第4話 四ヶ月前の出来事
ああ、遠くでサイレンの音が聞こえる・・・・・。
「ユイ、愛してる・・・・・・。」
その一言だけをこぼして恭介の意識は遠のいた。
現場は騒然とし、救急車とパトカーが店の前にそぞろ集まり、救急隊員や警官たちが店内とその周辺を雑多のように動き回っていた。
意識を失った恭介と血だらけになったユイの元カレは、別々の救急車に乗せられて別々の病院に収容された。
店内では警察官による店長や店員たちへの事情聴取と鑑識による現場検証が行われていた。
店の外で多くの人だかりがその様子を見守っていた。
生々しい事件はいち早くニュースで報道された。夕方には多くの報道番組で取り扱われた。
元カレの舎弟が事情聴取されていたので、元カレの名前はおろか恭介の名前まで公開されて報道された。
『もりや食堂』で赤々と流れているテレビでもその報道は伝わっていた。最初に気づいたのは常連の客だった。
「親方あ、たいへんだ。キョウちゃんが例のアイツを刺したみたいだぞ。」
「なんだって。」
その言葉を聞き、驚いて厨房から飛んできた親方も奥の片付けをしていた女将さんも、揃ってテレビのニュースに釘付けになる。
「キョウちゃんがそんなことするわけがない。なんかの間違いだよ。」
女将さんは割烹着の端っこを握り締め、祈るように言葉を搾り出していた。
「いや、芯の強い子だからな。思い切ったことするかもしれねえ。」
「馬鹿いうんじゃないよ。あたしゃ信じないからね。絶対になんかの間違いだからね。」
店では親方を始め、常連の客たちも食い入るようにテレビのニュースに齧りついていた。
しかし報道とは情け容赦ないものである。現在知り得た情報のみを淡々と伝えるキャスターの言葉は女将さんの希望を打ち砕く内容のものばかりだった。
「あんた、ちょっと警察に行って来る。キョウちゃんに会いに行って来る。」
「今行っても会わせてなんかもらえんだろ。見ろ、容疑者って書いてあるじゃねえか。」
ほとんどの番組では恭介を容疑者として報道していた。ただ、逮捕ではなく、身柄を確保したという程度に抑えていたが。
どうやら、このときすでに警察には店長からのある情報が入っていたようだ。
「今はどうにもなりゃしねえ。とりあえず明日にしな。」
「わかったよ。明日の朝にするよ。でもお前さんも一緒に行っておくれよ。」
そのとき、店に慌しく入って来たのがヒデさんである。
「親方、女将さん、大変だよ、ニュースを見たかい?恭介がやっちまいやがった。」
「ああヒデさん。今その話をしていたところなんだ。こいつが今すぐ警察に行くって言うんだが、明日にしろって言ってたとこなんだけど。」
「確かに今すぐ行っても仕方ないかもな。とりあえず、もうちょっと情報を集めてから行った方がいいかもしれない。まずはオレたちが落ち着かなきゃな。」
「そうだよ。ほら、そこへ座って茶を飲みな。」
ヒデさんは少し落ち着きを取り戻すと、次の手はずを考える。
「まずは弁護士を探さなきゃな。親方、良い弁護士とか知らない?」
「バカヤロウ、そんなインテリなお歴々がオレの知り合いにいるわけねえじゃねえか。」
すると常連客で、ニラレバ定食を食っていた質屋のマサやんが手を上げて叫んだ。
「オレの弟が弁護士やってるから、紹介してやるよ。」
「マサやん、オメエさんの弟って言うのは腕は確かなんだろうな。」
「大丈夫だよ、わりと売れっ子みたいだし。オレに借りもあるからな、オレが頼めば嫌とは言えねえはずだ。」
「じゃあマサやん頼んだよ。」
「次は警察に知り合いがいれば早く会えそうなんだけどな。」
すると刺身をアテに焼酎を飲んでいた乾物問屋のご隠居が手を上げた。
「それならワシの甥っ子が新宿署にいるから、口ぐらい利いてやるよ。」
そういうと懐からケータイを取り出して、早速に電話をかけてくれている。
「いつでも来いと言ってる。受付でキタムラって言えば対応してくれるよ。」
「ありがたい。みんなありがとう、恩にきるよ。」
女将さんは深々と皆に頭を垂れた。
ヒデさんは女将さんに向かって礼を言う。
「女将さんありがとう。女将さんの人柄が一番の助け舟になるな。かならず恩返しさせますからね。」
