第6話 『織田』で過ごす朝が始まる

『織田』では親方夫婦がボクたちの訪問を今は遅しと手薬煉を引いて待っていた。そしてボクらの顔を見るなり大きな声で手招きしてくれる。

「遅かったじゃないか。いつまでイチャイチャしてるんだい。いいねえ若い子は。ってところでキョウスケ、お前さんいくつだい?」

突然年齢のことを聞かれて驚いた。

「今年三十六になります。」

「ええっ?じゃあ萌愛ちゃんと十歳以上も離れてるってことかい?」

「ええまあそうです。」

この店では萌愛という名前しか知られてないので、この店の中では彼女を萌愛と呼ぶことにしよう。

「よっぽどしっかりしなきゃね。」

「さて、まずはみんなに紹介するから、店の方においで。」

開店前の店では親方と跡取り息子と従業員二人がボクの弟子入りを待ち構えていた。

「みんな、こいつが明日からしばらくウチで仕事をしてもらう角田恭介君だ。ウチのフライを修得するために友人の『もりや食堂』から三カ月だけ預ることになった。向こうではすでにみっちり教え込まれてるみたいだから、こっちも教えてやるが、我々も彼から色々なことを学んでいこうと思う。そして昨日も言ったが、彼と入れ替わりで萌愛ちゃんは明日から恭介君のいた食堂で働くことになる。皆には世話になったが、慣れない環境でよく頑張ってくれたと思う。」

親方の立派な紹介のあと、ボクは自己紹介を萌愛は最後の挨拶をさせられた。

「『もりや食堂』の角田恭介です。訳あって、本日から三か月の間、こちらでお世話になります。ほとんどボクの方が教えていただくことになるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします。」

萌愛も世話になった礼を言ってお辞儀をした。

すると、親方は跡取り息子から順にスタッフを紹介し始める。

「息子の圭太です。食堂のこととかも教えてくださいね。よろしくお願いします。」

感じのいい青年だった。年齢は三十前後か。

「今日は萌愛ちゃんの引っ越しの作業を手伝ってもらい、萌愛ちゃんの代わりに明日からあの部屋に住むことになる。本格的な仕事は明日の朝からだ。お客さんじゃない、ウチの従業員だと思って仲良くやってくれ。」

残りの従業員も順に紹介され、みんなで賄いを食べる事になった。おかずはもちろんトンカツだった。明日からこの業を覚えるためにここへ来たのだと思うと、少なからず箸を持つ手が震える。やはり食堂のカツとは違う。そう感じた。

皆が温かく迎えてくれた初日の顔合わせは、何事もなく和やかに終了する。そしてボクはひとまず厨房を後にし、萌愛の引っ越し作業の片づけをすることになった。ボクは礼を述べて厨房を出ようとすると、その間際に圭太さんに呼び止められた。

「あなたが萌愛ちゃんの良い人でしたか。向こうに戻る前にちゃんとボクを諦めさせてください。そうじゃないと奪っちゃいますよ。」

笑みを浮かべながら言ったセリフに、ちょっとドキッとする内容文句だったが、ボクはにっこりと微笑んで、

「がんばります。」

とだけ彼に言い残して萌愛の部屋へと移動した。


萌愛の住んでいた部屋は店の三階にあった。階段を上りながら萌愛はボクにそっと耳打ちする。

「ホントにみんないい人よ。圭太さんには結婚を前提にって告白されたけど、ちゃんと断ってるから大丈夫よ。」

ああ、やっぱりそういう悶着はあったのかと思ってしまった。

萌愛が住んでいる部屋はこざっぱりした六畳の一間だった。さすがに干していた洗濯物などはすでに箱の中にしまいこまれており、あとは小物や衣装ケースの中などをまとめるだけで簡単に片付いた。運送屋が来るのは二十一時と決まっている。

