第7話 卒業の朝と生活が始まる朝
翌日、ボクは『織田』での最後の朝食をみんなで食べ、最後の礼を述べた。
圭ちゃんはボクにタルタルのレシピをくれた。二人でこのタルタルをつないでいこうと約束し、ボクたちの友好の証しとした。
ボクは『織田』を出たその足で『もりや食堂』へ向かう。
季節はすでに春を迎えており、青々とした新芽がいたるところで芽吹いていた。気がつけば桜の季節さえ、すでに終わっている。そう思えばあっという間の三ヶ月だったかもしれない。
久しぶりの『もりや食堂』の暖簾である。扉の引き手にかける手が少し震えている。
「ただいま。」
ボクの第一声は平凡だったかもしれないが、精一杯の挨拶だった。
すぐに駆け寄ってきたのはユイだった。まだ開店前だったが、親方夫婦が目の前にいるにもかかわらずボクに抱きついてくれる。
「お帰り。やっと戻ってきてくれたのね。」
「ボクにはここしか戻る場所がないからね。」
「ここって?」
「ユイがいる場所さ。」
「うふふ。」
すると店の奥からやっと女将さんが現れる。
「いつまでイチャイチャしてるんだい。」
「親方、そして女将さん。角田恭介、本日をもって『もりや食堂』へ帰ってまいりました。より一層のご指導をよろしくお願いします。」
「ああ、お帰り。ユイちゃんもこの三ヶ月間、色々なことを頑張ってくれたよ。それもみんなお前さんと一緒になるためだ。」
「はい。」
「ところで、ユイちゃんのご両親への挨拶はいつ行くんだい?」
「もう少しここでの自信が付いてからにします。出来るだけ早くに。」
「そんな悠長なこと言ってていいのかい。ユイちゃん、ちゃんとコイツの尻を叩かないとダメだよ。」
「女将さん、私がまだ何も話せてないんです。母にも去年の冬以来、会ってないですし。もう勘当されてるのも同然だから、私はいいって思ってるんだけど、キョウちゃんがちゃんとしなきゃって言うから。」
すると女将さんは大きくうなずいて、
「そりゃそうだよ。お前さんたちを預るあたしの身にもなってくれないと。ちゃんとみんなに祝福してもらって、な。」
そこで親方がようやく顔を見せる。
「おかえりキョウちゃん。待ってたよ。」
「親方、お待たせしました。今日からまた一緒にお願いしますね。」
「もちろんだ。今日から少しは楽が出来ると思うと助かるよ。とりあえず腹は減ってないか。そろそろ早めの昼メシ時だろう。久しぶりにみんなで昼メシを食おうよ。」
「そうだね。よし、ここはイッちょあたしが賄いしてやるよ。」
そういうと女将さんは厨房へ向かう。それを追う様にしてユイが後に続く。ボクはお茶と箸を用意し、親方はデンと座っている。親方は久しぶりだと言ったけど、そもそも、この店で四人だけで賄いを食べるのは初めてなのである。けれど、まるで今までもずっとそうしてきたかのような。そんな雰囲気だった。
女将さんは野菜炒めと肉じゃがを大皿で持ってきた。ユイはご飯と味噌汁の担当だ。
「いただきます。」
一見、老夫婦とその息子夫婦に見える光景。なごやかな昼時。そんな言葉が当てはまる四人の団欒であった。
なごやかな団欒の背景と共に賄いを食べた後、ボクは新たな気持ちで店のエプロンを腰に回し、白衣に袖を通す。『もりや食堂 角田恭介』が始まるのである。
食堂に戻ってまず気になったのがメニューだった。ボクがいたときにはなかったアジフライのメニューがあるのだろうかと。
それはあった。今はアジフライとサケフライだけはユイが作っているらしい。非常に評判も良いようだ。
「これからは、アジフライもサケフライもエビフライもキョウちゃんが作るんだ。もちろんトンカツだってお前が作るんだぞ。」
「はい。」
これでボクは『もりや食堂』の全てのメニューをこなすこととなった。ユイはボクが戻ってきてからの仕事が厨房からテーブルフロアへ、接客が主な仕事へと変わる。一般目線から見ても可愛さ有り余るユイの接客姿は、瞬く間に多くの客を呼んだ。特にオジサン連中には抜群の評判で、中にはユイの笑顔が見られるだけで良いという八十を超えたお爺さんもいた。
女将さんのメインの仕事は混雑時を除いては常連客の話し相手となっていた。
