な女神様の審査を受ける。ボクはその間に洞窟の中の泉がどれほど溢れているのか確かめに訪れる。その泉は近寄ると平常心を失うほどの芳香が立ち込めている。わかっていながらもボクはそこへ踏み込んでしまうのだ。
やがてボクの銃口は女神様の審査の終了を待ちきれなくなり、途中退出することになる。そして平常心を失ったまま泉へと突入するのだ。ただ野獣と化してしまってはいけない。これはボクだけの確認事項ではない。ユイの確認事項でもある。時折ユイの瞳を、息遣いを、憤りを感じながら邁進しなければならない。
ボクは今後このうら若き乙女と人生を共にするのだ。そのための今を創ることが必要とされているのだ。ボクは自分自身にそう言い聞かせている。だから、ボクにとっては吐息の交換もそのための必要不可欠な儀式なのであると思い込んでいる。少なくともボクだけのためではないと。
今日もユイの体はボクのために最高の芳香を放ちながら、至極の甘美をもたらしてくれている。そしてその饗宴が終わりを迎えようとする瞬間、ボクは快楽の虜となるのであった。
ユイに告げられるまでもなく、ボクの放銃は洞窟の外で放たれる。ユイのご両親に許しを得た以上、順番が逆になってはいけないのである。そのことは固く自分に戒めていた。
我に返ったボクは思いの丈を込めて唇に挨拶をする。ユイも同じように挨拶を返してくれる。この瞬間が一番幸せなのかもしれない。
お互いを確認した戯れが終わると、ボクたちは出かける用意を始める。
今でもそうなのだが、ユイは着替える様子を見られるのは恥ずかしいと言い、隣の部屋で身支度を行う。ボクは至って平気なのだが、乙女心とはそういうものなのだろうと思う。
身支度が整うと、ボクたちは二人の未来をつなぐための買い物に出かけた。
新宿まで行けば老舗の百貨店が立ち並んでいるが、ボクたちは高円寺商店街の中の装飾品店「たから屋」を選択した。親方や女将さんの顔もある。そこで働いているボクたちが、地元の商店街を無視するわけにもいかないし、本音を言えば少しばかり負けてくれるかな、なんて思ったりもしたものである。
いい意味で予想通り、ボクたちの噂は装飾店にも伝わっていた。
「いらっしゃい。やあ、食堂のホープじゃねえか。」
ここのご主人もときおりウチの食堂を利用してくれている。ご主人の声を聴いて、すっ飛んで来たおばさんがいた。ここの奥さんだろう。
「どれどれ、うわさは聞いてるわよ。あんたがあの事件の人ね。」
のっけからストレートに問いただされて、ややドキッとしたものの、
「良かったね。正当防衛だったんでしょ。でも今時珍しく一心なのね。それでそちらがその彼女かしら。」
ボクは何と答えればいいのか解らず、ただ照れた感じで頭をかいていた。
「ウチの店に来てくれたってことは、やっと正式に結婚が決まったかな。」
「はい。一昨日、彼女のご両親からお許しをいただきました。日取りまではまだ決めていませんが、できるだけ早く結婚しようと思っています。それで・・・。」
「よし、じゃあオレが良いものを選んでやるよ。で、エンゲージリングかな?」
「はい。」
「仕事柄シンプルなものがいいのかな。」
「ボクは仕事柄シンプルなものがいいですが、彼女には制約はありません。」
するとユイがボクの意見を遮った。
「私も洗い物したりするのよ。いちいち外さないといけない指輪はいらないわ。だから私のもシンプルなものでいいのよ。石が付いてるのはもうキョウちゃんからもらってるわ。」
ユイの真剣な眼差しを見て、店の主人は意を決したように展示物の中から一点の指輪を取り出した。」
「決めるのはキミたちだが、オレはこいつをお勧めするよ。」
そう言って取り出したのは、シンプルながらも特徴のある、そして細かなデザインが施されたプラチナのリングだった。
「すてきね。」
ユイの第一声がそれだった。そして二声目の言葉でボクも唾を飲んだ。
「でも高そうね。私たちには分不相応よ。」
「キミが気に入ったのなら、足りない分はボクが何とかするよ。ユイの笑顔の方がボクには宝だ。何ならボクの分はなくてもいい。」
思い切ってボクが言ったあと、店の主人がボクたちに尋ねた。
「ところでお前さん方、親方に言われてウチに来たのかい。」
「いいえ、ボクたちは三日間の休みをもらいましたので、それぞれの実家に報告に行ってきました。用事が早く終わったので、仕事に行こうと思ったら、親方から与えた休みを有効に使って来いと叱られました。女将さんからも今日はデートしてくるように言われてるんで、おおかた映画でも見に行ってるもんだと思ってますよ。」