今度はボクが持ってきた荷物を広げる番だ。萌愛の衣服が入っていた衣装ケースの中にボクの着替えを入れ、食器棚にボクのカップを入れる。

布団は借り物だったらしく、その布団にはまだ萌愛の匂いが残っていた。

ボクたちは今宵、二人してこの部屋で過ごすことを許されている。しかし、この部屋での睦言が許されているわけではなかった。それも試練の一つなのだろうと思っていたし、萌愛もボクも最低限のモラルは弁えているつもりである。

それでも彼女の放つ芳香には我慢できなかった。ボクは萌愛の体を引き寄せて唇を求める。「萌愛。」

ボクはそう呼んでみた。彼女のことをそう呼ぶのはどれぐらいぶりだろう。やはり若干の違和感があった。

「やっぱりユイでいいよね。この店では萌愛かも知れないけど、ボクと二人のときはユイでいいでしょ。」

「そうね。キョウちゃんに萌愛って呼ばれると、なんだか変な感じがするわ。ちゃんとユイって呼んで。」

「そうだね。」

ボクはそう言って彼女の吐息をずっと至近距離で感じ続けていた。

やがて店の横にトラックが停車する音がして、上からのぞいてみると依頼していた運送屋のマークが見えた。ボクは萌愛の荷物を運送屋にお願いして、再び萌愛の元へ戻ってくる。これで、明日の朝までボクたちの時間を邪魔する者はいない。

ボクは買ってきた小さなワインの小瓶を開けて二つのグラスに注いだ。新しい門出を二人で乾杯するためのワインだった。飲んべの性分が変わっているわけもなく、萌愛は以前の通り、美味しそうにワインを喉の奥へと注ぎ込んでいく。

あしたから二人の新しい生活が始まる。ボクたちはお互いのぬくもりを感じながら夢の中へと落ちて行ったのである。もちろん、唇を求めあう以上の睦言は控えて。


翌朝、萌愛は『織田』での最後の朝食をいただいて、親方夫婦に最後の挨拶をした後、その足で『もりや食堂』へ直行することになるのである。

萌愛を見送る女将さんの目はうっすらと赤くうるんでいた。彼女がみんなに愛されていたことがよくわかる光景だった。

ボクは彼女を見送ると、すぐさま店の掃除からスタートする。まずは一日の流れを見て、色々な作業と仕事を確認していくことから始まる。

圭太さんも親方以上に懇切丁寧に教えてくれた。(この時は敬意を込めて圭太さんと呼んでいた。)萌愛が言っていた通り誰もが優しい。それはまさに嘘ではなかったと感じていた。ボクはそれに甘えることなく、みんなが教えてくれる全てを吸収しようと思っていた。しばらくは掃除と皿洗いと接客がメインである。どんなメニューがあるのか。そして来店した客の顔を見て、どんな客がどんなメニューを注文するのか。どんなタイミングで配膳されるのかなど、『もりや食堂』とは違った様子にただ感心していた。

修行の身とはいえ、一週間に一度は休日があった。店には定休日があるのだ。しかしボクはその休日にユイに会い行くことはしなかった。営業日には見られない厨房の裏側を見せてもらったり、親方に教えてもらった肉屋を紹介してもらって、肉の良し悪しを教えてもらったりして過した。

一応、三カ月という約束だが、ボクは期限にこだわるつもりはなかった。のんびりするつもりという意味ではない。教えてもらえることは最後まで食らいつくつもりだった。

親方もきちっとしたところはけじめをつけてくれた。決して何でもありの弟子ではない。叱るところはきつく叱ってくれる。

そうした生活をひと月ほど過ごしていたある日、圭太さんがボクを飲みに誘ってきた。その日は店の定休日で、ボクも特に予定はなく、包丁でも研ごうかなと思っていた矢先のことだった。

