第8話 女将さんが戻ってくる朝
翌朝、ボクは少し早めに店に出勤した。自分たちでやらねばならない緊張感もあったのだが、昨晩のユイの言葉が気になって、親方の様子を見るためにも早めに出向いたのだった。
しかし、ボクたちの心配はとりあえず無用に終わっていた。
「おお、どうした?いつもより早いじゃねえか。」
「いや、親方が一人で寂しい思いをしてるんじゃないかと思ってね。」
「馬鹿言え。こっちは久しぶりの独身気分で、五月蝿いのがいなくて清々してたところだぜ。これもあと一晩かと思うと、そっちの方が寂しくなるじゃねえか。」
「とりあえず開店の準備はボクがしますから、親方はお見舞いの準備でもしてください。」
「ああ?そんなもの十分ありゃ出来るじゃねえか。今日、退院するわけじゃあるまいし。体が鈍ったら困るから、一緒にやるよ。」
親方は忙しい昼時まで店で体を動かした。女将さんの足りない分はボクと親方で手が空いてるタイミングを見つけて接客もした。口の悪い常連客は、親方が目の前に立っていてもユイを呼んで注文する旦那方もいたが、親方は笑い飛ばしてユイに任せた。
昼時が終わり、親方が出かける準備をしている間に、ボクは女将さん向けのお弁当を作っていた。さすがに鱈腹食べられるほどとはいかないが、リクエストの玉子焼きと女将さんが好きなきんぴらごぼうとナポリタンを少々。小さなお弁当箱に詰めて親方に手渡した。
「すまんなキョウちゃん。わがまま言って。」
「お安い御用ですよ。ボクが世話になったことを思えば、まだまだ万分の一も返せてないですから。」
「くだらんことを言うな。お前はもうウチの息子同然なんだから。」
親方はお弁当箱を鞄に詰め込むと、意気揚々と出かけていった。
夕方の繁忙時間までは数時間。この間に次の仕込みと準備を行う。意外と食堂経営は手間がかかる。二人で行っていた作業も独りになると、単純に作業量は倍になる。ユイがここで修行してくれていたおかげで、何割かは手伝ってもらえたりするのだが、力の要る仕事はおのずとボクの分担になるのだ。
でも、二人で同じスペースで同じ仕事が出来るのはとても楽しい。時間の経過を忘れるほどに。これならやっていけるかも。そう思ったきっかけとなる日でもあった。
初めてとなる二人だけの賄いを食べ終わり、気合を入れて開店時間を迎えた。
親方夫婦のいない夜の書き入れ時は、目が回るほど忙しくなる。ユイのおかげで毎日来てくれる客が増えたはいいが、その分てんてこ舞いになっていく。これを何十年と続けてきた親方夫婦に改めて敬意を表する思いである。
注文も料理もいくつか間違えた。その度に客に謝っているユイを見ると胸が締め付けられる思いだ。
やがてその忙しさがピークを迎えようとしているとき、親方が病院から帰ってきた。
まず親方が驚いたのは、店の繁盛さだったそうだ。もちろん、親方夫婦がいないことを誰も知っていたりするわけではないのだが、思いの外、客がそぞろわんさかいることに驚いたらしい。実際には手際の悪いボクたちのせいで、客の回転が遅いだけなのだが・・・。
親方はいい様に勘違いしたまま白衣に着替え、ユイを手伝い始める。ときおりボクとも交代してフライパンを振る。すると客の回転が普段どおりに回り始めて、怒涛の喧騒タイムは徐々に緩和されていった。
営業が終わり片付けを始め出した頃、親方がボクたちに今日の様子を聞き始めた。
「どうだった、二人でやってみた店は。」
「いやあ、まだまだだと思いましたよ。」
「そうね、途中で目が回りそうだったわ。」
「このところユイちゃんのおかげで客が増えたからな。でも多少の失敗ぐらいじゃビクともしないようにならなきゃな。オレだって始めたころは失敗ばかりだったからな。うどんだって言うのにそばを出したり、トンカツだって言うのにカレーを出したりな。まずまず、お前たちは良くできてる方だよ。」