すると主人は奥さんと目を合わせてため息をつくようにも見えたが、なんだか嬉しそうにボクたちに尋ねた。
「指輪はウチで買うように言われただろ?」
「いいえ、どうせ買うなら商店街に貢献できるようにと思ってこちらに伺いました。ウチの食堂の宣伝も兼ねてね。ご贔屓によろしくお願いします。」
すると店の主人と奥さんはニッコリ微笑んでショウウインドウへ向き直る。
「ご予算は?本日は将来の商店街の夢を乗せて特別価格で奉仕させていただきます。」
ボクたちは目を見合わせた。すると奥さんが電卓をぱちぱちと叩いて見せた。
「あんたたち、頑張ってるってこの辺じゃ評判だよ。ウチの息子にも爪の垢を煎じて飲ませたいぐらいさ。目一杯勉強させてもらうよ。」
奥さんがボクたちに見せてくれた数字は、およそそんなはずのない数字だった。
ボクは驚いて、それでは頂けないという意味のことを言った。
「実を言うとな、お前さんとこの親方と賭けをしてたんだ。あの親方があんまりお前さんのことを褒めるもんだから、ちょっと羨ましくなってな。そうかもしれねえが、結局は自分たちのことを考えてるんだろって言ったらな、親方が言うんだよ。あいつはそんな奴じゃない。商店街のことだって考えてるはずだって。よし、だったらいっちょ賭けをしようじゃないかって言ったんだ。キミたちがウチの店に指輪を買いに来たら、最低でも半額にしてやると、そのかわりデパートなんか行きやがったら、オレのメシ代、三年間はただにしてみろってな。」
ボクはその話を聞いて驚愕していた。
「そしたら親方なんて言ったと思う。三年なんてケチ臭いこと言うな、十年タダにしてやるよって言いやがった。もちろんこの話は女将さんは知らないと思う。そういう約束だからな。」
すると奥さんが口を挟んできた。
「いや、女将さんも知ってるよ。あんたの話を聞いて、一昨日行ってきたんだ。この子たちの顔を見にね。そしたらそれぞれの実家に挨拶に行ってるっていうじゃない。それでウチの人と親方との賭けの話をしたのさ、そしたらこういうんだよ。それならウチの親方の勝ちだねって。だから女将さんも知ってるよ。あの女将さんとは付き合いが長い。あの人がこのことをあんたたちに言う訳がない。だからこの勝負、気持ちいいほど私たちの負けを認めるよ。だから、この値段は私たちの意地なんだ。黙って頷いておくれ。」
「ありがとうございます。しばらく、このお二人には特別サービス期間を設けないといけないな。」
「ははは、それよりもウチの息子の友だちなってやってくれよ。それと商店街を盛り上げていこうな。ははははは。」
ボクたちはまたまた親方夫婦に助けられたことになったのである。
指輪はボクたちのイニシャルを刻印してから、後日に受け取ることとなった。親方たちに見せるのはもうしばらく先になりそうだ。
思いのほか嬉しい買い物になったボクたちは、女将さんの言うとおり映画を見に行くことにした。
新宿のテアトルでは話題の映画が目白押しだった。ボクはSFかラブコメディーはどうかと言ったのにユイはホラーを見たがった。が、正直言ってボクには苦手なジャンルだ。
「どうしてもこれじゃないとダメ?」
って聞くと、まるでボクの弱点を発見したことが嬉しかったのか、頑としてホラー路線を譲らなかった。ボクは泣きそうな思いだったが、ユイがボクの手を引いて映画館へと連れて行く。ボクの歩調は入り口に近づくにつれて遅くなっていく。
映画のタイトルは「ドラキュラの棲む森」だったかな。こういう映画に臆病なボクは上映中ずっとユイの手を握っていたし、あまりまともにスクリーンを見る事さえおぼつかなかった。
上映時間が終了し、映画館を出たとたん、ユイがお腹を抱えて笑い出す。
「あはははは、キョウちゃん面白い。でもキョウちゃんがずっとユイの手を握ってくれるネタがわかったわ。」
「ユイは怖くなかった?ボクはああいうのダメだよ。」
「うふふ、臆病ね。そんなに臆病な人なのに、どこからあの店に乗り込む勇気が湧いてくるのかしら。」
「えっ?そ、それは・・・・・。窮鼠猫を噛むってとこかな。あはは・・・・。」
ボクは笑って答えるしかなかった。しかしそれよりも、笑って話せるほどにあの事件のことを過去の遺物としているユイが頼もしかった。
夜も更けていく中、そろそろお腹も減ってきた。ボクたちはアパートからほど近い回転すし屋に入る。二人だからカウンターでよい。ボクはイクラとツブ貝ととびっこが大好き。ユイはイカとマグロとウニが好き。二人で二十二皿を平らげた。