「キョウスケさん、時間あるでしょ。飲みに行かない?」

始めのころは彼も年上のボクに敬意を表して、そう呼んでいた。

「ボクはこれから包丁でも研ごうと思っていたんですが。」

「じゃあ、オレも手伝うよ。本来はオレの仕事だしね。それが終わったら飲みに行こうよ。ねっ、いいでしょ?」

「わかりました。付き合いましょう。」

昨晩は遅くまで客がいたので、片づけが遅くまでかかった。休み前ということもあり、片づけは丹念に行われなければならなかったのである。

従って今朝の始動は少し遅くなっていた。時計の針はもうすぐ八時を示そうとしている。ボクらはこぞって朝食を食べに出かける。定番は近所の立ち食いソバだ。安くて手っ取り早くて温かい。冬の朝にはもってこいである。

店に戻ってくると、冷たい水の刺激に耐えながら庖丁を研ぐ。うまく研がなければキッチリと肉が切れない。とんかつ屋としては大事な仕事の一つと言える。

圭太さんも慣れた手つきで研いでいる。二人並んで研いでいると仲のいい兄弟弟子に見えるかも。(実際にかなり仲良くなったのだが。)

「キョウスケさん。実はね、今日は親父に言われて誘ってるんだ。」

「えっ、どういうことですか。」

「親父がね、すっごくキョウスケさんのことを買ってるんだ。息子のオレが嫉妬するぐらいにね。それでさ、飲み代ぐらい出してやるから、キョウスケさんから色々なもの学んで来いって言う訳さ。オレもキョウスケさんに興味あるし、色々なことを聞いてみたいと思ってたから、いい機会だと思ってつきあってよ。」

「わかりました。いいですよ。でもボクから学べるものなんてありますか?」

「そうだな。まず年下のオレにいつまでも平気な顔で敬語で話しができる事。親父から言われたことを文句ひとつ言わずにこなすこと。そしてそれがこなせていること。ボクはいつも感心させられる。なにがキョウスケさんをそんな姿にさせているんだろうとか、その源を知りたいと思ってる。」

「深く考えすぎですよ。色々な人が支えてくれるから生きていけてるだけですよ。」

「その話はあとでゆっくり聞き出すから、覚悟しておいてね。」

ボクたちは店の包丁を研ぎ、冷蔵庫の清掃を行い、肉の在庫と明日の注文を確認して作業を終えた。

「普通は休みの日は好きに時間を使えばいいのに。萌愛ちゃんもキョウスケさんとおんなじようになんか手伝いをしてた。萌愛ちゃんの場合はウチのお袋にぴったりくっ付いて、家の手伝いとかだったけどね。」

「ボクたちは多くの人に助けられて今があります。今はその人たちに恩返しすることしか考えてないんです。萌愛ちゃんもきっと同じ気持ちなんでしょう。」

不思議そうな顔をする圭太さんと一緒に店を片付けて、近くの繁華街へ出かける。

まだ昼過ぎの時間だが、元々飲食業の時間は一般の人たちよりもサイクルが少し早い。休みの日は明るいうちからの飲み会も珍しくないのである。

ボクたちは向かい合わせの席に座り、乾杯の後、圭太さんはボクとの関係を確認し始める。

「ねえ、キョウスケさん。もうウチに来て一ヶ月経ったんだ。オレもキョウスケさんが普通の弟子でないことも親父から聞いてるし、萌愛ちゃんのことも聞いてる。だいたいオレ自身がキョウスケさんの兄弟子だなんて思ってないんだ。これからもずっといい関係でいたいし、オレもキョウちゃんって呼ぶから、オレのことも圭ちゃんって呼んでくれない?」