「いいんだよ。今までキョウちゃんには随分と助けてもらったからね、今度はあたしが力になってやる番なんだよ。あの子、あれで今までに色々と手伝ったりしてくれてね。優しい子なんだよ。」
「じゃあ明日の朝お迎えにあがります。ボクも一緒に行きますよ。」
「ヒデさん会社は?」
「大丈夫。ちゃんと有休もらって来てますから。」
「頼りになるねえ。じゃお願いするよ。」
常連客もあまり多くの口を開かずに、ただ女将さんを慰め、何事もなかったように食事をして帰って行った。皆一様に「なんかあったら力になるよ。」と言い残して。
翌朝、親方と女将さんが出かけようとしたときのことである。そろそろヒデさんと待ち合わせの時間だったが、少し早めに店の引戸が開いた。
「女将さん、キョウちゃんが・・・・。」
店に飛び込むなり、泣きじゃくるように駆け寄ってきたのはユイだった。
「私のせいなの。どうしたらいいの?キョウちゃんを助けて、お願い女将さん。」
それだけいい終わると倒れこむように女将さんの胸の中に泣き崩れていった。
女将さんもあまりの突然の出来事に、一瞬何が起こったのかわからなかったが、胸にしがみついてただ泣きじゃくっているユイの姿を見て、我を取り戻す。
「ユイちゃん、今までどこに行ってたんだい。みんな心配してたんだよ。でも無事でよかったよ。よく来てくれたね。さあさあそこへお座り。」
ユイとの久しぶりの再会を喜んで歓迎した女将さんの気持ちの中に、誰よりもほっとした思いがあったのは間違いない。
「えっえっえっ。」
ユイは暫くの間、女将さんの腕の中で泣きじゃくっていたが、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「ユイちゃん、今までどこにいたの?キョウちゃん、ずっとあんたを探してあっちこっちをウロウロしてたみたいだよ。」
「ごめんなさい。今は上野にいるの。あれからどうしたらいいかわからなくて、何日かふらふらしてたんだけど、とりあえず新宿から離れなきゃと思って、いつの間にか気がついたら上野にいたの。」
「何も出て行くことなんかなかったんだよ。いつ帰ってきてもよかったんだよ。」
「ごめんなさい。でもどうしていいかわからなくて。」
女将さんは、ようやく泣き止んだユイをもう一度腕の中に抱き寄せた。
「それで、どこでニュースを見たんだい。」
「今、小さなスナックに身を寄せてるんだけど、開店の準備をしながらテレビを見たときにキョウちゃんのニュースが流れて、ビックリして、ただ驚いて、何が何だかわからなくなって。お店のママに訳を話したら、休んでいいから行っておいでって言われて、とにかく女将さんのとこに行かなきゃと思って、それで・・・・・。」
「よく来てくれたね。ウチらも今から警察に行こうと思っていたんだ。ユイちゃんも一緒に行くかい?」
「ダメよ。私、どんな顔でキョウちゃんに会えばいいの?私のせいでキョウちゃんはあんなことしたのよ。私がさせたのも同じなのよ。」
そう言い終わると再び泣き始める。
そのとき、店の戸が開いて一人の男が入ってきた。
「こんにちは。コチラのご主人さんはおられますか。」
四十歳半ばぐらいか、肌の色がやけに黒くて、パシッと決めたスーツ姿が凛々しいお兄さん風の男だった。
「初めてお目にかかります。私は米倉といいます。この度はウチの若い者が大変ご迷惑をおかけしたようで、その挨拶に参った次第です。」
米倉と名乗る男は、名刺を取り出し、親方に渡した。一見してカタギの風貌ではない。それでいて礼節正しく、腰の低い物言いだ。
「いやあ、ニュースでご覧になりましたかどうか、こちらで関わり深いお兄さんがウチの店員を刺しちゃった件なんですが。」
親方は女将さんとユイを守るため、米倉の前に立ちはだかるようにして間に入る。
「何の用だい。手荒なマネをすると警察に電話するぞ。」
威勢を張った精一杯のハッタリだったが、米倉は手に持っていた菓子袋を差し出して親方の前に出した。
「大丈夫ですよ。それよりもそこのお嬢さん。ウチの若い者が随分と酷いことをしたようで、私からも謝ります。それと、アイツが持っていたケータイはこの通り処分しましたので、安心してください。」
