喪失

 問題は、僕が『女の子として』好き、ということを理解できないことにある。凛香によると、すでに僕は、凛香に恋をしているらしい。その恋とやらが、僕の感情のどの部分を指すのか、まったく解らないのだ。


「と、言うわけで、花村さん、教えて欲しい」

「え、あ、そんな、私もよく解らないよ」

 放課後、僕は洋子に頼んで恋を教えてもらおうとしていた。彼女は間違いなく経験者なのだ。その感覚も、よく解っているのではないかと思った。

 しかし、洋子はすっかり困ってしまったようだった。しばらく腕組みして考え、座り直すと、僕の顔をちらちらと見ながら話した。

「あの、なんか、上手く言えないんだけど、む、胸がね、キュってするの」

「胸が、きゅっとする」

 僕は間抜けにも、洋子の言葉を復唱した。思い返してみる。

『胸の辺りがへん』『胸が苦しい』『胸を締められる』

 ああ、間違いない。僕はやはり、凛香に恋をしていたのだ。

「なるほど、思い当たる節が沢山だ」

「そ、それなら、やっぱり八代くんは、凛香のこと好きなんじゃない?」

 けれど、それでは結局解らずじまいなのだ。いや、この際解らなくても、僕が凛香を好きだということには変わりないのだから、良いのではないかと思う。でも、それではなんだか、凛香に申し訳ない気もする。

 言葉にしてみる。教室にはもう、僕たちしかいない。問題はないだろう。

「僕は、凛香のことが好きだよ?たとえば、凛香が苦しんでいるなら、すぐにでも助けてあげたい。凛香が望むことなら、なんでもしてあげたい。でも、それは陽向や花村さんに対しても同じだ。できることはしてあげたいと思う」

「じゃ、じゃあ私たちと、凛香の区別はないの?」

 陽向たちと、凛香の区別。なんとなくだが、何かがあるような気はする。すぐに解るのは、気持ちの強さの違い。申し訳ないが、僕は陽向たち以上に、凛香に強い思い入れをもっている。優劣をつけるべきではないと解っている。けれど、事実だ。もしも僕がいま、どちらかを選べと言われたら、凛香を選ぶだろう。

 けれど、気持ちの種類は同じであるように思う。単純に、その人に幸せであってもらいたい。嫌なことは、自分が引き受けてでも、その人を守りたい。そう思うのは、どちらも同じだ。

 何が違う?

 考え込んだ僕を見かねたのか、洋子はおずおずと言う。

「あ、え、えっと、ちょっと、言いにくいんだけど、その、最終的には、結ばれたいって思うことも、特徴、かも」

「結ばれたいってのは、つまり…」

「…うん」

 それは、まあ、あるだろう。僕だって、凛香の身体に触れたら緊張するし、生き物として喜んでいるような気はする。きのう、病院で抱き合った時も、煩いくらいに心臓が暴れていた。つまり、僕は凛香の身体も、ちゃんと意識しているというわけだ。

 けれど、それが僕の感情に、どんなふうに影響しているだろうか。なんだか、あんまり変わらないような気がする。たとえ凛香が美少女でなくとも、セックスができなくても、それは根本的なところを揺るがすものだろうか。

 それに、もし恋の正体が単なる肉欲であるなら、ピンクとオレンジの違いはなんだ?凛香は、恋の色があるのだと言った。ならばそこには、なんらかの違いがあるのだろう。

 混乱してきた。どうにも答えは出そうにない。

「よく解らなくなってきた」

 僕は頭を抱える。ややあって、洋子が控えめに呟いた。

「でも、人を想う気持ちに、差なんて無いのかもしれないね」

 そう言われると、すとんと落ちついてしまう。僕だってそう思う。気持ちの強度に差はあれど、種類なんてあるのだろうか。

 これは、凪咲にも訊いてみたい。

「…ありがとう。ちょっと、考えてみる」

「うん」

 僕らは同時に席を立った。

 と、その時だった。スマートフォンが震えた。僕はポケットからそれを取り出す。母からだった。珍しいな、と思いながら、洋子に無言の了承をもらって耳にあてた。

「もしもし?」

「奏陽!大変よ、凪咲ちゃんの容態が、急に悪くなったって」

 僕は母が言い終わると同時に電話を切った。すぐさま鞄を掴む。

「ごめん、ちょっと」

「あ、いいよ。またね」

 洋子は優しく笑んで、小さく手を振った。僕は同じ動作を返しながら、洋子に感謝する。

 それから病院まで、僕は走り続けた。ひたすらに。


 どうして、不幸は連続して訪れるのだろう。

 僕が病院に着いて、二時間ほどが経った頃、凪咲の母が僕のところへやって来た。

「…駄目だったみたい。今まで、ありがとうね」

 それだけ言うと、彼女はふらふらと歩き去った。残された僕は、今度こそ本当に、膝から崩れ落ちた。僅かに残った僕の理性が、ここで泣き出すことを阻止した。

 凪咲が、死んだ。

 僕はなんとか、病院の外へ出た。まるで生きた心地がしなかった。浮かれていた自分が馬鹿みたいだった。同時に、凛香のことを想って、涙が止まらなくなった。

 いやだ。凪咲、逝っちゃいやだ。

 僕は泣すがることも許されず、ただ、ふらふらと歩いていた。判っていたことだ。凛香はともかく、凪咲は、もう助からない。どのみち、永くはなかった。頭では解っていた。

 息もできなくなったような気がして、僕は自分の喉に触れてみる。まだ、そこには温もりがあって、拍動が感じられた。

 僕はたまらず走り出した。何もかもを投げ出してしまいたかった。何か、自分の身体の一部を引き抜かれたような感覚があった。それは決して消えず、僕を苦しめ続ける。

 僕は住宅街を駆け抜ける。何も見ていなかった。ほとんど、目を瞑って走っていた。幸い、人とぶつかることはなかった。ようやく息が切れてきて、僕はスピードを緩め、ふらふらと歩き出す。