突然の申し出に驚いたボクは返事に困っていた。でも彼の人柄はボクには相性が良さそうだ。ボクは店内ではケジメをつけてくれるようお願いして了承した。

これをきっかけにボクたちの間柄は急接近することになり、長きに亘り良き友人関係が築かれることとなった。

ボクもここから先の記述は圭ちゃんと呼ぶことにしよう。

そして圭ちゃんは、次にいきなり萌愛のことから話し出す。

「萌愛ちゃんがウチに来たときに親父とお袋から、大事なお嬢さんを預るんだから邪険に対応したらいけないよって言われてたんだ。何のことかわからなかったんだけど、萌愛ちゃんがウチに来てから一月ぐらい経った時、お袋の手伝いをしてるのを見て、勘違いしちゃったんだ。萌愛ちゃんはオレのことが好きでお袋の手伝いしてるんだって。そんな風に見てたら、どんどん彼女のことが好きになっていく自分がいたんだ。それで思い切って誰もいないところで告白してみたんだけど、見事に玉砕。それもそのはず、後で親父に問いただしたら逆にこっぴどく叱られる始末。キョウちゃんと萌愛ちゃんの話をそのとき初めて聞かされて、ビックリ仰天させられたってことよ。」

圭ちゃんは自分の失恋話を、その恋敵であるボクに笑って話をしてくれる。

「オレはその話を聞いて、二人の間には他の人が絶対に入れない何かで結ばれてるんだろうなと思ったんだ。」

圭ちゃんが親方からどれだけの事を聞いたのか、それ以前に親方が『もりや食堂』の女将さんにどれだけのことを聞かされているのかも疑問だったが、ボクが彼に話せることは何もないと感じていた。決して自慢できる話でもないし、あまり多くの人に知ってもらいたい話でもなかった。だから、黙って彼の話を聞いていたのだが。

「ねえキョウちゃん、二人の出会いってどんな出逢いだったの?そのへんの話はまだ聞いてないんだけど。」

ボクは困ってしまった。ウソをつくのは嫌だ。でも彼女が勤めていた店のことは話したくない。酔いつぶれていた話だけならいいかもしれないが、どこで彼女を見知ったかについては、必ず夜の店のことを言わねばならない。

「ごめんね。ボクはそのことについては彼女の許しがないと話せないんだ。」

何とか搾り出した言い訳だった。

「そんなところから秘密があるのか?」

「うん。ボクたちは決して他の人たちの見本やお手本になる恋愛じゃないんだ。ボクたちがもうちょっと色々な人に恩返しが出来て、二人で笑って話せるときが来たら、そのときはちゃんと話すよ。」

ボクは彼にそんな曖昧な約束をしてその話を終えた。

何となく不満そうな圭ちゃんだったが、ボクの意思が固そうだと思ったのか、その場では諦めてくれたようだ。

それ以降は食堂での話を聞いてくる。出汁の取り方やご飯の炊き方、食材の仕入れ方など、結果的には情報交換の場となったが、ボクにとってもいい時間が過ごせた。


その三日後のこと。

親方がボクを厨房に呼んだ。

「今日からつけあわせを頼むよ。」

この店の付け合せは、キャベツにポテトサラダに、メニューによっては目玉焼きやきんぴらごぼうをつけるのである。従ってボクの仕事は回転前の仕込みに重点が置かれる。

基本的な材料と調合は女将さんに教えてもらう。味が変わってはいけないからだ。

これらの作り方については、『もりや食堂』で親方に仕込まれた経緯があるので、ボクにとってさほど難しいことではなかった。材料の配分が少し違うだけである。

さらに親方はボクに課題を与えてくれた。チキンカツに合うタルタルソースを作れと。

この店の基本のタルタルはエビフライや魚フライ用にレシピがある。チキンカツにも客のリクエストに応じてタルタルを出すのだが、親方はシーフード用とチキン用とで違うものを用意したいらしい。

それは店にとって重要な仕事だと思い、「これはボクではなく圭太さんに頼むべき仕事だと思います。」として辞退したのだが、圭ちゃんもボクがどこまで出来るのかを見たいようで、ニヤニヤと笑いながらボクの背中を叩く。