米倉はそういってポケットから完全に破壊されたケータイを取り出して三人に見せた。そのケータイは、恐らくはユイが暴行された時の写真データが収められていたものなのだろう。本来ならば被害者の所持品として警察が押収しているはずのケータイを何故彼が所持していたのかはわからないが。どうやら、警察が現場に到着する前に、この男はヤツの舎弟からあの顛末の事情を詳しく聞いていたようだった。
しかし、どういう展開なのかまだよくつかめていない親方たち三人は、しばらく立ちすくんでいたが、男はさらに話を続ける。
「ちゃんと説明させていただきますと、昨日刺されたのはウチの店員です。刺したのはコチラでお世話になってる若い衆と聞きました。昨日のあの時、私もその場所に居合わせましたので、顛末の全てを見ていました。それについて、こちらさんにちゃんとお話しておいた方がいいだろうと思いまして、参上した次第です。」
「その、なんだ、仕返しに来たのか?」
親方の声は二人を守る体勢を崩さずに話しているが、やや震えた声までは隠せなかった。
「親方さん、勘違いされては困ります。私は仕返しに来たのではなく、ご説明とお礼に来たのです。」
男の様子が思ったよりも穏やかで、尚且つ話しの様子が思っていた方向と違うので、女将さんは思い切って話しかけてみる。
「まあ、そちらにおかけ下さい。ちょっとお茶を用意しますから。」
そう言って一旦、奥の厨房へと茶器を取りに行く。
「失礼しますよ。」
米倉氏は女将さんに勧められたテーブルの椅子に座り、タバコに火をつけた。
「親方さん、結論から言うとあの事件は正当防衛なんです。確かに最初に包丁を持ってきたのはコチラのお兄さんでした。でもウチの店も血の気の多いヤツばかりなので、その姿を見た途端、彼の包丁はあっという間に床に転げ落ちていました。」
そこまで話したところで女将さんがお茶を男の目の前に置いた。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
そして彼の話の続きを聞こうと、三人は男と同じテーブルの前に座っている。
「他の店員たちに両側から取り押さえられた彼は、なす術もなく捕まっていたんですが、逆にその姿を見た黒木が、いや黒木っていうんですがねあの刺されたヤツは、その黒木が奥のキッチンからナイフを持ってきて彼に飛び掛って行ったんです。さすがにいけないと思った別の店員が止めたんですが間に合わず、彼を抑えていた店員までが逃げ出したもんですから、黒木と彼がもんどりうって転げまわっているうちに、アイツが持っていたナイフが、いつの間にか自分自身の胸に刺さっていたという訳です。従ってこれは正当防衛なんですよ。私はその事を刑事さんたちに報告しています。だから、彼はいずれ釈放されることになるでしょう。」
親方も女将さんも一度では米倉氏の言葉を理解し得なかった。しかし、穏やかな表情で話す米倉氏の話が理論的で、その信憑性も高そうだと感じ始めると、次第に肩の力が緩んでいった。そして米倉氏はさらに続けて話し出す。
「あの死んだ黒木ってヤツはウチでもかなり厄介な問題を抱えてましてね。近く、クビにできないかと思っていたんですよ。ところがアイツもウチでは正社員なんでね。簡単にクビにできない状況だったんです。そこに彼が入ってきて、あの事件でしょう。実は言いにくいんですが、ウチとしては手間が省けて助かったんですよ。黒木についていた舎弟みたいなヤツラも彼女への暴行事件を理由にクビにできましたし、彼に感謝することはあっても苦情をいう筋合いがないんです。」
「あのう。」
女将さんは恐る恐る彼に尋ねてみる。
「本当に正当防衛なんでしょうか?」
「本当ですよ。ウチの店員も何人も目撃していますし、今はヤツの胸に刺さったナイフの出所を調査していますが、それがウチのキッチンの物だと証明されると間違いなく正当防衛になるはずです。店内への不法侵入はありますが、ウチが被害届を出すつもりはないので、この件についても不起訴になるはずです。」
ココまで話し終わると、ユイは女将さんの胸にすがり付いて再び泣き始めた。