親方の若い頃の失敗談を聞くのはこれが初めてだったが、それを聞いてボクは少し安堵したことは間違いない。
「それはそうと、女将さんの様子はどうでしたか?予定通り明日は退院できそうですか?」
「ああ、キョウちゃんの作ってくれた弁当、すごく喜んでたぞ。退院も予定通りできそうだし。午前中のうちに行って来るよ。」
「じゃあ、明日の大忙しは昼時だな。今から覚悟しとかなきゃ。それはそうと今晩、親方一人で大丈夫?一緒に泊まってあげようか?」
「馬鹿言え。今日だけが残された独身の夜なんだ。一人にしておいてくれ。ゆっくりテレビでも見ながらのんびりするから。でも、ありがとうな。」
ボクたちは親方を店に残してアパートに帰ることとなった。
慌しい初日が終わり、ボクたちはクタクタになっていた。今宵も忙しくなる明日のために、大人しく夜を過ごすことになるだろう。
などと思ってベッドに横になり、「おやすみ」って言った途端、ユイの静かな寝息がすぐに聞こえてきた。今日は相当疲れたのだろう。ボクはもう一度「おやすみ」と言って彼女のホッペにキスをした。明日もよろしくねっていう思いを込めて。
そして女将さんがいない二日目の『もりや食堂』が始まる。
午前中のうちに親方も病院へ出かけたので、昼の賄いからボクとユイの二人だけである。昨日の忙しさを覚えているだけに、すでにして緊張し始めている。
「さて、今日も頑張るぞ。」
と息巻いていると入り口の戸が開く音がした。誰だろうと思って覗いてみると、なんと圭ちゃんだった。
「ちーす!女将さんが入院だって?お袋が手伝いに行けって言うから来てやったぞ。ユイちゃんの顔も見たかったしな。」
「そっちも昼間は忙しいだろうに。」
「今日が退院なんだろ?親方もいないだろうし、二人で昼は大変だろうからって。いいから手伝ってやるよ。」
「ありがとう。とりあえず賄いを食べてからにしようよ。」
「それはありがたい。またユイちゃんと一緒のテーブルで食事が出来るなんて、まるで夢みたいだよ。」
「うふふ。大袈裟ね。いい人見つけるんでしょ?」
「なかなかいないよ、ユイちゃんみたく可愛くて素直でよくできる女の子なんか。」
「おだてても何もでないわよ。はいっ、そこに座って。」
まさか圭ちゃんが来てくれるとは思わなかった。それにしても『織田』の女将さんの計らいが嬉しかった。
しかも予想通りに昼はてんやわんやだった。可愛いユイの人気は高まるばかりである。
中には面白おかしくランチを楽しむ常連さんがいて、うどんを食べた後にすぐさま親子丼を注文し、ボクが作るのを失敗しないか見下ろしている。質屋のマサやんがそうだった。
それでも帰る間際にはカウンター越しに声をかけてくれる。
「もう大丈夫そうだな。そろそろ親方から暖簾もらっちまえよ。」
そう言い残して去っていくのである。
「キョウちゃん、客筋もいいね。常連さんもちゃんと洒落がわかってるじゃない。」
「いい人だよ。そこそこ通ってくれてるし。どのみち今は試練の時さ。やるしかないよ。」
そこそこの客が切れるのがおおよそ二時頃。片づけまで手伝ってもらってあっという間に三時になろうとしていた。
「今日はありがとう。どうせ帰ってすぐに仕込みだろ?だったらウチでご飯食べて帰ってよ。おかわり自由にするからさ。」
「それはありがたい。どうせ今日の賄いも予想ができるオカズばっかりだからな。なんならここのメニューから選んでいいか?」
「もちろんいいよ。何でも言って。」
「じゃあ、キョウちゃんが作ったカレーとユイちゃんが作ったきつねうどんをおくれ。」
「えっ、それってなんか試してる?」
「いや、素直に食べたいと思っただけだよ。特にユイちゃんが湯がいてくれるうどんをね。カレーだってキョウちゃんのオリジナルだろ?」
「カレーはね、少しだけ香辛料変えたんだ。親方の了解はもらってるよ。」
