第2話 十二月の朝から始まった
ボクは留置場に拘留されている。
ねずみ色の壁、薄暗い蛍光灯、小さくて高い場所にある窓。
どれもテレビや映画で見たことのある風景とさほど変わりはない。
ボクの痛みは、両腕と手のひらにいくつかの切り傷がある程度で、入院の必要も手術の必要もなかった。傷によっては、何針かは縫ったらしいけれど。
どうやらボクはヤツを刺したようだ。「ようだ」というのは、ボクもさほどクッキリとココまでの顛末を覚えていないからである。
ユイを探しに繁華街をうろついていて、ヤツの顔がキラキラと宣伝されている看板を見つけた後、金物屋に行って包丁を買ったところまではなんとなく覚えているのだが、その後でそれを持ってホストクラブの店内に入ってからは、朧気な記憶しかないのだ。
きっと店内のフロアにヤツの姿を見つけて、その勢いで刺したのだろう。そしてヤツは死んだらしい。とうとうボクは殺人犯になってしまったのか。それでもいいと思った。ユイがボクの下を去った今、ボクには他に何も失うものはないのだから。
病院から留置場に身柄を移されてからというもの、毎日のように刑事がボクを取調室に呼び出して、色々と聞き出そうとする。
しかし如何せん、本当に朧気にしか覚えていないのである。途中、弁護士と名乗る人が現れて、やはり刑事たちと同じように当時の状況やボクに関する事実確認をしていく。
ボクは彼らに立ち向かえるだけの気力も意欲も全くなかったと言ってよかった。すでに金物屋で刃物を購入した時点で、自爆自棄になっているのだから、まさに勢いは早く殺してくれと言わんばかりだったのである。
自らの罪の意識と絶望感だけを味わう日々が何日か続いたある日、ふとしたことに気付く。どうやらボクの担当となっている弁護士の先生がやけに馴れ馴れしいことを。そしてその弁護士先生は、ボクの知り合いからボクの弁護を依頼されているらしいことを。そんなことに全く身に覚えのないボクはとても不思議な感じだった。
逮捕されている以上、取り調べが行われるのは当たり前のことだが、どうやらボクの発言からは何かを証明できる、またはボクの犯行を裏付けるための事実を引き出すことができなかったようだ。つまり担当刑事はかなりイライラしていたのである。
しかし取調べが続いて何日かしたある日、突然弁護士の声色が変わった。持って行った刃物の形状やどんな長さだったのかを細かに思い出すように言うのだ。
「確か細身の包丁で、長さは二十センチを超えていたような気がします。柄の色や形は覚えていません。」
「もしかしたら、無罪放免というわけには行きませんが、正当防衛が認められるかもしれませんよ。」
弁護士が言った話がよく解らなかったのだが、その後の取調べで刑事が持ってきた、いわゆる【犯行に使われた凶器】というのが、ボクに見覚えのない包丁だったのである。
その後、ホストクラブの店長やスタッフなどの証言により、ボクの正当防衛が立証されることとなり、少なくとも殺人罪や傷害致死罪などは免れることとなったのである。
弁護士から聞いたところの顛末はこうである。
ボクは包丁を持って店内に侵入した。そしてヤツを見つけると、ヤツに向かって一目散に駆け出したが、その間にいた他の店員に包丁を叩き落され、逆に両の腕を羽交い絞めにされてしまった。さらにヤツから何度か殴られ、蹴られているうちに、テーブルに備え付けてあったフォークが零れ落ちていて、それを手に触った弾みでボクが掴んだ。その様子を見たヤツはキッチンに駆け込み、包丁を持ってきて逆にボクを刺そうとした。ヤツも相当狼狽していたに違いない、頭の上まで振りかぶってから振り下ろした包丁は、ボクの目の前をかすめて通過したが、その一撃が空を切った拍子にボクがヤツの両腕を掴んだ。そしてそのまま倒れこむようにもつれ合い、二人が包丁の奪い合いをしている最中に、包丁の切っ先がヤツの胸板を貫いた・・・。ということらしい。
ボクの両腕の傷はその時にできたものだという。さらにヤツがボクに包丁を向けた時には既にボクの手からはフォークが取り上げられていたことも、店長他のスタッフたちから証言されている。
つまりは、状況だけで言うと、何も持たないボクに対して凶器を持ったヤツが襲い、それを防ごうとしている間に起こった行為だと見なされたのである。
しかしながら、店内に侵入したことは明らかに不法侵入であるので、この分については罪を認めざるを得なかった。