「お前さんのイメージでいいよ。使う使わないはオレが決めるから、あの丼みたいなどこにでもあるような、それでいてどこにもないような、そんなものがあったらいいな。」

それを聞いて女将さんは親方に忠告する。

「あんまりハードルを上げてやるんじゃないよ。何でもいいってしておきな。どうせ自分じゃ何も思いつかないくせに。」

「うるせえ。まあどっちみちなんでもいいことは確かだ。期限は一週間。圭太に相談したって何にもヒントなんか出やしないぜ。先に言っとくがな。」

「よし、じゃあオレもキョウちゃんとは別口で考えるよ。」

親方がボクだけに課題を与えたことが刺激になったのか、圭ちゃんも意欲的に参加してきた。つまりは、とうとう新しいタルタルを考える羽目になってしまったということである。

この店のチキンカツはムネ肉とモモ肉のセットが人気だ。あっさりムネ肉とこってりモモ肉のコンビネーションが丁度良いバランスを醸し出している。

またボクにとって忙しい一週間になりそうだ。


店が終わると圭ちゃんとボクとで二人して厨房で考えを練っている。特に競争している意識はないが、今のところは情報を交換していない。

そうこうしているうちに三日ほどたったある夜。ボクたちの手が動き出す。

ボクのレシピはこうだ。イメージはタンドリーチキン。どうせゆで玉子の黄色味が目立つのだから、より黄色く仕上げようというのが考え方の土台。思いついたのはカレー粉だったが、スパイシーになり過ぎないようにしたい。いくつかのスパイスを試した結果、ナツメグとカルダモンとクミンを多めに配合し、最後にターメリックで色づけた特製パウダーが完成する。ベースとなるソースは日本酒にチーズを溶かし込み、アルコールを飛ばす。それにマヨネーズと甘酢を少し加えたものに特製パウダーをミックスするのである。

圭ちゃんのは赤いソースだ。どうやらトマトケチャップだと玉子の味が消されるので、トマトピューレを使っているようだ。さらにデミグラスソースとマヨネーズを加えて、仕上げにはリンゴ酢で酸味を調整したようだ。

この時点で初めてボクらは情報交換をした。互いのソースを味見し、それぞれのポイントについて意見を戦わせた。

結果的にボクのソースには和からしを、圭ちゃんのソースにはハチミツを加えることになった。後で聞いたのだが、ボクたちの様子を厨房の外から親方夫婦が見守っていたらしい。この半共同作業によって完成させたタルタル作りをきっかけに、ボクたちは益々友好を深めることとなったのである。

そして期限の一週間後。

親方夫婦と従業員、そしてアルバイトのおばさんたちに味見をしてもらう。

従業員もアルバイトもどっちがどっちとは言いにくい。ボクとしては競ったつもりはないし、普通に圭ちゃんのレシピが美味しかったので、みんなしてそちらを指示してもらえばよかったのだが、親方の意見は違っていた。

「双方とも不合格だな。」

その瞬間、圭ちゃんが不満げな表情で親方にその理由を聞いた。

「理由としては手間がかかりすぎる。忙しい合間を縫って誰がこれを作るんだ。酒のアルコールを飛ばしたり、トマトピューレを煮出して余分な水分を飛ばすのに何時間かかる。しかもスパイスやデミグラスの配合が難しすぎる。」

ボクたちは二の句がつけなかった。しかし、圭ちゃんは意を決したように親方に進言する。

「時間はオレが見つけて作る。このレシピはオレの専属にしてもらってもいい。」

その言葉を聞いた親方は、厳しかった顔が急に優しい顔になり、女将さんに了解をもらうかのようにうなずきながら言った。

「圭太、その言葉を忘れるな。明日からこのレシピはお前の担当だ。どんなに時間がなくても、ストックを切らすことはまかりならん。そう思え。」

それを聞いた圭ちゃんの顔がほころんでいく。

そしてさらにこうも言い放った。

「キョウちゃんのタルタルもオレは好きだ。レシピを教えてもらって、それもオレが作っていいか?オレが責任を持って教えてもらう。」

すると親方は、

「圭太。その言葉を待っていた。ハッキリ言ってお前のタルタルはモモ肉向きだ。それに対してキョウちゃんのタルタルはムネ肉向きだ。両方使いたいと思っていたところだ。お前が責任を持ってくれるなら、オレはこのタルタルを両方採用する。これはお前たちの共同作業の中で生まれた産物だ。ウチの名物タルタルにしてやるよ。」