「そうだろうと思った。キョウちゃんが一番最初に手をつけるのはカレーだろうと思ってたよ。だから、早く食わせておくれよ。」
「はいはい。」
ボクはカレーの鍋に火を入れて、ユイは冷蔵庫からうどん玉を出してきて、湯が満たしてある大なべにくぐらせる。カレーもうどんもわりと手軽に出来るものばかり。手間がかかるものを遠慮したのかなと思った。
「はい、お待ちどうさま。」
運んだのはユイだった。
「ああ、夢のような配膳。ユイちゃんが作ったものをユイちゃんが運んでくれるなんて。」
「まだ言ってるよ。ついでにアーンとかしてあげたら?」
「い・や・よ。」
「まあいいか、いただきまーす。」
圭ちゃんはじっくりと吟味しながらカレーを頬張る。ユイの作ったうどんは顔をほころばせながらすすってくれる。確かに『織田』ではなかなかない組み合わせの賄いかもしれないなと思った。
「ごちそう様。旨かったよ。さすがキョウちゃんだな。またいつかこのカレーのレシピ教えてもらいに来るよ。ウチもそろそろメニューの改訂が必要かなと思ってるし。」
ボクは圭ちゃんと深い握手を交わし彼を見送ろうとした時、丁度扉を開いた親方と女将さんが帰ってきた。
「ただいま。」
女将さんの元気そうな声が聞こえた。
「おう、圭太君。今日はありがとうな。おかげでコイツとゆっくりデートができたよ。」
圭ちゃんの姿を見つけた親方がすかさず声をかけた。
「何でボクが来てるのを知ってたんですか?」
「今日、お前さんとこのお袋さんが来てくれてな。店には息子をヘルプに行かせてあるからゆっくりして帰れって言うもんだから。折角だからよそで食事して帰ってきたのさ。」
「お帰りなさい女将さん。」
ユイはすでに女将さんに抱きついている。
「心配かけたね。もう大丈夫だよ。明日からまた一緒にやろうね。」
「はい。」
無事な姿の女将さんを見たユイの顔は本当に嬉しそうだった。
「キョウスケ!こっちへおいで!」
そしてボクに声が飛ぶ。呼ばれて飛んでいくボクなのだが、女将さんはそのボクをいきなり抱きしめる。
「よく頑張ったようだね。ウチの人にも気を使ってくれて。お弁当、美味しかったよ。」
その様子を見ていた圭ちゃんは慌てた様子で帰り支度を始めた。
「本当の親子より仲がいいみたいだね。オレも帰って手伝いしなきゃ。じゃあまたね。」
「うん、ありがとう。」
圭ちゃんは、そろそろオレンジ色になりかける夕刻の西の空を追いかけるように帰って行った。
その日の夜は、女将さんが退院したことを聞きつけた商店街のお歴々が揃って顔を出してくれる。おかげで昨日よりも数倍の忙しさだ。
親方はもちろん厨房に入ってくれるが、女将さんはスペシャルゲストであるが如く、店の中央のテーブルにどっしりと構えて座っていた。そしてお歴々のお客さんが順繰りに挨拶がてら一言ずつ言い残して、或いは女将さんに説教されてから自分の席に移るのである。
そして九時も過ぎたころ、ガラガラと戸を開けて入って来たのはヒデさんだった。
「こんばんは。女将さん退院おめでとうございます。」
そう言って手に持っていた花束を女将さんに差し出した。
「ありがとうよ。ヒデさんはなんて気が利く男なんだい。うれしいねえ。さ、こっち来て飲みな。キョウちゃん、ヒデさんが来てくれたよ。」
女将さんがボクに聞こえるように大きな声で叫ぶ。するとユイがすかさずヒデさんの注文を聞きにいく。
「随分と慣れてきたみたいだね。もう押しも押されぬここの看板娘ってとこかな。」
「ありがとうございます。で、何にしますか?」
すでに多くの客には酒が入り、中には酩酊一歩手前の客までいる。厨房の中へもお誘いの声がかかっていた。
「うんそうだな。ミックスフライとチキンカツにしようかな。」
「はい。ミックスフライとチキンカツお願いしまあす。」
このところ、多少店内が混雑していても、ユイの声がちゃんと厨房の中まで聞こえるようになった。ボクも負けずに声を出す。