あまり話し上手とはいえないユイにとって、女将さんは絶好のお手本となっている。
常連客の中にはボクが戻ってきたことを知ると、早速腕前を試そうとアジフライやサケフライを注文してくれる。
しかし中には、
「オレはやっぱりユイちゃんが作ってくれた方が旨いって感じる。」っていう男性陣の客がいるが、それはそれで仕方がない。ボクだって客の立場なら同じことを言うかもしれないと思う。
ボクが復帰したその日の夕方、早速ヒデさんが様子を見に来た。
「キョウスケお帰り。女将さんから連絡をもらったから早速見に来たぞ。向こうの店はどうだった?ちゃんと教えてもらえたか?ユイちゃんよりも上手く出来るか?」
興味津々で矢継ぎ早の質問攻めだ。それだけ気にしてくれていたと思うと目頭も熱くなる。
「折角だからアジフライ定食にしてもらおうかな。それとユイちゃん、ビールもね。」
「はい。アジフライ定食ひとつぅ。」
「はいよぉ。」
ボクとユイのキャッチボールが始まる。厨房越しのカウンターを挟んで、笑顔で目線を合わせるキャッチボールである。心地よいユイの声が響き渡り、いつもより店内が華やかに彩られる。
「アジフライあがったよ。」
「はぁい。」
ボクが作ってユイが配膳し、ヒデさんが食べる初めてのアジフライ定食。
「ははは、上手く出来てるよ。ユイちゃんが作ってくれた方が嬉しいけどな。キョウスケ、これからが本番だぞ。親方と女将さんに感謝しろよ。」
「はい。ヒデさんにもね。」
「オレにはいいよ。ユイちゃんにお友達を紹介してもらうだけで。」
「ヒデさん、まだそんなこと言ってるんですか。誰も紹介なんかしませんよ。」
こうしてボクの復帰初日の食堂は、普段よりも少し賑やかな夜を過ごすのであった。
店の営業が終わると、後片付けと戸締りをして、ボクとユイはアパートに帰る。
春の夜風が優しくボクたちのそばを通り過ぎる。道路の脇でまばらに咲いている黄色いタンポポは、代わる代わる顔を見せては挨拶しているかのようだった。
玄関の鍵を開けると同時に、ボクはユイを抱きしめた。
「待っててくれてありがとう。やっと戻ってきたよ。」
「ううん、待ってたのはキョウちゃんの方よ。戻ってきたのはユイだもん。今日まで、お互いにそれを受けれるための準備が必要だっただけ。だから、キョウちゃんがユイにお帰りって言うのよ。」
「ふふふ。わかった。お帰りユイ。」
「ただいま。」
ボクらは玄関先にもかかわらず、時間を惜しむかのように口づけをかわした。
部屋の中は流石にきちんと整頓されており、ところどころに女の子らしい雰囲気が装飾されている。
まだ夜の気温はコタツがありがたい冷たさであり、ポットに火をつけると同時にコタツにも暖を入れる。
ボクたちは狭いけれども一つの辺に並んで座り、互いの息を確認する。ユイの匂いがたまらなく懐かしい。やっと戻ってきたという感覚があふれ出るようだ。
ボクはその体勢のままユイを押し倒す。そしてかぶさるように体を預けた。
「あとでゆっくりとね。」
ユイはボクの暴走を制止するように、ボクの唇に指を置いた。
「そうだね。」
ポットの湯が沸き、お茶を淹れる。仕事終わりの一息。
「何かお酒を御所申されますか?飲んべの子猫ちゃん。」
「うふふ。懐かしいフレーズね。でももうお酒は控えるのよ。」
「いい子だ。さて、お風呂でも入りますか。」
仕事が終わった後の風呂は一日の疲れを洗い流してくれる。今日は流石に初日だけあって、やや緊張していたかも。
「一緒に入る?」
誘ったのはユイだった。
「断る理由はないじゃない。」
ユイと一緒に入る風呂はどれぐらいぶりだろう。以前、一緒に入った記憶が蘇る。確か、ソープごっこをしたんだっけ。
今夜はお互いに洗いっこ。ユイはボクの背中に泡立ったスポンジでゴシゴシとこすってくれる。そして腕、胸、お腹と順々にスポンジが下りていく。
「ここもきれいにね。」
すでにボクは起立したままユイの指を受け入れている。今度はそのスポンジでボクがユイの背中を洗っていく。柔らかくスベスベした背中の肌がツヤツヤと光って美しい。ボクが手にしたスポンジはやがてユイの腕、そして胸へと移動する。ふくよかな丘陵は今日もやわらかく弾んでいる。
