救い
翌日、僕は精密検査を受けることとなったが、特に異常はなく、数日で退院を認められた。記憶の違和感も、事故による一時的なものだと考えられたらしい。注意は必要だが、生活に支障がないなら問題ない。しばらく様子を見よ、というのが、医師の判断だった。そもそも、脳に異常がなく、曖昧なことばかり言う僕のことを、医師は信じられなかったのかもしれない。
実際、僕の記憶の異常を説明するのは難しかった。少なくとも、日常生活に支障をきたすものではないだろう。僕は確かに、自分の状況を解っているし、周囲の人間のことも、必要最低限には解る。
退院の日、僕は部屋に篭もり、じっとしていた。それはなんだか、僕を哀しい気分にさせた。どうやら、凪咲に出会う前の記憶については、ほとんど損傷がないらしかった。もちろん、真実は誰にも判らない。ただ、それ以降の記憶と比較すると明らかに密度が高く、僕自身も、それに違和感を覚えなかった。証拠はそれだけだが、僕を納得させるには十分なものだった。
なんとも残酷な記憶喪失だ。どうせなら、こちらを忘れてしまえたらよかったのに。ひどく陰惨な記憶ばかりが残っている。
憶えてはいるが、実感がもてない。一見すると、僕は昔のように戻ってしまった、らしい。解らない。それ自体もセンテンスから読み取ったことだ。
ただ、僕は、四人の人間について、明らかに特殊な感覚を持っていた。凪咲、凛香、陽向、洋子。この四人は、僕の記憶に依らず、もっと深い何か、そう、感情と言えばいいのか、たぶんそんなものを揺さぶった。
おそらく、普通のことなんだと思う。人間が感情を持っているなんてことは。ただ、僕はどうやら鈍いらしい。それは、過去の自分を振り返るだけでよく解った。そんな人間だったようだ。
だから、気味が悪かった。記憶と感覚の不一致。どうにも今の僕は、そんなふうではないように感じられるのだ。ちゃんと、何かを思っている。ひどく曖昧だが、確かに、僕は記憶に依らず、何かを感じている。病院でのことだってそうだ。僕は陽向との思い出なんて憶えていないけれど、たしかに、寂しいと感じたのだ。陽向に、離れてほしくなかった。
さすがに飽きて、眠くなってきた頃、僕は思い立って、すこし外を歩いてみることにした。以前なら誰かを誘っていたところ、なのかもしれないが、とても、そうする気にはなれなかった。胸の奥底に、そんな欲求は感じるのだが、今はただ混乱していた。僕はその欲求に従うだけの気概を持っていなかった。
怠い。この状態になって感じることは、それだけだ。
街路樹が並んだ歩道を、ふらふらと歩いている。僕は独りぼっちだった。不意に、何かを思い出す。
ああ、そうだ。以前、これを見て僕の人生みたいだと思ったのだ。何の変哲もない、ただ穏やかなばかりの道。誰も僕を意識しない。生きているだけ。ただ、生きているだけ。
歩いているうちに、あの公園の前を通りかかった。今日は先客がいた。恐らくはカップルだと思われる。二人は肩を寄せ合って、すっかりリラックスしているようだった。それはひどく幸せな光景にみえた。互いを想い合っているからこそ、あんなふうに寄り添っていられるのだろう。
胸がずきりと傷んだ。同時に、彼女の名前が頭に浮かんだ。どうしてだろう。考えてみても解る気がしなかったが、とにかく切ない気持ちになって、僕は足早に歩き去った。
凛香。
もっとも強い感情を僕に与えるのは、彼女だった。美少女。救世主。外見についての特徴も憶えている。もちろん、画像として顔を思い出すことはできないけれど。寿命が縮んだ、らしい。僕はそれを悲しみ、けれど、彼女の大切さを再認識した、と書いてある。
殺風景な部屋に座って、ぼんやりと窓の外を眺めている。今日は星が綺麗だ。僕は立ち上がり、窓を開け放った。ゆるゆると、生温かい風が吹き込んでくる。心地よくて、つい、目を細めた。
こんなことになっても、僕の両親は心配してくれなかった。大事に至らなかったことに安堵すると、あとは僕を放ったらかしにした。僕は病院から、一人で歩いて帰ってきた。
実感は湧かない、けれど。よく、生きていたものだと思う。僕は相当、誰にも愛されない人生を送ってきたのだろう。ただ、人に貶され、殴られ、見捨てられる生活。凪咲が僕にしてくれたことを想像すると、少し泣けた。ただの妄想でも、それは十分悲しくて、けれど温かかった。
なんだか食欲も無くて、僕は夕食を抜き、水をコップに一杯飲んだだけだった。入浴を済ませると、早々にベッドに潜り込んだ。まだ、九時を少しまわったところだった。
昔は、こんなふうにして時間を潰した、らしい。ぼんやりとして過ごし、できるだけ長く眠る。必要ないことはしない。生きがいもないから、取り立てて望みがない。
暗闇の中で、じっと目を開けていた。何も考えていなかった。いつも通り、の行動をとっていたはずだ。さすがに早すぎただろうか。眠れないのだ。僕は何度か瞬きを繰り返す。
それは唐突だった。闇が滲んだ。頬を、温かいものが伝う。僕は泣いていた。実感より先に、何かもっと直截なものが、僕のなかから溢れ出した。ああ、なんか前にもこんなことあったなあ、と考えた刹那、僕は在るはずもない声を聞いた。
『わたしでよければ。君の孤独に、寄り添いたい』
『大丈夫。君は、大丈夫』
凛香。凪咲。本来不可能であるはずだが、僕には彼女たちの声が判った。それはほつれた糸のように、周囲の記憶をゆるやかに、非常にゆっくりと、鮮明にしていった。たくさんのことが、ぼんやりと浮かび上がってきては、輪郭を見せ始める。
僕は声もあげずに泣き続けていた。涙は絶えず僕の頬を伝う。決して、忘れてはいけないこと。こんな僕の人生に現れた、四つの光。
僕を生かしてくれた凪咲。
絶望から救ってくれた凛香。
優しく歩み寄ってくれた陽向。
恋を教えてくれた洋子。
彼らは、僕の人生を明るく照らし、導いてくれた。どうしようもない孤独の淵で、手を取り合い、支え続けてくれた。
会いたい。彼らが恋しい。そう思った途端、今度は凪咲への感情が膨れ上がり、僕は余計に泣いた。誰にも主張したくなくて、頼るのは彼らだけにしたくて、僕は声をあげなかった。ようやく、すこし落ち着いてきた頃、僕は不意に理解した。
ようやく、恋が解った気がした。
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