「はいよおー。」
親方がボクが仕込んだフライとチキンを揚げている間に、ボクはタルタルを作っていた。そう、あの時のレシピのタルタルである。
今の今までこの店ではまだ提供していなかったが、今夜はヒデさんがいいタイミングでチキンカツを注文してくれた。
揚げたてのフライを皿に盛り、タルタルをそえて盆にセット。それをユイが運んでいく。
「お待ちどうさま。」
すでにヒデさんのグラスには女将さんから注がれていた何杯目かのビールが半分ほどなくなっていた。
「ついでにユイちゃんにも注いでもらおうかな。」
そういうヒデさんの鼻の下はかなり伸びている。しかし、目ざといヒデさんはチキンカツの隣にあるタルタルにすぐに目をつけた。
「キョウスケ、黙ってオレを試すつもりか。なんだこの二種類のタルタルは。」
「さすがですね。一つは普通のタルタルです。もう一つは『織田』で圭太君と一緒に作ったタルタルです。」
するとヒデさんはニヤニヤしながら、
「知ってるよ。オレがあれから『織田』に行ってないとでも思ってたのか。お前の働き振りをちゃんとリサーチしてきたよ。そんとき親父さんに聞いてきたのさ。」
この人は敵に回すと恐ろしいかもしれない。でも味方にいるとなんて頼もしい人なんだと思う。
「うん。聞いていた通りだな。これはチキンカツに合うぞ。明日からこの店でも出せば。」
ヒデさんの声が聞こえたからか親方も厨房から顔を出してきた。ヒデさんの評価に親方も女将さんも興味津々だ。
「それはタンドリーチキンがイメージだろう?」
と親方が言うとヒデさんは少し驚いた様子で、
「さすが親方だね。そうらしいよ。『織田』の連中がそう言ってたよ。それにしてもインドの料理まで知ってる親方もすごいね。」
「馬鹿にするんじゃないよ。オレだってまだまだ勉強中だからな。よし、明日からチキンカツにはこれをつけよう。キョウちゃん、たっぷり作っておいてくれよ。せいぜい宣伝するからな。」
さあ、ここからは本格的な快気祝いの宴会だ。
親方もボクもあらかたの料理を出してから白衣を脱ぐ。それでもボクとユイの酌巡りには余念がない。今夜のビールは女将さんの奢りと言うことになるのだろう。女将さんがどんどんビールを持って来いといい、次々と栓を抜いては注いでいく。
気がつけばユイもグラスを傾けていた。
テーブルの一角ではそのユイを相手にして飲み比べが始まってしまった。挑戦してきたのは魚屋のタカさんだった。タカさんが勝てばユイを膝の上に乗っけて酌をする。ユイが勝てば、明後日一番のマグロを提供する。そんな賭けまで成立させようとしていた。
ユイはボクと女将さんに許しを請うサインを送っている。ボクが止めさせようと立ち上がった途端に女将さんがボクを止めて、ユイをけしかける。
「ユイちゃん、コテンパにしちまいな。あんた、戸棚の奥のあれを持ってきておくれ。」
そういわれて親方は戸棚の奥のウイスキーを持ってきた。一本はスコッチでもう一本はバーボンだ。キープ用のボトルだがまだ封は空いていない。
ヒデさんも面白そうにニヤニヤと笑っていた。そう、ヒデさんも知っているのだ。ユイがウワバミだということを。
周りの客に囃し立てられ、タカさんも引くに引けなくなったらしい。猪口で一杯ずつの飲み比べが始まってしまった。
が、一時間も経たぬうちに勝敗は決してしまった。早いピッチもなんのその。一本目のボトルが空になるころ、タカさんから白旗が揚げられた。ときおり「ヒック」といいながらも、まだまだユイはケロッとしている。
「もうらめら。ユイちゃん、らんでこんらにつおいのお。」
へべれけになったタカさんは、マグロの約束を果たすべく、千鳥足で帰ることになるのである。それを見たボクは女将さんに尋ねた。
「もしかしてこうなるのわかってた?」