それでも結果的には店側が被害届を出さなかったこと、さらに弁護士から聞いた話によると、ヤツは店でも人気のホストではあったが、性格が横暴なため、店長や他のスタッフからの評判はすこぶる悪かったらしい。そういったことも、ボクを有利な方向に導いた要因となった。
この経緯についてはボク自身に記憶がないのだが、第三者の証言が複数出てきたため、警察もようやく起訴を断念したようだ。
しかし、店が被害届を出していないとは言え、包丁を持って押し入っているのだから、全くの無罪放免という訳にはいかず、身元引受人の保護観察をつけるという条件での釈放が、色んな方面へ向けて丸く収める形ということだったらしい。そして、その身元引受人として名乗りを上げてくれたのが、『もりや食堂』の親方と女将さんだったのである。
逮捕劇から一転釈放となったのは、新しい年も明けた一月の八日頃だった。
町では十日恵比寿の支度よろしく、沿道のあちらこちらで彩り賑やかに飾り付けが華やいでおり、太鼓を叩く音や笛の音が耳に入ってくる。
放免の日、親方と女将さんがやってきた。警察署の玄関では全ての警察官らしい人たちに挨拶をしている。やがて玄関を通り過ぎ、ボクを連れて出た担当官に深々と頭を垂れて挨拶をした。
「大変お世話になりました。」
その直後である。
==バシッイイイイイイッ!==
ボクの顔を見るやいなや、大上段に振りかぶった平手打ちがボクの頬をこれでもかというぐらいにヒットした。
「この、おおバカヤロウ!一体、どれだけ心配したと思ってるんだい!」
解ってはいたが、渾身の一撃だったと見え、ボクの体は小石のように吹き飛んだ。
怒号と平手打ちはほぼ同時だったが、口より手が早いのは女将さんの性格上、仕方のないことである。しかし、女将さんの目は真っ赤に染まっており、目からは大粒の涙がボロボロとこぼれていた。
「なんて大それたことをしでかすんだい。なんでアタシに相談してくれなかったんだい。」
そう言い終ると、誰の目を憚ることなくボクを抱きしめ、おいおいと泣き出した。
「ゴメン、ゴメンよ。ボクもなんだか訳わかんなくて、もう頭に血が上ってしまって、一気に行っちゃったみたいだ。みんなに迷惑かけたね。ゴメンネ。」
親方がそっとボクの肩に手をかけて、優しく話しかける。
「こいつはな、ニュースでキョウちゃんの事件を見た時からずっと無罪を信じてたんだぜ。ワシはキョウちゃんならやったかもしれんな、なんて言ったらえらい剣幕で怒鳴られたもんだ。でもその通りになって良かった。ホントに良かったよ。」
「親方も女将さんもありがとう。この恩は一生かかってでも返すよ。」
涙を拭った女将さんがようやく笑顔になる。
「当たり前だよ。これからはアタシたちの目の見えるところに監禁するんだからね。」
その言葉を聞いて側にいた警察官が女将さんを嗜める。
「監禁はダメですよ。」
「わかってますよ。アタシの目の届くところに置いといて、目を輝かせておくってことですよ。」
「でも女将さんの一発のおかげで完全に目が覚めた気分だよ。色々とありがとう。」
ボクは心から親方夫妻に感謝した。
さて、今後の去就についてだが、ボクが住んでいたアパートは女将さんらの計らいもあって、ユイを追い求めて放浪していた当時のままになっていた。とはいえ、あれからまだ一ヶ月も経過していないのである。
まずボクがすべきことは、ヤツのいたホストクラブの店に謝罪と挨拶に行くことであった。店側の意向はどうあれ、ボクが迷惑をかけたことには違いない。少し早い夕方の時間帯。ありきたりの饅頭ではあったが、一応手土産を持って挨拶に出かけた。
対応してくれたのは店長であった。店長というのは四十歳半ばぐらいか、肌の色がやけに黒いお兄さん。パシッと決めたスーツ姿が凛々しい。
「その節は大変ご迷惑をおかけしまして申し訳ありませんでした。」
ボクは深々と頭を下げた。どんな人か解らなかったし、怖い人ならいきなり殴られるかもぐらいの覚悟はしていた。
「やあ、このたびは災難だったね。ウチの若いのが迷惑かけたそうじゃないか。」
「えっ?」
「事情はアイツの弟分たちから聞いたよ。悪いのはアイツの方じゃないか。あとの二人にも厳重に言い聞かせてあるから、今後もキミには迷惑のかからないようにするよ。まあ、ウチもアイツには手を焼いていたところなんだ。キミがやらなかったらオレがやってたかもな、ははは。いや、それは冗談だけど。」
