再会
目を覚ますと、僕の記憶はほとんど元に戻っていた、はずだ。というのは、この数日間に感じていた違和感が、ほとんど失くなっていたのだ。僕の大切な記憶たちも、すっかりクリアになった。もっとも、それらはやはりセンテンスとして与えられるのだけれど。もう、それを気にすることもなかった。
僕は機嫌がよかった。生きている、そう、実感できた。
僕の奥底にきちんと、積み上げられていたものを発見したからだ。システムは不完全だ。そう思えたのは、これのためなのだろう。僕は、まったく記憶に依らずに、感情を蓄積させていたのだ。当然、それは負のものも含む。いじめられた記憶について、僕が苦く感じていたのもそのためだ。まったく無味無臭なセンテンスしか残らないのならば、そんな感覚すらないはずである。
僕の人生は、彼ら無しでは有り得ない。僕の命そのものが、彼らを愛することに結びついている。それを、はっきりと理解した。
早く、伝えなくては。彼らに、とりわけ、凛香に。僕の大好きな人に。
「奏陽!」
陽向は歩いてきた僕に気づくと、文庫本を放り出し、席を立った。陽向と話していた洋子もこちらを向き、目を見開いた。
「おはよう、二人とも」
「八代くん。もう、心配させちゃってえ」
洋子が珍しく、強い口調で言った。たぶん、本気で心配してくれたのだろう。僕は自分の席に座りながら、二人の顔を交互に見た。やはり、これだ。
「奏陽。もう、身体は、大丈夫?」
「うん。記憶も、戻ったよ。たぶん、だけど」
陽向は満面の笑みを浮かべ、僕に抱きついてきた。愛情表現が激しいのはもとからのようだ。何人かに気づかれて、白い目を向けられた。陽向の肩越しに、洋子が困惑しているのが見える。
「ちょっと、陽向。へんに思われるから」
僕があえて無遠慮な言葉で窘めると、陽向は素直に離れ、それでも嬉しそうに笑っていた。僕はわざとらしく咳払いをした。いざとなると、恥ずかしい気もしてきた。
「ちょっと、二人に言っておきたいことがあってね」
二人が僕に注目したのを確認して、僕はゆっくりと言った。
「僕はこれまで、けっこう酷い目に遭ってきた。自分では打開することもできなくて、本当に、死ぬしかないんだと思ってた。でもね、僕には、ちゃんと心が残っていたんだ」
洋子には説明していないから、混乱させるだけかもしれない。しかし僕は続ける。
「記憶を失って、もう一度空っぽになって。それで、僕は気づいた。君たちがいたから生きてこられた。恥ずかしいから、一回しか言わない。僕は、君たちが大好きだ。それは僕の妄想でも、勘違いでも、逃避でもない。僕は自分自身の感情に依って、本気でそう思っている」
しまった。もう少し言葉を選べばよかった。これでは気障を通り越して、『ヤバい奴』だ。けれど、仕方ないだろう。誠実に、真直ぐ伝えようとしたら、こうなってしまったのだから。
陽向は目を瞑って俯き、何かを考えているようだった。洋子は、やはり混乱しているみたいだった。だが最後には、二人とも笑って、大きく頷いてくれた。よかった。どうしても、伝えておきたかったのだ。これからも僕らが、友達でいるために。
直後、洋子が思い出したように手を打ち、言った。
「あ、忘れるところだった。とってもいい知らせがあるの。凛香、手術できたんだって」
「えっ」
耳を疑った。本当は信じたくてたまらないけれど、突然飛び込んできた幸福に、僕はすこし面食らった。
「ほんとだよ?手術は無事成功して、今はちょっと会えないけど、またすぐに、お見舞いできるようになるらしい。三人で行こうね」
隣で陽向が頷く。
これまで、死んだように生きていたからだろうか。最近、涙脆くて困る。僕はまた、泣いてしまった。嬉し涙、なんてものが本当に存在することを、初めて知った。
「もー、どんだけ凛香のこと好きなの?」
洋子は半ば呆れたように言った。陽向も苦笑している。そんな事言われても、涙が勝手に出てくるのだ。僕のせいではない。こんなに心配させる凛香が悪い。彼女が元気になったら、どうしてくれようか。
「…で、君たちは、まだ付き合っていないわけだ」
「意気地無し、だと、自分でも、思う」
三日後、僕らは食堂で話していた。凛香の面会が許されるのは来週になってからだそうで、僕はもどかしい気持ちを押さえつけつつ、日常生活に戻っていた。
「僕は、その、洋子のこと、女の子として、好き、なんだろうか」
「でも、前に、心の綺麗な人と結ばれたいって言ってなかったっけ?」
「たしかに、思ってた、けど。本の真似を、してただけで、よく解ってない」
なるほど、あれも何かの受け売りだったわけだ。陽向はうどんを啜りながら、僕の顔をちらりと見る。やはり弱々しい。
恋。僕だって、全てが鮮明に理解できたわけではない。というより、僕の導いた結論は、なんだか屁理屈じみていて、安直なものとも言える。到底、偉そうに語れるものではない。けれど、少しくらいの助けにはなるかもしれない。僕は説教のような表現を避けるため、陽向に訊いてみる。
「陽向は、さ。洋子が居なくなったら、寂しい?」
陽向は躊躇なく頷いた。
「幸せになってほしいと思う?」
これにも、頷く。
「じゃあ、いま、細かい事を全部忘れて、洋子とは初対面だと想像してみて。それでも、君は、洋子を、奪いたいと思う?」
陽向は首を傾げる。しばらく何も言わなかった。僕はラーメンを味わいながら、じっと待った。
「よく、解らない。奪う、って、どういうこと?」
僕は、あえてその表現を使ったのだ。