「ああ、アイツがそんなに飲めるの見たことないもの。キョウちゃんなら勝てないかも知れないけど、相手がユイちゃんで賭けが成立するならウチの勝ちは目に見えてたからね。これでユイちゃんの取り分は二万円を下らないだろうね。」
翌々日、タカさんが持ってきたその日一番のマグロときたら、二万円どころの代物ではなかった。ざっと十万円は下らないだろうと思われる塊だ。しかも大トロまで付いている。
「賭けに負けたんだ。潔く認めるよ。女将さんの快気祝いも含めてな。これで落とし前はついただろ?あわよくばユイちゃんを膝の上に抱っこできると思ったんだけどな。」
これだけ露骨な下心が入り込んだ賭けもあったもんだと呆れ返った。
話を宴会の夜に戻すと、フライを齧りながらビールを飲んでいるヒデさんの前で女将さんがなにやら相談していた。ボクはそのとき、夜も再訪問してくれていた質屋のマサやんと乾物問屋のご隠居に酌をしていた。ボクの釈放に関して面倒を見てくれた人たちだ。ボクが酌をしないわけにもいかない。
女将さんとヒデさんの相談がまとまり、ユイとタカさんの飲み比べに決着が付き、そろそろお開きの時間になるかと思った矢先、ボクとユイはヒデさんに呼ばれた。
「さっき女将さんと話してたんだが、お前たちはいつになったらユイちゃんの実家に挨拶に行くんだ?」
「いや、そろそろかなとは思っていますが。」
「それでな、女将さんも親方もそろそろ健康的な心配がある。この店にはここの娘さんたちが使っていた部屋が三つ空いている。そこでだ。ユイちゃんの実家への挨拶が終わったら、今のアパートを引き払って、この上に住むっていうのはどうだ。」
ボクとユイは目をパチクリしながら聞いていた。
「今回は、みんながいたから良かった。しかも軽い症状だけだった。しかし、次回も同じとは限らん。そして誰が二人の面倒を見るんだ?それにどうせなら、この上に引っ越してきた方が、家賃もかからんで済むだろう。どうだ?」
「それって女将さんが承知してるんですか。」
「承知どころか、女将さんからの申し出だよ。親方も同意見らしい。昨日の晩、それらしいことを親方に言ったんだろ?それを聞いて今日の昼、飯を食いながら親方と女将さんがそのことについて相談していたらしいんだ。『織田』の女将も交えてな。」
ボクとユイは互いに目を見合わせるだけで、返答のしようもなかった。
「もちろん、今すぐ返答することはない。まずはユイちゃんの実家に行くことが先決だ。それが終わったら、どうするかをちゃんと考えればいい。わかったか?」
「はい。」
ボクとユイは素直に返事をした。
なんだかボクたちとヒデさんが真剣な話をしているのを察したのか、いつの間にかボクたちの周りには人の輪ができていた。
「おい、早く挨拶に行けよ。」
「ちゃんと挨拶できるのか。」
「反対されてもユイちゃんを置いてくるなよ。」
色々な罵声が飛んでいる。
これでボクの木更津行きのタイミングがほぼ決定したようなものだった。
輪の向こうでは親方と女将さんがニコニコと微笑んでいた。
その夜、飲み比べに勝ったとはいえ、酒の匂いがプンプンするユイと手をつないでアパートへ帰る。そろそろ梅雨も間近だ。風も湿り気を帯びていた。
さすがに半そではまだ早いかもしれないが、すでに冬物の衣類は押入れの奥に片づけられている。従ってこんな夜は風呂を沸かさずにシャワーで済ませるのだ。酔ってはいるが、酩酊にはほど遠いユイは今日も一緒の入浴を誘ってくれる。
熱めの飛沫は、やや飲み過ぎて火照った体を醒ましてくれると同時に、スチームで浴室内を満たしては、あっという間に適度な温度に変えていく。次の瞬間には、互いの温度があればいい程度になっているのである。
やがてボクたちは飛沫を浴びながらも皮膚と皮膚とをこすりあいながら互いのシャンプーで髪を洗う。そのあとはスポンジで全身を洗いっこ。少し酔ってるユイはボクを浴槽に座らせて、ソープごっこを始めてくれる。いつもながら祠の中は温かくて気持ちいい。