「お嬢さん、心配かけたな。後はあんたが彼を救ってやって欲しい。いやお嬢さんしか彼を救えない。色々と厳しくて辛いこともあるかもしれないが、親方さんや女将さんの力を借りて、彼を立ち直らせてやってよ。」
「ありがとうございます。」
ユイは素直に礼を述べた。親方も女将さんも男に礼を述べていた。
そこへまたぞろ店の引戸が開いて、別の男が入ってきた。
ヒデさんだった。
「女将さん、そろそろ用意できましたか。」
そしてそこに座っている男を見て驚いた。
「あれっ、ケンさんじゃないですか。久しぶりですね。一体何の御用ですか?」
「ほう、ヒデじゃねえか。確かに久しぶりだな。お前、ココの知り合いか?」
「まあ、ちょっと。って、ユイちゃんじゃない。どうしたの?今までどこにいたの?よく帰ってきてくれたね。ニュースを見たんだね。えっ、ケンさんと知り合い?」
親方も女将さんも朝から急激に訪れている展開に、頭の中がぐるぐる回っているようだ。ヒデさんでさえも集まっているタレントの豪華さに驚いている。
「何が何だかわけがわからないんだけどねえ。ヒデさん教えておくれ。この人とはどういう関係の人なんだい?」
「この人は高校の先輩で、たまに一緒に遊んでる人。そうか、そういえばキョウスケがやらかした店ってのがケンさんの店だったのか。それで?ユイちゃんはケンさんが連れてきたの?」
「違うんだよ。ユイちゃんもニュースを見て今朝突然飛び込んできたのさ。」
「それにしてもユイちゃんが見つかってよかったよ。で、やっぱり一緒に行くのかい?」
ユイはしばらく考えていたが、意を決したように答えた。
「やっぱり行けない。今はまだキョウちゃんに会わせる顔がない。どうやって会えばいいのかわからない。」
すると米倉氏は立ち上がってヒデさんに対峙したまま肩を叩いた。
「じゃあ後はヒデに任せたよ。オレは今から事情聴取だからな。乗せて行ってもいいんだが、少し定員オーバーだし、向こうさんに馴れ合いに見られるのも良くねえから、ヒデがみんなを連れてってやるんだな。じゃ、お先に。」
そう言って米倉氏は颯爽と店を出て行った。
「どうしたんだい。あの人は何の話をしに来たんだい?」
米倉氏が去っていった後姿をしばらくボンヤリ見ていた女将さんだったが、はっと我に帰ったようにヒデさんを呼びつけた。
「あの人ってヤクザかい?」
「違うよ。ちょっと突っ張ってる実業家ってとこかな。で、あの人はなんて言ってた?」
「キョウちゃんは正当防衛だって。そう証言するって言ってたし、ナイフの出所がどうだかって言ってたし。」
「えっ?そんなこと言ってましたか。それが本当なら随分と矛先が変わりますね。弁護士にも頼みやすくなりますよ、物証があるなら。とりあえず、行ってみましょう。ユイちゃんもとりあえず行こう。ボクらがついていてあげるから。それにユイちゃんの顔を見せた方がキョウスケにとっても励みになるはずだし。」
「そうだよ。それに、そのために休みをもらって来たんだろ?あたしがついていてあげるから、ねっ。」
ユイはあまり乗り気がしないまま、結局はみんなと同行することになった。
しかしながら、結局のところ恭介には会えなかったのである。
なんせ昨日の今日である。まだ事情聴取もままならず、関係者に会わせる訳にはいかない状況だと説明を受けた。
しかし、正当防衛の話は信憑性が高いという方向にあると対応してくれたキタムラ刑事に教えてもらった。但し、不起訴になる可能性があるとはいえ、保護観察となる可能性も示唆された。
結局三人は恭介に会えることなく警察を出て、踵を返す感じで店に戻ることとなった。
「保護観察か。その保護者は親方になってもらうしかないな。」
「二人以上必要ならヒデさんにもお願いするよ。」
「それはいいけど、その後どうするかだな。不起訴になるとはいえ、ニュースでデカデカと名前まで出ちまったからな。それに、ユイちゃんのこともあるし。」
ヒデさんはユイの顔を見ながら何かを思案していた。やがて思いついたように女将さんに相談し始める。
「女将さん、キョウスケをこの店で修行させてやってもらえませんか。ようはここをキョウスケの就職先にするってことなんですが。」
「ユイちゃんも一緒にかい?」