「ここもね。」
といってボクがスポンジの手を下ろそうとすると、
「そこは自分で。ねっ。」
笑顔で言われると逆らえない。
洗い終わると泡を落として湯船に浸かる。そんなに広い湯船でもないので、二人で入るとギュウギュウ詰めだ。密着した体が色っぽい。ボクはずっと起立したままだ。
湯で温まった体はやがて熱く火照ってくる。ボクの衝動が我慢できる限界はとっくに超えていた。もちろんそのままベッドに直行することとなる。
一糸まとわぬ二人の体は、熱く燃えたぎるまま皮膚と皮膚がこすれあう。
互いの祠の中に住んでいるネットリとした妖艶な地蔵と女神は、久しぶりの抱擁を楽しむかのように絡み合っていた。手のひらにあまりあるふくよかな丘陵は、弾力のある肌がボクの動きを十分に押し返しながら、以前と変わらずにボクを魅了してくれる。
その時二人は同時に先遣隊を派遣していた。ユイの先遣隊は灼熱と化した剣の怒りを鎮めるかのようにそっと指を添えている。ボクの先遣隊はすでに湿地帯の奥に到達しており、今まさに洞窟へ侵入する間際だった。
湿り気を帯びた洞窟の入り口はネットリとした暖かい壁に沿って誘惑の泉が溢れている。先遣隊は本部からの命令を待つことなく侵入を果たし、静かに掘削を始めた。その振動と共にユイの祠から美しいローレライが奏でられ、ボクを魅了する。そしてボクの熱き剣は更なる高まりを興じるのだ。
ローレライと共に吐き出される妖艶な吐息は、ボクを迷宮の中に引きずり込んでいく。妖しき糸に導かれながら、剣は祠の中に吸い込まれていくのだ。
祠の中では女神が待ち構えており、研ぎ澄まされた切っ先をものともせずに磨きこんでくれる。そこで緊張が途切れると、剣の暴発が起こりそうになるので、祠の中で聞こえる「うっ」という声と共に引き上げなければならなかった。
弾力があり、なおかつやわらかな肌は、ボクの皮膚に吸い付くように汗ばんでいた。薄目を開いたようなユイの目がボクに合図をくれた瞬間、剣は洞窟を突き刺していた。すると妖艶に奏でられていたローレライはバラードへと演目を変えて、たった一人の視聴者を幻想の世界へと導く。
正面からの掘削体勢を背面からの攻撃に変えたとき、演目は更なる次の曲へと進んでいた。ボクの先遣隊は、いつの間にか洞窟から丘陵へと移動しており、その頂点も含めた攪拌行動に移っていた。
ユイの祠は角度を変えてボクの唇を探索してくれる。その際、首筋から放たれている爽やかな果実にも似た芳香が、ボクを更なる桃源郷へと誘うのだ。
エピローグがそろそろ見えてきた頃、ユイは突然に主導権を所望する。
目線が下から上へと移ったとき、子猫の瞳が牝豹の眼光に変わった。その瞬間、ボクはただの獲物にならざるを得ない。牝豹は足元の獲物に喰らいつくかのように肉をかきむしり、舞台の上で踊り狂う。乱れた踊る髪はまるで宙を舞う竜のようだ。
その激しさに耐えかねるほどの圧が迫った時、ボクはユイに降参を申し入れた。ユイはにっこりと微笑んで、逆無条件降伏を捧げてくれる。そろそろ仕上げのタイミングだ。
ボクは仕切り直しとばかりに、もう一度ユイを眼下に置き、そっと唇を首筋に這わせる。独特の芳香と共に微かに聞こえるさえずりがボクを再び狼へと変えていく。
丘陵の頂点で起立している美しき碑が誘うので、やや強引に喰らいつく。我慢しているのがわかる程の悲鳴が聞こえ、ボクの中の狼はさらに凶暴化する。そして最後の瞬間を予感した狼の剣は、凶暴化したまま洞窟への侵入を開始する。すでに理性を失っている狼は、本能のままにやわらかな肉を堪能していた。熱き剣は再加熱し、激しい動きと共に最後の咆哮を唱えるのである。
その瞬間、ユイはボクにそっと耳打ちした。
「今日は中でいいのよ。」
そして狼は最後の最後まで徹底した攻撃を洞窟の奥深くにて完了したのである。
ボクはユイの耳元でそっと「ありがとう」と呟いていた。
ユイはそれでも黙ったままボクにしがみついていた。
やがて静かな春の夜は、ボクたちを包むように更けていくのである。
新しいボクたちの生活は、淡々とその時間を費やしていた。
色々なことに慣れたボクは、そろそろユイの実家への挨拶を決意していた。