「あのう、ボクのせいで壊れた物とかありますか。弁償しますので言ってください。」
「別に何もないよ。それよりもあの騒動のおかげで、あれ以来、客の入りが増えてね。世の中は野次馬だらけだよ。逆にキミに感謝してるところさ。売上は三倍になったよ。それよりどうだい、お前さんもそこそこハンサムだし、いっそのことウチで働かないか?」
思わぬ申し出に少し驚いたが、ボク自身がもてた事もなく、男前だとも思ったこともないし、酒を飲む仕事に耐えられそうにもなかったので丁重にお断りしたのだが・・・。
「そうかい、でも考えが変わったらいつでも連絡しておいで。考えてやるから。」
受け取った名刺には、【店長 米倉賢蔵】と書かれてあった。
謝罪さえ済めば、長居は無用である。相手の気が変わらぬうちに、退散した方が良さそうだと思い、再度礼を述べて店を後にした。
最後まで親切な対応をしてくれたのが印象に残った。
次にボクはクビになった会社にも挨拶に行った。元の上司に会うためではなく、先輩のヒデさんに会うためである。
身元引受人は親方夫妻となっているが、ヒデさんも名乗りを上げてくれたと聞いたので、報告とお礼を言いに行ったのである。
見慣れた会社の受付ではあったが、遠慮がちにヒデさんを呼び出してもらう。受付の彼女も知らない仲ではなかったが、やや警戒気味な表情だった。
少し待った後、いつものように陽気な顔で現れるヒデさんがいた。
「よお、元気だったか?って言うのも変かな?まあ、入院してたわけでもないし、あとは気持ち的なもんだけだな。ちょっと外へ出るか。」
そういってヒデさんはボクを会社の外へ連れ出した。
すぐ近くに喫茶店がある。ボクも会社にいた頃たまに利用していた店だ。
ボクたちはコーヒーを注文してから二人がけのシートに座った。
「ヒデさん、この度はご迷惑をおかけしてすみませんでした。」
「オレには迷惑なんてかかってないぜ。それにしてもお前、大胆なことするよな。昔っから大人しい奴ほど何するかわからんとは言われてはいたけどな。」
「言い訳はしません。でも殺したかったのは事実です。殺意はありました。」
「ばーか。お前見たいなヘナチョコが向かって行っても返り討ちにあうのが普通だよ。今回は運よく命拾いしたけどな。その命、大事に使えよ。」
「でもボクは、今は何も考える気力がありません。」
ヒデさんは、ボクを諭すように話し始める。
「何のために、『もりや食堂』の親方夫婦が身元引受人になったと思う?あの人たちが自分たちでお前の身柄を完全に預ろう、再生させてやろうっていう腹積もりなんだぜ。だからオレはあの人たちにお前を任せることにしたんだ。」
ボクはヒデさんが言ってる意味が理解できなかった。困惑した顔をしていると、ニヤッと笑ってボクを指差して言った。
「お前はあの食堂に就職するんだよ。」
「えっ?」
「親方も女将さんもそれなりの歳だ。後継者もない。そこでお前を後継者に仕立てようっていう考えなんだよ。これはもうお前に選択権はないんだ。どうせ仕事なんか探したってすぐにあるわけじゃないし、不起訴になったとはいえ、お前さんの名前はニュースで出ちまったからな。簡単に就職できるとも思えない。現にウチの受付の女の子たちも怪訝な顔をしてただろ?」
そういうことだったのかと思った。後で聞いたところによると、十二月某日新宿のホストクラブで殺傷事件があり、店員が刺され、角田恭介なる容疑者と共に病院に運ばれたという内容の報道が、テレビやラジオで何度か流れたという。
つまりはボクの名前は容疑者として報道されているのである。その後、正当防衛が認められたというニュースまでは流れていないため、世間的に言えばボクは容疑者のままだ。
「だからな、お前さんは色々な意味を踏まえて、親方と女将さんの世話になるしかないんだよ。暫くは何もかも忘れて一生懸命働け。そして親方と女将さんに恩返しするんだな。
それが一番なんだよ。未来のお前の幸せのためにも。」
「えっ?どういう意味ですか?」
ヒデさんは一瞬はっとした表情になったが、それを打ち消すように言葉を続ける。
「未来のことだからわからんが、お前に店を継いでもらいたいって思ってるようだよ。」
「その話はまだユイがいる時に一度聞いたことがありますけど、半分冗談だって言ってたような気がするんですが。それにあのときはユイとセットだったと思うし。」