「いいえ、キョウスケがある程度の仕事がこなせるようになってからです。それまで、ユイちゃんにはどこか別の適当なところで勉強してもらって、二人して仕事が出来るようになってからキョウスケに会わせるっていうのはどうでしょう。」
親方は少し渋った顔をして、
「なんだか面白いことを考えるみたいだが、そんなにまどろっこしいことをする必要があるのかな。」
「キョウスケを一人前に立ち直らせるためです。結果的にキョウスケはズルズルと時間を過ごした結果、事件を起こすまでになりました。そのゆるくなった部分を正してからでないと、次に苦労するのは間違いなくユイちゃんだと思います。だから今は、多少のショック療法は必要なんです。お願いします。」
「キョウちゃんのことはいいにしても、ユイちゃんの身柄はどうするんだ?」
「そうですね。ケンさんに相談してもいいんですが、そうなると自然と夜の店になりそうな気がするんですが。」
そこで女将さんが基本的なことをユイに尋ねる。
「ねえユイちゃん。あんた、もう一度キョウちゃんとやり直せる?キョウちゃんのこと好きになれる?」
ユイは不安げな表情を浮かべながらも小さな声で答えた。
「私はキョウちゃんに申し訳ないって思いでここへ来たんです。それに嫌いになったわけじゃありません。一日だってキョウちゃんのこと忘れたことはないです。忘れようとはしてましたけど・・・・・。」
それを聞いてヒデさんはニンマリした。
「じゃあ決まりね。ユイちゃんがしばらく身を寄せる店はケンさんに相談して探すよ。だから今のお店にはちゃんと訳を説明してヒマをもらってくれないかな。」
「ママには私の境遇は話してます。逆に一日も早く彼の元へ帰るようにずっと言われてきているので、その点では賛成してくれると思います。」
「そのスナックなんていうお店?ケンさんに言って後押ししてもらうよ。あの人、あの世界では結構顔が利く人だから。」
「上野広小路の『ユリア』っていうお店。健全な店よ。決してエッチな店じゃないのよ。」
「解ってるよ。大丈夫。」
すると女将さんが膝を乗り出してきて意見を述べる。
「あたしは反対だね。特にユイちゃんを夜の店に出すのは。ウチは夜も営業してるけど、食堂なんだ。親方もあたしも、もうそろそろ年だし、娘たちはみんな嫁に出ちまったし、ホントにキョウちゃんに店を継いでもらいたいと思ったときもあるんだよ。」
「そういえばそんなことも言ってましたね。」
「そうだよ。キョウちゃんの手前、冗談だって言ってたけど、あたしは結構本気だったんだ。親方だって承知の上だったんだよ。だから、どうせなら本気で跡継ぎになって欲しい。そう思ってるんだ。ねえあんた。」
腕を組んで黙って聞いていた親方だったが、女将さんの話を受けてヒデさんに話し出す。
「あれはキョウちゃんが写真コンクールで入賞した頃だったかな。娘たちに打診したことがあるんだ。ワシももう年だし、お前たちの誰かが戻ってこなけりゃ、誰か弟子をとって店を継いでもらってもいいかってな。そしたら娘たちったら冷たいもんだ、跡は継げないし手伝いも出来ないけど、店がなくなるのは寂しいという。ワシらはそれならいっその事、息子みたいに思ってるキョウちゃんに跡を継いでもらえないかなって思ったんだ。」
ややしんみりした雰囲気の中、女将さんはユイに話しかける。
「ねえユイちゃん。どうだろう。こんなこと、あたしがお願いするなんてずうずうしいと思うんだけど、あんた、キョウちゃんと一緒になって、ウチの店を継いでくれないかね。嫌かい?大丈夫。ウチらの老後の世話まで頼むとは言わないよ。それぐらいの貯金はあるさ。だからねっ、真剣に考えてくれないかい?」
ユイの目からは透き通るような光を放つ一筋の涙がこぼれていた。
「キョウスケさん、まだ私のことを愛してくれているかしら。」
するとヒデさんはとっておきの情報をユイに伝える。
「今日、警察でキタムラさんにコソッと聞いたんだけど、あいつが確保されたとき、キミの名前を口にしてから意識を失ったらしいよ。あいつが誰のために狂気に駆られたか、想像しなくてもわかるよね。今でもユイちゃんが戻ってくるのを信じて疑わない。そんな一途なヤツなんだよ。」
「女将さん、私はどうすればいいの?」