お腹も膨らんで、二人していつもの通り手をつないでアパートへと帰るのだが、その時のボクはまだ映画の余韻を引きずっていた。玄関のカギを開けるとき、ユイが不意に後ろから「わっ。」と言って驚かせる。ボクは思わず「ひいぃ!」と言って飛び上がる。
「あははははっ。」ユイの喜びようったらなかった。
休日最後の夜。
ボクたちは今夜も狭い風呂に入る。
ボクは先ほどの悪戯に反抗するように怯えてみせた。
「一人で入るのは怖いよお。」
「どうしたの急に?」
「だって怖い映画を見ちゃったし。」
「うふふ、しょうがない子ねえ。」
ユイもボクの悪戯に乗ってくれる。ボクも少しばかりユイに甘えて見せた。
その雰囲気のまま、今宵はベッドへと移動する。おのずとボクはユイの面影にどことなく母性を求めていた。ユイがどこまで合わせてくれたのかわからないが、ユイの豊かな丘陵にその母性を求めていく度に、彼女は優しくボクの頭を撫でてくれる。
しかし、それでいてユイの祠の中の女神の挨拶を求めるのである。やがていつものムードが流れてきたとき、ボクは必然的に狼となっていた。
ボクにはユイのぬくもりの中に母性を感じていたのかもしれない。それは聖母マリア様のような慈愛のぬくもりであり、その慈愛の笑みに自然と甘えられた。
ユイの匂いもボクをその気にさせる。彼女の匂いはずっと同じ匂いなのだが、ボクの気持ち次第でいくつもの表情を示してくれる。ボクは彼女の全てに夢中にならざるを得ない。
そしてユイはボクの気持ちをいつも察してくれる。この夜もボクの憤りが終焉を迎える頃、耳元でそっと「今日はいいのよ」と囁いてくれる。ボクが中で果てることにこの上ない喜びを覚えることを知ってくれているのである。
そんなとき、ボクは彼女をぐっと抱きしめて熱くなった体が次第に冷めていく感覚を確かめていくのだった。
次の朝からボクたちは日常の生活に戻っていく。
それでも違うことが一つあった。
ボクたちの将来について不安が全くなくなったのだ。
「おはようございます。」
ボクたちはそろって親方と女将さんの前に挨拶した。すると親方と女将さんがニコニコしてボクに微笑みを投げかける。
「キョウちゃん聞いたぞ、昨日の夜に来たんだよ、たから屋がメシを食いに。二人でがん首をそろえてな。」
親方の表情は笑みからニタリ顔に変わっている。
ボクは昨日の「たから屋」でのやり取りを思い出し、
「早いですね」
と答えた。
「ぼやいてたぞ、半額どころか原価割れで売ったのは初めてだってよ。」
「親方、ありがとうございました。」
「馬鹿野郎、ワシはワシのための賭けをしただけだ。金じゃねえ、ワシの人を見る目を賭けたんだ。礼を言うのはワシの方じゃ。助かったよ。ありがとな。」
すると女将さんもボクとユイの間に割って入ってきた。
「あたしもその話を聞いて、こりゃ絶対キョウちゃんの勝ちだなと思ったさ。だから昨日、二人して店に顔を出すなりあたしんとこ来てさ、今日お前たちがどこへ行ってるのか聞いたときにゃピーンと来たね。それであたしがさ、知らないよ、今日まで休みだからって追い出してやったんだって言ったら、さっき来たよっていうんだ。それでって聞き返したら、やっぱりあたしたちの言うとおりだったって。あたしゃ嬉しかったよ。まるで自分の事の様にさ。」
すると親方が女将さんの肩を抱くようにして話し出す。
「こいつったらよお。それを聞いた瞬間に泣き出すんだぜ。それを見た「たから屋」の女房がつられて泣きやがる。しかし、ホントにいい買い物ができたな。値段じゃねえ、信用を買ったんだ。何よりもいい買い物だったぜ。」
「はい。親方と女将さんのおかげです。ありがとうございました。」
「それで、どんな指輪を買ったんだい。早く見せておくれよ。」
するとユイが嬉しそうに女将さんに報告する。
「二人のイニシャルを刻印してから受け取ることになっています。二、三日後って言ってました。」
「そうかいそうかい。じゃあおばさんと一緒に取りに行こうな。こういうのは女同士で行かなきゃな。キョウちゃんはお留守番だよ。」
女将さんはそれこそ自分のことのように嬉しそうだ。
そんな親方や女将さんの顔を見るだけでボクは満足だった。
暫くはこうして幸せな時間が過ぎていった。しかし、人生というものはうまくいくばかりではない。ボクたちにもそんな時間が訪れ始めていた。
まだ誰も気づかなかった。
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