ヒデさんは少し難しそうな顔をしたけど、すぐに表情を取り直してボクの肩を叩く。
「とにかく、一度体ごと預けてみろ。オレもちょくちょく様子を見に行ってやるから。」
ヒデさんが知っているということは、以前から親方たちと既に話が済んでいるということである。とはいえ、ボクの去就については何も決まっておらず、親方と女将さんがそうしろと言うのなら是非はない。今のボクには選択権は無いに等しいのだから。
「わかりました。ボクにできる恩返しって、それぐらいしかありませんよね。
ボクはヒデさんに挨拶を済ませると、その足で『もりや食堂』へ向かった。
店では既に親方と女将さんが手薬煉を引いて待っており、少し不安げな表情をしながらヒデさんから何か言われなかったかと尋ねた。
「女将さん、ヒデさんから聞きました。ボクの働き口まで考えてくれていたなんて感激です。ボクには他に選択肢はありません。親方と女将さんに恩返しをさせてもらうだけです。一生懸命働きますので、弟子が出来たと思って厳しく仕込んでください。よろしくお願いします。」
親方も女将さんも涙して喜んでくれた。おおよそボクにこの話をするのもヒデさんであることが決まっていたようだ。
こうしてボクの放免後の去就が決まったのである。
するとその様子を見ていたある人影が店の奥から現れた。
誰だろうと思って目をこすってみてみると、それはボクのお袋だった。さすがに北関東でもニュースが流れたらしく、栃木の実家でも両親がかなり気を揉んでいたようだ。
お袋には『もりや食堂』のことは話してあった。近所に居心地のいい食堂があって、いつも世話になっていること。親方も女将さんにも懇意にしてもらっていることなど。
その情報を頼りに、ボクの知らない親戚の家に身を寄せながら、ここまで尋ねてきたようだ。しかも年が明けてからの数日間、毎日のように店に訪れてはボクの帰りを待っていたらしい。
「この馬鹿たれが、色々な人に迷惑をかけよって。お父さんはもうお前のことは勘当すると言うとる。もう帰って来る家はないと思って、親方や女将さんによう奉公しなさい。」
「ゴメンなお袋。親父にも謝っておいてくれ。食堂の親方と女将さんにちゃんと恩返しできるまで、家には帰らんとな。」
女将さんはボクとお袋の間に割って入り、
「お母さん、キョウちゃんのことは任せておいてください。元々ちゃんとしてる人だし、全然問題ないと思ってます。あまり心配せずに待っていてください。お父さんにもそう伝えてあげてください。」
そういうとお袋は親方夫婦に深々と頭を下げた。
「そろそろいいだろ。」
親方が厨房の奥から声をかけた。そしてグツグツと煮えたぎった鍋焼きうどんをボクの目の前に運んでくる。
「コイツをな、お前さんに食わしてやろうと思ってな、ずっと待ってたんだ。これ食って温まって、明日から再スタートだ。」
鍋焼きうどんは『もりや食堂』の自慢の一品である。いい素材をたんまり使っているので、普段気軽に注文するには少々お高いメニューなのだ。だからボクは今まで一度しか食べたことがなかった。
今思い出したが、その一度とは『ムーンライトセブン』で若葉が卒業してからしばらくして、萌愛を初めて指名した次の日だった。若葉がいなくなって寂しく思っていた矢先に触れた萌愛の笑顔が印象的だった。何か予感があったのかもしれない。
何だか急に鍋焼きうどんを食べたくなったのを覚えている。萌愛と出会えたお祝いのつもりだったのだろうか。あの時は、まさかこんな展開になるなんて、これっぽっちも思っていなかったけど。
親方はボクの分だけでなく、お袋の分まで用意してくれており、久しぶりにお袋と食事をすることになったのである。ボクたちはほとんど会話を交わすことなく、ひたすらうどんをすすっていた。時折目を合わせて、お互いの表情から何かを見つけ出そうと試みるが、かける言葉が見つからない。そんな時間だった。
それでも、お袋はボクの顔を見て安心したのか、ボクのアパートにも寄らずに、女将さんに何度も礼を述べて、その足で栃木へと帰って行った。お袋がやっとの思いでボクに言った言葉は、
「女将さんにちゃんと恩返しするんだよ。」
ボクはその言葉を胸に刻み込み、お袋を見送る。「元気でな。」ボクはそれしか言えなかった。「少し痩せたかな。」と思える後ろ姿が印象に残った。
この日から『もりや食堂』におけるボク自身の戦いの日々が始まるのである。