女将さんは親方を隣に呼んで座らせる。そしてヒデさんに提案した。
「ウチは明日からアジフライを出さない。そしてユイちゃんには『織田』に行ってもらう。そこでしばらく修行しておいで。」
「おい、『織田』っておめえ、あの『織田』か?」
「そうだよ、ユキちゃんのとこさ。」
二人の会話を聞いて不思議に思うのはユイもヒデさんも同じである。
「なんですか?その『オダ』っていうのは。」
「あたしがここへ嫁いで来る前に勤めてた所さ。まあトンカツ屋さんだよ。揚げもんをやらせりゃあたしが知ってる中じゃピカイチだね。そこへ行って絶品のアジフライを覚えておいで。それまでウチの店じゃアジフライは出さないことにする。」
「ところでその店には何か曰くがあるんですか?」
「あたしが辞める時にね、引き止められたのさ。あそこの息子にってね。でもあたしはこの人と一緒に店をやりたいってことで、強引に辞めてきたのさ。そこの一人息子に恋人がいるのを知ってたしね。昔の親っていうのは大きなお世話だよ。」
「ホントはそこの跡取り息子が好きだったとか。」
「あははは、そうじゃないよ。ホントにこの人の後を追っかけて辞めてきたのさ。今ではそこの女将ともずっと懇意にしてるんだよ。だからあたしの頼みなら絶対に断らないと思うよ。今回は理由が理由だけにね。」
どうやら『もりや』の女将と『織田』の女将はそれ以来、懇意に付き合っているようだ。お互いに「ユキちゃん」、「シズちゃん」と呼び合うほどに。そんな話を自信満々に話す女将にヒデさんも納得せざるを得なかった。
「ユイちゃんはそれでいい?」
「はい。ぜひお願いします。頑張ります。」
こうしてユイはしばらくの間『もりや食堂』を離れることになったのである。
恭介の知らない間に、「恭介復活計画」が粛々と予定され、すでに第一段階ともいえるユイの出向と『もりや食堂』の受入態勢が整い始めていたある日の午後のこと。『もりや食堂』に新たな客が戸を開いていた。
「ごめん下さいまし。」
一見、田舎から出てきたとわかる白髪がそろそろ目立つ五十過ぎのご婦人だった。
「はい、いらっしゃいませ。空いている席へどうぞ。」
「いえ、すみません。コチラの女将さんでしょうか。私、角田恭介の母です。恭介からコチラさんのことを聞いておりまして、その、伺わせていただいた次第です。」
そういい終わると、恭介の母と名乗るご夫人は床にひれ伏して土下座していた。
「この度はウチの馬鹿息子が大変ご迷惑をおかけしまして、本当に、本当に申し訳ありませんでした。」
突然のことに驚いた女将さんだったが、何となく事情が読めたので、慌ててご婦人を抱き上げて椅子に座らせる。
「お母さんですか。大丈夫ですよ、何にも迷惑なんて思ってないんですよ。今までにキョウちゃんがどれだけ私らを助けてくれたか。」
しばらく様子を伺っていた親方も厨房の奥から駆け寄ってきた。
「お母さん、キョウちゃんはとてもいい子です。いつもワシらのことを手伝ってくれたり、新しい客を連れて来てくれたり、いい息子さんじゃないですか。真っ直ぐで優しさや思いやりの深い子ですから。今回のこともちょっとだけ魔がさしただけなんですよ。」
親方の言葉を聞き終わり、泣き崩れる恭介の母。女将さんは黙って彼女の肩を抱いていたが、彼女の衝動が収まるのを待って話し始めた。
「お母さん。キョウちゃんは人殺しなんか出来る子じゃないんです。ちゃんとしてる子にはお天道様がちゃんと味方してくれるんですよ。」
その言葉の意味が解らない恭介の母は、女将さんの顔を見つめて次の言葉を待っている。
「どうやら正当防衛になりそうだって、色々な人から聞いてるんです。もうすぐ戻ってきます。そうしたら、うんと叱ってやりましょう。」
女将さんの言葉に安心したのか、恭介の母は女将さんの手を握り締めて再び泣き崩れた。
「キョウちゃんが戻って来るまでもう少し時間がかかりそうですけど、もう少しお待ち下さい。しばらくはコチラでお泊まりですか?」
「はあ、親戚がコチラにいるもんですから。そこへやっかいになっております。」
「じゃあ、進展がありましたら連絡させていただきます。それまでは私たちにお任せ下さい。幸い、キョウちゃんを応援してくれる人たちが一杯いますから。」