このとき、親方がボクたちの作業をずっと見ていたことが明かされたのである。


翌日からこのタルタルは名物タルタルと称して大々的に客に提供された。もの珍しさも含めて、多くの客がチキンカツを注文することになるのである。



ボクがこの店に来てから二ヶ月と少しが経過した頃、またぞろ親方に厨房へ呼ばれた。

「キョウスケ、今日から本格的にオレのカツを教えてやる。圭太にもまだ教えていない秘密があるんだ。それを伝授してやる。」

その日からボクは、営業中から親方の後ろに立ち、作業手順と仕事ぶりを覚えていく。肉の切り方、筋切りの仕方、脂の残し方など、親方のこだわりが随所に見られた。

ボクが『もりや食堂』の親方に唯一教えてもらわなかったレシピ。それを今、別の店で教えてもらえるのである。

その五日後あたりから、実際の仕込みを行う。アジの選び方はユイに教わっていたが、キスやカレイやワカサギ、そして鮭の切り身の選び方も教わる。魚屋で選び方を間違えると親方から怒鳴り声が飛んでくる。肉の切り方を間違えた時もまた同じであった。

何度か失敗を繰り返すと人はその間違いを覚えるものとみえる。ボクも仕込みを教わり始めて二週間後あたりから、親方からの怒号が減った。

そろそろ、元々の約束の期間である三ヶ月が経とうとしていたとき、今日は夕方早くに店を開けると知らされた。ボクは親方の友人が来るか、近所の商店街の集まりがあるのかと思っていた。しかしそれは違っていたのである。