その晩、さらに懐かしくもある食堂の肉じゃが定食を食べ、店の中と厨房の様子をしっかりと目に焼き付ける。
その晩のうちに仕事を早めに終えたヒデさんが駆けつけてくれた。女将さんもどうやらヒデさんが来るのを待っていたようだった。
「こんばんわ。女将さん、その後はどうでした?」
「いらっしゃい。流石はヒデさんだね。あんたが書いた筋書き通りに事が運んでいるよ。」
ボクが二人の会話に目をパチクリしながら聞いていると、女将さんがボクの方を振り向いて話しかける。
「今日の演出はみんなヒデさんのシナリオだよ。キョウちゃんはホントにいい先輩を持ってるねえ。うらやましいよ。」
「お前はどう思ってるか知らないが、オレはお前のことを本当の弟だと思ってる。オレには姉さんしかいないからな。ずっと前から弟が欲しかったんだ。お前は見事にその役割を果たしてくれているよ。楽しいことも手が焼けることもな。」
ボクは黙って感謝するしかなかった。何かを話そうとすると、泣いてしまいそうだったからである。
「女将さん、今日まではコイツも一緒に飲んでいいんでしょ?今から恭介の激励会をするから、ビールとトンカツとマグロの刺身をよろしく。女将さんも一緒に飲もうよ。」
「ありがとね。いつまでもいい兄ちゃんでいてやっておくれよ。」
そういうと女将さんは奥からビールとコップ、それから大盛りの漬物を運んできて、以前の時のように宴会が始まった。
親方も奥の厨房でトンカツを揚げ、マグロを刻んで大皿に持って出てくると、三人の輪の中に入って来る。
そこへ、客が入ってきたからたまらない。
「いらっしゃい、ちょっと乾杯が済むまで待ってよ。」
親方はグラスのビールを飲み干して、またぞろ厨房へと逆戻りである。女将さんも客の注文を取りに席を立つ。
すると、ヒデさんがその機会を待っていたかのようにボクに耳打ちしてきた。
「ところで、ホストクラブの店長さんって、どんな人だった?」
何を聞くのかと思ったら、突然予想外のことを尋ねてきた。
「強面でしたけど、いい人でしたよ。ボクに店に来ないかって言ってくれるぐらい。」
「おまえ、そっちのほうが稼ぎは良かったんじゃねえか。」
「たぶん冗談ですよ。ボクなんかが勤まる世界じゃないです。それに、ボクはそんなところで一人前になっても、女将さんの恩返しにはならないと思います。」
「正解だな。お前、やっと元通りのキョウスケに戻ったな。そんな感じがするよ。しばらくは、余計なことは忘れて、食堂の仕事を一心不乱に打ち込むことだ。」
「そうですね。元々台所仕事は嫌いじゃないですから、結構頑張れると思います。ヒデさんもたまには様子を見に来てくださいね。」
「ああ来るとも。オレも身元引受人の一人だからな。」
「ええ?そうなんですか?」
「まあな、みたいなモンだ。」
ほぼヒデさんの筋書き通りに事が運んだためか、この日のヒデさんは終始機嫌が良かった。帰り際、意味深なセリフを残して去って行ったけど。
「お前さんがちゃんと責任を果たせるようになったら、女将さんから連絡が来ることになっている。その時まで絶対に気を抜くなよ。」
「何のことですか?」
不思議そうに首をかしげているボクを尻目に、
「じゃあな。」
そう言って颯爽と店を後にしたヒデさんだった。
そして、それから数日置きにボクの様子を見に来るようになるのである。
その夜、ボクは店の片づけを手伝って、明日から本格的に弟子入りすることを約束して、ようやくアパートへ帰ってきた。
静かな伽藍堂の空間に少なからず寂しさを覚える。
ユイがいた頃の痕跡はもうない。お揃いのマグカップも箸も茶碗も。
コンクールで入賞したパネルさえ、そこにはなかった。誰かが処分したのだろうか。ボクがユイのことを思い出さないように。これも親しい人の配慮だと思うと、怒る気にはなれなかった。
ボクは引き出しを開けてカメラを取り出していた。
データはパソコンの中に入っている。しかし、今は過去を振り返ることはよそう。そう言い聞かせて再びカメラをそっと引き出しの中にしまい込んだ。
新しい道のりへの夜は更けて行く。明日からは新しい朝日が昇る。
自分を取り戻すために費やす時間と日々が明日から始まるのである。
今宵は無駄な夜更かしをせず、静かに眠ろう。
ボクの慌しかった放免一日目はこうして終わったのである。
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