そのタイミングを計っていたのだが・・・・・・。
今日はポカポカ陽気の土曜日。
昼時が終わり、常連さんたちがテレビで競馬中継を見ながらビールを流し込んでいる。女将さんも一枚かんでいるレースがあるらしく、常連客と競馬談義に忙しかった。
そんなとき、ある客が女将さんをからかっていた。
「女将さん、若い二人が入ったらお年寄りたちの仕事がなくなるんじゃないの?」
「そうだよ。そろそろあたしたちも楽をさせてもらおうかなと思ってね。いまから二人を仕込んでるんじゃないか。」
「まさか二人が跡継ぎかい?娘たちはどうした?」
昔からの常連は、ここの三人娘も小さい頃から知っているようだ。
「あの子らはね。もうウチのことなんて知らないっていうのさ。まあ、それなりの旦那をそれぞれで見つけて、みんな出て行ったんだからね。今じゃ正月にしか戻って来やしない。薄情なもんだよ。」
「で、この店を譲るつもりかい?」
「あの二人がその気ならね。まだ何も聞いてないんだよ。いや、聞いてはいるんだけど、何も答えてくれないのさ。娘のことなんか気にしなくて良いのにね。」
「それは違うよ。年寄りの面倒を見るのが嫌なんだよ。特に女将さんみたいな厄介な年寄りはね。」
「ははは、違いない。あんたよりはマシだけどね。」
女将さんと常連客との会話なんていつもこんな感じだ。
ボクはここに入る前に、跡継ぎのことは聞かされている。選択肢が用意されているわけでもないし、ボクに選択権があるわけでもない。でも返事はしていない。
女将さんの面倒を見るのが嫌なわけではない。世話になった人の面倒ぐらい惜しむつもりもない。娘さんたちに遠慮していることは確かだ。だから少なくともボクはユイと二人で頑張ってこの店を買い取ろうと思っている。これはユイも同じ思いだった。
でもそれは、無一文のボクたちにとって莫大過ぎる夢であり妄想なのだ。だから今は何も答えずに仕事をしている。
さらに客は追い討ちをかけるように女将さんをからかった。
「でもあの子ら、結局は他人なんだろ。それとも女将さんがキョウちゃんのこと好きだったりするのかな。」
「バカ言うんじゃないよ。あたしゃ二人とも自分の子だと思ってるよ。今の今までどんだけあたしらを助けてくれてると思ってるんだい。」
少し怒鳴り気味で声を荒げた瞬間のことだった。
「うっ。」
女将さんの動きが止まった。そして膝から崩れ落ちる。
それを見たユイが慌ててボクと親方を呼ぶ。その声は今にも狂いそうな声だった。
「キョウちゃん、女将さんが、女将さんが。」
親方も慌てて駆け寄る。
「おい、シズ、大丈夫か。」
ボクは急いで救急車を呼んだ。
「シズ、シズ。」
親方はずっと女将さんの名前を呼び続けている。
ボクは親方から女将さんを離して説き伏せる。
「とりあえず救急車を呼びました。それまでは動かさない方がいいです。大丈夫。きっと大丈夫ですから。」
親方はボクに説き伏せられ、呆然として椅子に座っている。
数分後に到着する救急車。救急隊員がテキパキと女将さんの様態を観察し、客とボクたちに倒れる瞬間の様子を聞き取りしていた。さらに別の隊員が、すぐさま治療にあたれる病院を見つけたらしく、急ぎ女将さんを救急車に乗せ始めた。救急車には親方とユイを同乗させて、落ち着いたら連絡をくれるようにとしておいた。
そして三十分後、ユイから最初の電話が入る。
「女将さん大丈夫?」
「うん。軽い不整脈から来るものだって。まだ意識は回復してないんだけど命には別状ないって。でも二~三日は入院した方がいいって言ってた。あとで女将さんの必要な荷物を取りに帰るから。」
「親方はどうしてる?」
「大丈夫って聞いて少し安心したみたい。みんながいてくれて良かったって言ってた。お店はどうしたの?」
「うん、急きょ休みにしたよ。まだ片付けてる最中だけどね。親方も帰って来るんだろ?」
「わかんない。ずっと女将さんの手を握ってる。」
「娘さんたちに連絡した方がいいかな。親方に聞いてみてくれる?」
「うん、わかった。」
昼間のことでもあり、病院の対応も早く、どうやら事なきを得たようだ。
さらに二十分後、ユイから二回目の電話が入った。
