第3話 新しい生活を迎える朝
「こんにちは。女将さんいる?」
「ああ、ヒデさん待ってたよ。さあさあそこへ座りな。」
女将さんは厨房からは死角になるテーブルへヒデさんを座らせた。
「女将さん、アイツ大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だよ。もうどこへ出しても恥ずかしくないぐらい上達したよ。それよりもあっちの方はどうだった?」
「昨日見てきましたが、思いのほか上出来でした。向こうの女将さんも肩の荷を降ろしたって感じでしたよ。それどころか手放すのが惜しいと言ってましたからね。」
「そうかい、そうかい。さすがはユキちゃんだ、あたしの思ったとおりだったよ。」
残念ながら二人の会話はボクには聞こえていなかった。というよりはボクに聞こえないようにヒソヒソとしか喋っていなかったのである。
ボクは急須と茶を持って二人のテーブルに運んでいった。
「ヒデさんいらっしゃい。」
すると女将さんが慌ててボクを厨房へと押し込む。
「キョウちゃん、お前さんはまだ出てきちゃダメだよ。もう少し中で仕込みに集中しときな。ほら、煮込みの火が入ってないよ。」
「はい、わかりました。」
ボクは訳もわからずに厨房へ戻り、煮込みの鍋に火をつけた。
やがて奥から親方が現れて、今日の献立の打合せを始める。なぜかいつもより細かな注意を払いながら。特に魚の仕入れが今日は親方の特注だった。まだ箱の中身は知らされていない。それが不思議だった。
それにこのタイミングに限って親方から強制的に出汁の番をさせられる。暫くはコンロから離れられない作業である。
店の時計の針が十一時三十五分を指したころ、女将さんお待ち兼ねの客人が現れた。どうやら三人連れのようだ。ボクの立ち位置からは見えない。
なにやら少し騒がしい。
それでも女将さんがいつもどおりに注文を取り始めた。
「キョウちゃん、注文だよ。アジフライ定食二つね。」
「えっ?」
ボクは驚いた。店のメニューから消えていたアジフライ定食の注文だというのだ。しかも二人前である。いつも冷蔵庫にフライ用のアジがないことも知っている。
「親方、アジってあるんですか?もしかして今日の仕入れ・・・・・。」
「さすがキョウちゃん、察しが良いな。今日からアジフライ再開するんだよ。箱ん中開けてみな。」
親方に言われて冷蔵庫の中の仕入れボックスを開けてみると、確かにアジが入っていた。
ボクはアジを四匹取り上げ、まな板で開きにする。魚のさばき方はアジでもサバでも基本は同じだ。アジは硬いウロコとあばらの骨抜きを丁寧に行わねばならない。それを玉子とパン粉をつけて一気に油の中に投入する。
『もりや食堂』で作る初めてのアジフライ。本来なら客に出す前にヒデさんが味見をする段取りになっているはずだが、今日はヒデさんもいるとはいえ、ぶっつけ本番である。
「こんな感じでいいのかな、親方、どう?」
すると、薄っすらと含み笑いを浮かべている親方が強引に膳を並べていく。
正直言って自信などまるでなかった。親方がフライを揚げているところは何度も見てきたが、自分自身で作るのは初めてである。ハッキリ言って上手くいくはずもない。
それでも親方はボクの揚げた四枚のアジフライを皿に盛る。ボクが持って行こうとすると、それを制止して女将さんを呼んだ。そして女将さんはボクが作ったアジフライ定食を客人の前に並べている。
ボクはその様子を厨房からチラッと覗いていたのだが、不思議なことに気づいた。
一つ目には、その客人とヒデさんと女将さんとが同じテーブルについていること。二つ目には、確かに来店したのは三人のはずなのに、着席しているのは二人しかいなかったこと。
ボクは訳もわからず、テーブルの四人の息遣いを聞いているしかなかった。
「見た目はまあまあだね。それなりにはちゃんとできてるじゃないか。いい弟子を見つけたね。」
「コイツは面白いな。初めて作ったんだろ?まだまだだが将来が楽しみだ。あんたも長生きする目標が出来ていいじゃないか。」
恐らくは夫婦であろう二人の客人がボクの作ったアジフライを評価していたようだが、もちろん彼らの会話はボクには聞こえていなかった。
「そうだろ。あんたたちに頼んだ意味がわかったろ。これからのあいつのために必要な時間だったんだ。」
「わかったよ。でもオレたちが仕込んだあの子、雑に扱ったりしたら承知しねえぞ。」
「あたしが預けた子なんだ。あんな大事な子、無碍にするわけがないじゃないか。」
「そうだよね。シズちゃんが頭を下げてウチに預けてきたんだ。あとは親方とシズちゃんに任せようじゃないか。」
「ああ、後は頼んだぜ。それにしても面白いヤツだな。今度うちで預るのが楽しみだ。」
「そうかい、いや、そうだろう。ははははは。」
といった会話がされていたようだが、何も聞こえていないボクは厨房の中でただアジフライの顛末を心配していただけだった。
そこへ親方が入ってきてボクの肩を叩く。
「おい、不合格だってよ。」
それはそうだろう。見よう見真似だけで作ったアジフライ。上手くいった筈もない。
「明日からちゃんと教えてもらえますか。」
ボクがそういうと、親方は首を振って答える。
「明日からウチのフライはあの子に作ってもらうことにする。おいで。」
そして厨房の中に入ってきた姿を見てボクは二の句がつけないほど仰天した。
「えっ、ユイ・・・。」
そこには、紛れもないあのユイがボクの目の前に立っていた。
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