「キョウちゃん。今日は中でいったらダメな日なの。だからね。」
そう言ってユイはそのままボクを果たせようとしている。
「無理しなくていいよ。」
「いいの。今日はこのまま寝ちゃいそうだから。」
祠の中の女神様は、絡みつくような抱擁でボクを痺れさせてくれていた。やがて祠の奥へと吸い込まれるような誘いと早くなる振動がボクのタガを外した。
その瞬間ボクは無意識のうちに、さらに自分の方へ引き寄せるようにユイの頭を抱えていた。ボクの流動は祠のずっと奥へと流し込まれ、その後でも女神様はボクの熱い剣を抱擁してくれていた。
余韻が治まるとボクはユイの体を抱き寄せて、「愛してる。」と囁いた。
ユイはただ「うふ。」っと言っただけで、ボクに唇をあわせてくれる。
シャワーは何も言わずに、熱い飛沫でボクたちをずっと温めていてくれた。
慌しい一日だったが、ボクの最後はユイに癒されて終えることができた。後はユイをそっと寝かせてあげることだけが、残されたボクの使命だった。
そして初夏の夜は静かに沈んでいく。
翌々日の昼前。
約束どおりタカさんがマグロを持ってきた。前にも言ったとおり立派なマグロだ。
「さあ、煮るなり焼くなり勝手にしてくれ。それとオレはビールとアジフライね。今日のアジもマグロに負けねえやつだから、きっちりフライにしてやってくれよ。」
「タカさん、いいんですかこんな立派なもの。」
「仕方ねえよ。正直、下心はあったしな。スケベな気持ちを持った罰なんだよ。素直に懺悔するから、素直に受け取ってくれ。」
「ありがとうございます。早速これも刺身にしますよ。」
女将さんもタカさんの隣に座って説教を始める。
「あんた、ユイちゃんを膝の上に乗っけて何しようとしてたんだい。なんならアタシが代わりに座ってあげようか。」
「勘弁してくれよ。でもさ、男ならあんな可愛い子、膝の上にぐらい乗っけたいと思うのが普通だぜ。」
「ほう。今の話、みっちりとアンタのカミさんにしてやってもいいんだけどなあ。」
「おいおい、だからちゃんと詫びの献上品を持ってきてるじゃねえか。もう二度と勝負したりもしないよ。あの子には絶対勝てっこねえってのがわかったからな。」
タカさんのおかげでこの日の昼から特別ランチが設定できた。おかげで繁盛したことは間違いない。
しかも一昨日の夜、あの席に居合わせた客たちは、タカさんがどんなマグロを持ってくるのか、順繰りに様子を見に来たもんだから、結果的に夜の部は再び盛況な賑わいとなったのである。
その夜、ヒデさんも様子を見に来た一人であった。
「やあ、これはすごいな。こういうイベントを続ければユイちゃんの一人勝ちだから、『もりや食堂』も大もうけできるんじゃないの?」
「そんなことしたらユイの体が持ちませんから、やりませんよ。」
「ヒデさん、そんなのイヤよ。もうやらないわ。」
「あははは、冗談だよ。しかしこのマグロは旨いな。」
すでにヒデさんの前に出されていた刺身盛りは半分が無くなっていた。今宵も楽しい宴は遅くまで続いた。
それでも梅雨の季節は、やや客足が遠のく。
普段どおりに昼ごはんや晩ごはんを食べに来る客はそうでもないが、特に夜の家族連れが圧倒的に減るのである。そういったときの仕入れこそが難しい。材料を廃棄しなくてもいいように、期限の迫った材料は賄いで食べることになるのだ。
ある日の賄いもそんな料理だった。
ユイは餃子の皮と納豆を目の前にしてネギを刻み始めていた。納豆も大まかに刻んだら、ネギとあわせて大きめの皿でゴリゴリとかき回していく。スクランブルに炒めた玉子も混ぜ込んだら、それを餃子の皮で包んでいくのだ。賄いにしては手の込んだ料理になってしまったが、それを焼き餃子同様にして今日の昼のおかずとなっていた。
「ユイちゃんもかなり料理が上達したねえ。これは旨いぞ。」