「女将さん気が付いたわ。お医者さんももう大丈夫だって。女将さん次第だけど、早ければ明後日には帰ってもいいかもって言われた。それと娘さんたちには連絡しなくてもいいって。なんでもないんだからって。」
「そう。とりあえず良かった。女将さんの荷物を取りに来たら、今度はボクも一緒に病院に行くよ。」
女将さんが入院したのは食堂から電車で十五分ほどの総合病院だった。その病院は近所の評判もよく、多くの人の往来があった。
すでに辺りが薄暗くなり始めていた夕暮れ。病室では丁度夕食が終わったところで、女将さんも元気に食事が取れたらしく、ボクが訪れたときには、ベッドの上で起き上がってテレビを見ていた。
「ああキョウちゃん。来てくれたんだね。あたしの可愛いバカ息子。」
相変わらず口は悪い。でもその口調が話せるならもう心配はないだろう。
「ねえ、聞いておくれよ。病院の食事が不味いったらないんだよ。今度来るときは、美味しい玉子焼きでも持ってきておくれよ。」
「ダメだよ。ちゃんと病院が管理してる食事で済まさないと。帰ってきたらなんでも作ってあげるから。しばらくは我慢してね。」
「はいはい。ところで親方は連れて帰っておくれよ。こんなところに張り付いていられたんじゃ、たまったもんじゃないからね。」
「ああ帰るとも。こんなに元気なんじゃ、心配する必要もねえじゃねえか。」
それを聞いてユイが女将さんに耳打ちする。隣にいる親方に聞こえるぐらいの声で。
「だけどね女将さん、親方ったら、女将さんが倒れた時、それは心配してたのよ。」
「あら、それは嬉しいわね。でも、もう大丈夫だよ。お医者さんも大丈夫だって言ってただろ。」
「ああ、だから帰るって言ってんだろ。」
「キョウちゃん、親方のことよろしくね。」
なんだかんだでちゃんと親方は女将さんのことを女将さんは親方のことを気遣っているのがよくわかる。ユイもわかっているようで、笑みを浮かべながら二人のやり取りを見守っていた。
「はい、ちょっと着替えるからね。男共は出て行っておくれ。これでもまだレデエのつもりですからね。」
ボクは親方を連れて病室を出た。親方のホッとした様子に安堵する。
「よかったですよね。何もなくて。明後日には帰れるんなら上々ですよ。ちょっとゆっくり静養してもらいましょうね。」
「そうだな。キョウちゃんのことでもオレなんかよりもずっと気をもんでたからな。」
「店は片付けてきましたから、親方も今日はのんびりしてください。明日はユイとボクとでなんとかしてみます。」
「そうだな。一種の予行演習みたいなもんだな。」
「まだまだ隠居するには早いですよ。」
ボクやユイのことで気をもんでたのは女将さんだけではあるまい。きっと親方も同じように心労をかけていたに違いない。ここは少しでも休んでもらった方がいいだろうと思った。
病院から店には三人で帰ることになった。女将さんには「明日も来るよ」と言うと、
「バカタレ。店があるんだから、来るのは年寄りだけでいいんだよ。キョウちゃんとユイちゃんとで店の方は切り盛りしておくれ。いい機会じゃないか。」
女将さんも親方と同じことを言い始める。
「わかりました。やってみます。退院の時は迎えに来ますから。」
「大丈夫だよ。愛しの親方さえ迎えに来てくれたらね。」
「馬鹿、何を言い出すんだ。」
親方が照れる姿を初めて見た。この二人の姿が長年店を続けられてきた絆なのだろうかと思った。
その夜、ボクとユイはいつものようにベッドの中で、まどろみながら眠りに就こうとしていた。今日は色々あったし、明日と明後日は二人で店を営業しなければならない。今宵は大人しく寝ることにしよう。
するとユイがふと漏らしたことが気になった。
「親方、今夜は一人で寝るんだよね。寂しくないかな。不安じゃないかな。」
ユイの優しさがあふれ出る言葉だった。
「そうだね。明日、親方に聞いてみよう。なんなら、明日の晩は二人で店に泊まろうか。」
「そうね。それもいいわね。」
この想いが後日、割と早い段階で実現することとなるのである。
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