「そのままの意味だよ。相手のことなんて考えずに、自分のものにする。いや、この際、自分のものになってくれるかどうかなんて、考えなくていい。絶対にそうしたいと、思うかどうかだ」
陽向はまた考える。彼にとっては残酷な質問かもしれない。そういったことに対して過敏な陽向は、安易な判断を下せないだろう。でも、だからこそ、陽向にはこの言葉がいいと思った。
やがて、陽向は水を含み、ゆっくりと飲み下してから答えた。
「したい、と、思う。できそうには、ないけど」
「なら、君はきっと、洋子が好きなんだよ。大丈夫。彼女ならきっと、喜んで向き合ってくれる」
結局、偉そうなことを言ってしまった。陽向は照れたように微笑み、小さく頷いた。
「久しぶり」
病院の面会室で、僕らはようやく、再会を果たした。僕は飼い主を見つけた犬のように、彼女に飛びつきたくて仕方なかった。会いたかった、そんな表現では足りないほど、僕はこの瞬間を待ちわびていた。
「凛香。身体は、もう平気?」
洋子の質問に、彼女は大きく頷いた。
「もう大丈夫。と言っても、元に戻るにはしばらくかかりそうだけど。悪い話は聞いてないよ」
「よかったあ」
洋子は凛香の手をとって、心底嬉しそうな笑みを見せる。凛香はゆっくりと手を動かして、洋子の頭を撫でた。
陽向はいつにも増して無口だった。凛香の顔を見てから、すっかり黙ってしまった。感極まったのだろうか。僕はすこし不審に思いながらも、今は素直に再会を喜ぶ。これ以上の悲しみは要らない。
洋子はひとしきり話し、陽向のほうを見遣る。陽向が小さく頷くと、二人は同時に席を立った。
「積もる話もあるけど、またにするよ。これからは時間もたくさんあるしね。それより、奏陽くんの話を聞いてあげて。もう見てらんないくらい、凛香にぞっこんなんだから」
洋子がそう言うと、二人は揃って去っていった。残された僕は、どうやって話し出せばいいのか、却って解らなくなってしまう。ちらりと凛香を見る。彼女はじっと、僕の言葉を待っているようだった。その瞳が優しくて、僕は泣きたくなる。
意を決すると、僕は凛香を真直ぐに見据えて、切り出した。
「凛香。まずは、約束を守ってくれてありがとう。僕は、本当に嬉しいんだ。言葉じゃ足りないくらい」
「どれくらい?」
「教室で君の事を聞いた時、誇張抜きで涙が出た」
凛香は口元を抑えて、くすくすと笑う。
「もー、そこまでされると、どうしよう…えー」
若干、頬を紅く染めている。きっと、僕も似たようなものだ。これまで臆面もなく話せていたのは、意識していなかったからだ。
「それでね、僕は、やっと、恋の意味が解ったかもしれない」
「…聞かせて?」
人と人は、タダでは解り合えない。
全てを諦め、塞ぎ込んでいた僕。純粋な感情を求め、さまよっていた凛香。傷つけ、傷つけられることを恐れていた洋子と陽向。僕らはみんな、孤独だった。それは妥協できない何かのために、自ら背負ったものだ。
僕らはみんな、どこか頑固で、敏感に危険を察知する。プラスのものを感じるより先に、マイナスを感じてしまう。そちらに目を向けることで、酸っぱいブドウを諦めるように、僕らは簡単に塞ぎ込む。
だが所詮、人間は空っぽのままでは生きていけない。僕らが、その虚しいという感覚によって、死ぬことは叶わない。それでも、生きていかなければならない。
だから、必死にもがく。誰もが、傷つきながら何かを探す。手を伸ばし合う。空っぽを捨てるために。僕はそこに、人間の
僕らはその営みの末に出会った。そうして一つずつ、確実に気持ちを積み上げてきた。この僕でさえ、何かを持つことに成功した。
正直に言って、僕は三人に対して、おんなじ種類の感情を向けている。みんなを、おんなじくらいに好きだ。区別なんてほとんどつかない。みんなが同じように大切だ。
それでも。
それでも、僕が凛香を優先してしまう理由。それこそが、恋の正体だ。具体的な形なんてちっとも見えない。それでも、僕は凛香に恋をしている。
結局、オレンジとピンクの違いは解らない。僕だって、凛香は可愛いと思うし、そういうことも、いずれはしたくなるのだろう。だから、僕にその欲が無いわけではない。肉欲に裏づけられた何かだと言われてしまえば、それまでだ。
今ならば解る。まったく関わりのなかった凛香を、突っぱねられなかった、その感覚。凛香を見た時、触れた時、胸が苦しくて仕方なかった、その感覚。凛香が居なくなるかもしれないと判ったとき、身を引き裂かれる思いで、自分を差し出したいと思った、その感覚。それは、まさしく恋だった。
つまるところ、恋とは人間への愛についての、詳細な表現である。
これこそが、僕の導いた結論だ。僕が三人に向けている気持ちは、どれも同じ。そのなかでも極めてつよく、僕を揺さぶるもの。それこそが恋だ。
僕はきっと、人間への愛を探していた。僕が三人との間で育んできたものは、間違いなく愛だ。人を想い、自分が傷つくことをさえ厭わないほど、他者を求める気持ち。それが、もっと本能的に、意識できないレベルから掻き立てられるのが、恋だ。
凛香の外見、内面、僕にくれた記憶。それら全てが、僕に恋をさせた。かけがえのない人々のなかでも、一際まばゆく輝いた。自分を投げ出しても、何かを失っても、半ば暴力的に奪っても。それでもいいから、一緒にいたいと思うのだ。
僕は彼らを愛している。そして、凛香に恋をしている。
僕はようやく、自分の命を肯定できた。
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