「面白いもんを作るねえ。これだとオカズっていうよりもツマミの方があいそうだね。夜のビール用に少し残しといてね。」
餃子の皮がガッツリあったので、テキパキと数十個は包み終わっていた。残ったら油で揚げようと思っていたらしい。
「ボクの分も残しておいてもらおうかな。」
「あんたの分は自分で作りな。これぐらいできるだろ。」
「ユイが作るからうまいんじゃないですか。」
「馬鹿、その辺のオッサンたちと同じこと言ってるんじゃないよ。」
今日も賄いご飯の時間は和やかに過ぎていた。
そんなある薄曇りの昼時を少し過ぎた頃、見覚えのある男が店の戸を開けた。
「いらっしゃいませ。」
と言ったものの、女将さんの動きが止まった。
「ああ、いつかのお兄さん。どうぞそちらにおかけ下さい。今日はどのようなご用件で。」
「例の兄さんが戻って来てるってヒデから聞いたもんだから様子を見に来たんだ。ちょうど近くを通っていて、しかも昼メシ時だったしな。」
そう、彼はホストクラブの店長米倉氏だった。
「ユイちゃん、キョウちゃんを呼んでおいで。」
女将さんはユイにそういうと、厨房へボクを呼びに来た。
「キョウちゃん、お客さんよ。」
「誰?」
「キョウちゃんを助けてくれた人。」
ボクは誰だろうと思い、女将さんのそばで座っている男に挨拶に行った。
「これはこれは、その節は大変お世話になりまして。おかげ様で無事に暮らしています。」
「かっこいいじゃねえか。どうだい、そろそろウチの店に来る気になったかい。」
「冗談でしょう。ボクには勤まりませんよ。」
「まあいい、いつでも受け入れてやるから。ところで今日は相談に乗ってもらおうと思って来たんだ。今度ウチでちょっとしたパーティをやるんだけど、その料理を見繕ってくれねえかな。」
やや驚愕とも思える申し出だった。そこは新宿でも有名なホストクラブ。ウチはしがない町の大衆食堂である。特に名物もなく、メディアで紹介されることもない。そんなボクらに何ができるというのだろう。
「ウチは大衆食堂ですよ。どこにでもある肉じゃがや野菜炒めを普段どおりに提供する店です。ちょっと無理がある様に思いますが。」
「ところがだ。こんど団体で来る客がアメリカ人のセレブ集団なんだよ。食事はどこかの料亭に行くらしいが、それも食い飽きた。庶民の味を堪能させろと言うんだ。しかも酒場へ繰り出すのは面倒だから、お前の店で用意させろときたもんだ。それでお前さんの顔を思い出したって訳だよ。ヒデには了解もらってるけどな。」
ボクは親方の顔色を伺った。親方は女将さんの顔色を伺っている。その後女将さんはユイの顔を見ていた。するとユイが思い切った発言をする。
「新しい献立は作りません。今ここでできるもの、それでいいですか。」
その質問は〝受ける〟ことが前提の問いかけである。
「さすが女は度胸だな。もちろんそれでいいぜ。メニューは前もって相談しながら決めよう。ニッポンの大衆の味ってやつを思い知らせてやろうぜ。」
一瞬でやることが決定してしまった。
「時期は再来週の木曜日午後十時。平日だから丁度いいだろ。助かったぜ。謝礼は弾むからよ、十人分、頼んだぜ。運搬はウチの若いもんにさせるから、軽トラ一台もありゃ足りるだろ。ははははは、再来週が楽しみだ、ははははは。」
米倉氏はその後、ウチの焼きサバ定食を満足げに平らげて帰っていった。
一瞬の嵐が通り過ぎたような感覚だった。
「良かったなキョウちゃん。いい仕事が舞い込んできて。」
親方の顔はいつになくニコニコしている。
「さすがはユイちゃんだね、臆することなく条件提示で一発サインってとこだね。」
女将さんもユイを持ち上げてボクの背中を叩く。
確かに今ある献立で済むなら大きな問題はない。しかし、本当にそんなものでアメリカのセレブたちは喜ぶのだろうか。
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