エピローグ

「かんぱーい!」

 僕らはグラスをぶつけた。涼やかな音が連続する。

「しかし、相変わらず広いよねえ」

「そう?」

 陽向はグラスを半分ほど空けると、ぽつんと答える。彼にとっては慣れっこなのだろう。凛香は酒が飲めないので、ウーロン茶を少し飲み込んで、隣の僕にもたれ掛かる。せっかく一人に一つ、椅子が用意されているというのに、これでは意味がない。

「もー、早速いちゃついて」

 向かいに座った洋子が呆れたように目を細める。僕は苦笑して右手を頭の後ろへ遣った。この癖は未だに治らない。親友の前とはいえ、照れくさいものは照れくさい。

「洋子もくっつきなよ」

「私たちは場所を弁えてますー」

「ほら、凛香」

 別に、凛香と離れたかったわけではないけれど。凛香は僕の手をぎゅっと握ってから、しぶしぶ離れる。

 三年前の夏以来、彼女は事ある毎に触れてくるようになった。もう、遠慮は要らないと言わんばかりに。僕もそれを知っていて、凛香を受け止めるようにしている。実際、それは僕にとっても幸せなことだった。

「そう言えば、二人はまだ、我慢してるの?」

 凛香が無遠慮な質問をぶつける。洋子はほとんど吹き出しそうになりながら、なんとか堪えたらしい。

「訊き方ってものがあるでしょう!」

「ねえ、どうなの陽向?」

 凛香はお構い無しに、ターゲットを陽向に変更した。陽向はビールを注ぎ足しながら、少し考える素振りを見せて、曖昧に頷いた。凛香は大袈裟に落胆する。

「なんだよー、ほんとに?若い男女が三年も付き合ってて、ほんとなの?」

 二人は未だ、キスすらしていないのだという。正直、僕も信じられない。けれど洋子はともかく、陽向が嘘を吐くとは思えない。たぶん本当なのだろう。

「もういっそ、今しちゃえば?見ててあげるよ?」

 凛香は高校を卒業してから、余計に明るくなった。と同時に、口が軽くなった。憂うものが消えて失くなったからだろうか。

 洋子は大きくグラスを傾ける。両手で、抱えるようにして。

「…凛香あ。昔はもうちょっと、おしとやかだったのに」

 アルコールのせいか、心持ち頬が紅い。陽向は二人のやり取りを眺めて、楽しそうに微笑む。


「…いつもの事だから、心配要らない」

 陽向は慣れた手つきで洋子を抱き上げた。それでも、洋子は起きる気配を見せない。

「洋子、お酒弱いよねえ」

 凛香が洋子の頬をつつく。洋子は「んっ」と声を漏らしただけで、目をあけない。

「ちょっと、運んでくるよ」

 陽向はそう残すと、洋子を起こさないようにゆっくりと歩き出す。だが、部屋を出る間際、僕のほうを向いた。

「奏陽。あとで、二人で話したい」

 陽向はそのまま出ていった。凛香はすかさず僕に抱きついてくる。酒は一滴も飲んでいないのに、僕より上機嫌だ。

「なんだよう。仲間はずれ?」

「そんなわけないでしょ」

 僕が髪を撫でながら答えると、凛香は上目遣いに僕を見た。未だに弱い。

「ちゃんと帰ってきてね?」

「大袈裟だなあ」

 凛香は声をあげて笑う。その笑顔に、今日も安心する。


「で、話って?」

 僕らは庭に出た。大きな月が綺麗に見える。まるであの夜に戻ったみたいだった。

「あのね、これは、伝えるか、悩んだんだけど」

 陽向はそこで言葉を切った。僕は足元の白いアザレアを眺めていた。

「…凛香のなかに、凪咲さんの記憶が見えるんだ」

「えっ」

 耳を疑った。凪咲の記憶が、凛香の中に?

「話した方が、いいかと思ったんだ。でも、奏陽を混乱させたくなかったし、二人はもう幸せそうだったから、言わなかった」

 それは、陽向の純粋な善意なのだろう。彼は僕らをかき乱したくなかったのだ。

 それにしても、そうか。凛香の命をつないだのは、凪咲だったのか。僕はえも言われぬ感覚に襲われる。凪咲は僕を救い、凛香まで救ってみせたのだ。

 生きなければ。そう思った。


「んー、楽しかったねえ」

 翌日、僕らは電車に揺られて帰った。同棲するようになって、はや二年が経った。日曜の昼、胃は満たされ、僕は幸福な眠気に浸っていた。

「えー、眠そう。つまんないなあ」

 凛香が拗ねたように言って、僕の腕を掴んだ。そのまま抱きついて、僕に密着する。彼女の身体は温かくて、さらに眠くなる。

「家に着いたら、たくさん構ってあげるから」

 僕は目を瞑りながら言った。


 リビングのソファに腰掛けて、テレビを眺めていた。

「ねえ、結局、陽向と何の話してたの?」

 凛香は僕にもたれかかったままで訊ねる。少し悩んだけれど、真実を伝えることにした。

「陽向の体質は憶えてるよね?実は、君のなかに、凪咲の記憶が見えるらしい」

 凛香は動かず、口を閉ざした。しばらくの静寂が訪れる。

「…そっか。わたしは、凪咲さんの命を、分けてもらったんだね」

「うん。そうみたいだ」

「じゃあ、これからも頑張って生きていかないと。凪咲さんの分も、さ。今度は、わたしたちが命をつなぐ番だから」

 命をつなぐ。なんだか不思議な感じがするけれど、たしかにそれは、絶えず行われてきたのだ。いつか、凛香と花畑へ行ったことを思い出す。たしかあの時、そんな話をした。

「ね、僕、いま何色にみえる?」

「ん?オレンジだよ?いつも通り、綺麗な色」

 こうして、凛香と幸せな生活を送っていても、僕のオレンジは失われないらしい。僕らは奇跡によって生かされている。それを運命と呼ぶか否かはさておき、一つでも狂ってしまえば、あり得なかった時間を生きている。

「…ねえ、キス、しよ」

 僕は凛香に従い、唇を重ねた。ずいぶん長いキスだった。ようやく離れた凛香は、ほんの少しだけ頬を赤らめる。

「たくさん構って、くれるんだよね?」

 僕の目を、じっと覗き込んでくる。もう長い付き合いだ。何が言いたいのかは大体解る。

「…お風呂、先に入っておいで」

 彼女の髪を優しく撫でながら答えた。凛香は立ち上がると、「はーい」と間延びした返事を残し、部屋を出ていった。

 僕も立ち上がって、身体を伸ばした。彼女から求めてくることは珍しい。普段はどちらからともなく、自然な流れで行われているからだ。今夜はなかなか解放してもらえそうにないな、と思うと、苦笑が漏れた。ああ、幸せだ。


 窓際まで歩いていって、藍色の空を見上げた。陽は、もうほとんど残っていなかった。

 凪咲。僕はこれからも、生きていくよ。君がくれた命を抱えて、君がつないだ命を、この手で守ってみせるよ。僕らは、凪咲のぶんまで、命をつないでいくよ。

 近いうちに、お墓参りに行くね。次は、そうだな、感動的なラブストーリーでも持って行こうか。たまには、惚気のろけ話も聞いてほしいな。

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それでも、生きていく 不朽林檎 @forget_me_not

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