「ありがとうございます。何にもできなくて。ホントに申し訳ありません。」
「それよりなんか温かいもの食べて行ってくださいな。あんた、鍋焼きうどんぐらい用意してるんだろうね。」
すると、いつの間にか厨房へ戻っていた親方が、これ以上ない絶好のタイミングで鍋焼きうどんを運んできた。
「さあ、ウチの鍋焼きうどんを食っておくんなさい。キョウちゃんが帰ってきたら、一番に食わせようと思ってるんですよ。自慢の料理ですからね。」
女将さんのもてなしに、幾分か落ち着いた恭介の母親は、親方自慢の鍋焼きうどんに舌鼓を打ち、女将さんから大丈夫と念を押されて店を出た。
恭介の母は、それから二日間ほど、しげしげと店に通っていたのだが、やがては女将さんの説得に満足いったのか、親方夫婦に深く礼を述べ、何度も「恭介をよろしくお願いします」、そして「また来ます」と言い残して、栃木へと引き上げていったのである。
そうしている間にも暦は淡々と過ぎて行き、すでに年も明けていた。新しい干支があちらこちらで活躍している。
そんな正月の三が日も過ぎたある日、頼んでいた弁護士から朗報が入る。
「ああ、女将さん。釈放が決定しました。残念ながら保護観察付きですけど。」
「そうですか、それはこっちの思うツボです。」
「えっ?どういう意味ですか。」
「いえいえ、コチラの話です。本当にお世話かけましたありがとうございました。」
「あの米倉さんっていう人のおかげですね。あの人がいなければ今回の措置はなかったかもしれません。でも、無関係の人っていうことになっていますから、あんまり彼とは接触しないで下さいね。」
「解りました。ありがとうございます。それで、釈放はいつごろですか?」
「恐らくは明後日の午後あたりになりそうです。一通りの検分が終わって、書類の精査が完了すればすぐですよ。必ずお迎えの件、お願いしますね。」
「承知しました。」
こうして恭介の無罪放免が確定したのである。
恭介が包丁を持って米倉氏の店に飛び込んでから、おおよそ二週間が経った頃だった。
外では何も知らないスズメが、何事もなかったかのように電線で日向ぼっこをしている。そんな暖かな冬の午後だった。
朗報は雷電の如く掛け巡る。
女将さんが受けた電話で、まずは階段から下りてきた親方へと伝達された。さらに同じく質屋のマサやんに電話する。そして新年の挨拶と称して乾物問屋のご隠居に報告とお礼を述べに行った。
店に戻ってきて電話したのが『織田』だった。電話口に出たのは女将だったが、ユイに伝えて欲しい旨だけことづけた。あともうしばらくは頑張るようにと。
そして最後はヒデさんに。
あらかじめケータイの番号を聞いていたので、直接かけてみる。
ヒデさんはすぐに捕まった。
「ああ女将さん、あけましておめでとう。キョウスケの釈放が決まりましたか。」
「おめでとうございます。キョウちゃんの釈放は明後日の午後だそうです。ありがとうございました。」
流石に正月の三が日は食堂も暖簾を下げてはいないが、六日も過ぎると社会も動き始める。それと同時にいつもの『もりや食堂』が始まるのである。今日も昼から常連の客人が雑煮を食べに訪れていた。
「女将さん、キョウちゃんはまだ帰ってこないのか?」
「もうすぐだよ。たった二週間ぐらいしか経ってないのに、なんだか何年も会ってない感じがするよ。」
「なんだいなんだい、恋人を待ってるみてえじゃねえか。」
「詰まらないこと言ってんじゃないよ、バカ息子だよ。だから可愛いんじゃないか。」
厨房の奥では親方がなにやらせっせと動いていた。
「なんだか親方、いつもより楽しそうだな。」
「明後日から弟子が出来るからね。」
何人かの察しのいい客はニコニコ笑いながらうなずいていた。何も知らない客はすぐに目線がテレビに移る。女将さんもこの日は終始笑顔だった。
そして新しい年も明けた一月十日。
恭介の無罪放免の日が訪れたのである。
町では廿日戎の支度よろしく、あちらこちらで太鼓を叩く音や笛の音が賑やかに響いていた頃だった。
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