その日のランチタイムを終えると、親方と女将さんが急にソワソワしだした。その緊張感はボクだけでなく、圭ちゃんや他の従業員にも伝わっていた。

特に何も知らされていないボクや従業員たちは、ただ夕方のそのときが来るのを仕込みをしながら待っているだけだった。

そしておもむろに店のドアが開く。

「ごめんよ。」

入ってきたのは『もりや食堂』の親方夫婦とユイだった。

「いらっしゃいませ!」

みなが一斉に声をかけたが、一瞬あっけに取られたボクは全く声をかけられなかった。

「キョウスケ、久しぶりだな。」

『もりや』の親方に声をかけられてボクの緊張感は最高潮に高まった。

『織田』の女将は、『もりや』の女将には目もくれず、一目散にユイのところへ駆け寄っていく。どんなシチュエーションでもユイは人気者だ。

「萌愛ちゃん、久しぶりだねえ。元気だったかい?おシズに苛められたりしてないかい?」

「ユキ、この子はあたしの大事なバカ息子のヨメになる子なんだよ。いらないこと言ってないで早くバカ息子の顔を拝ませな。」

「五月蝿いねえ。キョウちゃん、五月蝿いおっかさんが来たよ。」

厨房から駆け出して親方と女将さんの前に立つ。三人に合うのは確かに三ヶ月ぶりだった。

「どうだった?親方も女将もちゃんと叱ってくれたかい?」

「はい。色々なことを教わりました。お返しできるものが何もないぐらいに。」

すると『織田』の親方が出てきて『もりや』の夫婦に丁寧に礼を述べた。

「いい弟子を貸してくれてありがとう。ウチのどら息子もおかげで成長できたよ。キョウちゃんはどう思ってるか知らないが、ウチはもうちゃんと返してもらったよ。」

「ああそうだね。ウチのどら息子の目つきが変わったのは確かだ。恋の腹いせから始まったみたいだけどね。」

今度は顔を真っ赤にして圭ちゃんが飛び出してきた。

「おふくろっ、萌愛ちゃんの目の前でそんなこと言うんじゃない。もう諦めたって言っただろっ。」

ユイはその言葉を聞いて圭ちゃんの前に立ち、深々と頭を下げた。

「私も恭介さんもお世話になりました。またウチにもいらしてくださいね。」

そう言ってニッコリ微笑むと、圭ちゃんの顔がまたぞろ真っ赤に膨れ上がった。

「さて、何を食わしてくれるんだ?」

来店した三人は揃ってカウンターの席に座り、『織田』の親方の動きに注目する。

『織田』の親方はボクにトンカツとアジフライとチキンカツを作るように指示した。トンカツはここの定番だし、アジフライは『もりや』で作らされた最初のフライだし、チキンカツはボクと圭ちゃんの合作ともいえるタルタルを提供したかったのだろう。それだけでも親方の心意気が見えた注文だった。

ボクは多少緊張しながらも、まな板と火のついた油に対峙していた。そして教えてもらったことの全てを注ぎ込むかのようにネタを仕上げて皿に盛り、出来上がった膳を順繰りに運ぶのである。

カウンターで出来上がりを待っていた三人は口数も少なく、やや緊張した面持ちでカツやフライが出てくるのを待っていた。そして三つの皿が揃った時、『もりや』の女将が『織田』の女将に言った。

「ユキちゃんありがとうね。ホント、恩にきるよ。もうこの出来上がりを見ただけで泣けてくるよ。」

「おシズ、それは食べてから言いな。まあ、ウチで三ヶ月もいたんだ。間違いがある訳ないだろうけどね。」

三人で三種類のカツとフライを味見してくれる。特にチキンカツのタルタルは喜んでくれたようだ。それはこの店の自慢のタルタルとして提供されていることを聞かされると、なおさら喜んでくれた。

その時である。

『織田』の親方が、ボクに向かって怒り出す。

「キョウスケ、オレの大事な客になんてもん出すんだ。こんなもんを客に出すやつをウチには置けねえ。お前は今日限りでクビだ。明日から来なくていい。」

それはボクに卒業を意味する言葉だった。ボクは黙って親方に頭を下げた。

「今までありがとうございました。このご恩は一生忘れません。ユイのこともありがとうございました。」

すると圭ちゃんが驚いたような顔をしてボクに問いかけた。

「ええっ?萌愛ちゃんじゃないの?ユイちゃんって言うの?なんで?」

『織田』の女将が圭ちゃんをなだめる。

「ごめんな。お前は本当のことを知らないほうがいいと思ってな。」

「ちくしょー。知らないのはオレだけだったのか。でもいいか。キョウちゃん、最初の約束を覚えてる?納得いかなかったら奪いますよって言ったの。」

「覚えてるよ。」

「納得いったよ。だから、これからもいい友達でいてよね。ボクも萌愛ちゃんに負けないぐらいいい子を探すよ。」

するとユイはボクにそっと耳打ちをしてから圭ちゃんのホッペに「チュッ」とキスをした。

感激した圭ちゃんはボクに「妬ける?」って聞いたので、「もちろん」とだけ答えた。

その次にユイはボクのホッペにチューをしたので、ボクは圭ちゃんに「妬ける?」って聞いたら、「もう妬けないよ」って答えた。

ボクは『織田』の親方にもしてあげたらって言うと、『織田』の女将さんが慌てて止めにかかる。

「やめとくれ、あたしの大事な旦那に手を出すのは。それならあたしはキョウちゃんにキスしてもらうからね。」

「うふふ。」

いつものようにユイの口数は少なく、後はそっとボクの隣で佇んでいた。

こうしてボクの『織田』での三ヶ月修行期間は終了したのであった。



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