 自分の足元すら、見ていなかった。

 僕は、いつかに僕を貶めた側溝で、足を踏み外した。それでも意識はぼやけたままで、僕は隣のブロック塀に頭をぶつけた。かなり派手な衝撃だ。脳が揺れる。生温かいものが頭から垂れてくるのを感じて、僕はそのまま、倒れ込んだ。にわかに意識が失われていく。


 目を覚ますと、僕はベッドの上だった。

 真白な天井。辺りを見回すと、ひどく殺風景な景色があった。消毒の匂いがする。なんとなく、ここが病院であることを理解する。

「奏陽?起きたのか!」

 隣に座っていた陽向が声をあげた。ああ、陽向は、また、あれ?僕は、自分の記憶に違和感を覚える。何かがおかしい。

 僕は驚いて起き上がろうとしたが、陽向が制した。仕方なく、また横になる。記憶をたどってみる。僕は、住宅街を走っていて、転んだ。頭を打った。それは憶えている。

 では、僕は何故走っていた?学校に行っていたのか?いや違う、ありえない。陽が沈みかけていたはずだ。ならば。

 あ。

 そうだ、凪咲が、死んだのだ。僕はショックを受けて、たまらず駆け出したのだ。それで、足を踏み外して、運悪く頭を打った。

 陽向が慌ただしく病室を出ていった。窓の外はまだ明るい。どうやら、放課後の時間帯らしい。

 凪咲が死んだ。悲しい、はずだ。というか、そう思ったと書いてある。しかし、僕は今ひとつ実感できない。それは、なんでだろう。いや、そもそも凪咲とは誰なのだ。命の恩人、と書いてある。たぶんそうなのだろう。僕は、記憶のせいで酷いイジメに遭って、凪咲に助けられた。あとは、凪咲の過去。病気のこと。

 僕は必死に思い出してみる。だが、それ以上のセンテンスが出てこないのだ。

 他の人は、どうだ?凛香、陽向、洋子。特徴や、その人の立場は憶えている。凛香は僕の友達で、僕の好きな人。陽向は、僕の親友。洋子も僕の友達で、優しい女の子。思い出せる。でも、僕と彼らは、どんなふうに関わっていた?何をしていた?

 具体的なことが、何も思い出せない。本質的なものを除いて、すべてのセンテンスが削除されている。僕がこう思えるのは、違和感があるからだ。もっと、何かがあったはずなのだ。僕と、彼らの間には。理屈ではない。僕には判った。

 僕が頭を抱えていると、ドアが開いた。一人の男性医師が入ってくる。彼はとても億劫そうに簡単な診察をしたあと、僕にいくつか質問をした。記憶は正常か、という質問もあった。僕は、部分的におかしいと答えた。そう言うしか、なかった。どうやら、倒れてから丸一日が過ぎたらしかった。

 医師が、「とりあえず、大事には至っていないようです」とだけ告げて、部屋を出ていく。入れ替わるかたちで、陽向が入ってくる。

「奏陽?大丈夫?」

「あ、ああ…」

 なんだろう、どう話して良いのか解らない。それだけ答えると、僕は黙った。彼もまた、話さなかった。静かな病室に、二人の息遣いだけが残る。

 陽向。僕の親友。僕は記憶のせいで、彼に近づくことをためらっていた。これは憶えている。しかし、具体的なことは思い出せない。実感をもてないから、人とどう接すれば良いのか解らない。これも、憶えている。

 妙な感覚だ。大切なことは、ちゃんと憶えているのに、それ以外のことがさっぱり思い出せない。これも、この体質のせいなのだろうか。まったくの記憶喪失ではなく、部分的に思い出せない。

「奏陽、なんか、疲れてる、みたい。今日は、もう、帰るよ」

 沈黙に耐えられなくなったのか、陽向が席を立とうとした、その時だった。僕はとっさに手を伸ばして、陽向の右手を掴んだ。その動きは素早くて、迷いがなかった。なにより、無意識下に繰り出されていた。

 僕は困惑した。陽向は、もっと困惑しているようだった。露骨に眉を曲げ、僕の顔を見つめている。まずい、何か言わなくては。僕は、どうしてこんなことをしたのか。

 解らない。ちっとも、具体的な言葉になってこない。けれど、僕は胸のうちに、なにやらぼんやりした感覚を見つけた。僕はそれをじっと見つめてみる。意外と、言葉にするのは簡単だった。

「…寂しい」

 言ってみて、僕自身も驚く。寂しい。おおよそ、僕には似合わない言葉だ。いま、どうやら記憶が部分的に失われているらしい状況で、発される言葉ではない、はずだ。けれど、それは嘘ではなかった。僕は、確かにそう思ったのだ。寂しい。

 続けて、僕は似合わないことを言った。

「行かないで」

 陽向は目を潤ませると、僕の手をぎゅっと握って、再び座った、かと思うと、僕の上に突っ伏した。彼の背中は震えていた。泣いているようだった。何を感じて、泣いているのだろう。

 そう思った途端、僕は理解する。陽向は、僕の記憶を覗いたのだ。陽向にはそういう能力がある、らしい。きっと、僕の記憶が部分的に欠落しているのを見て、悲しくなったのだろう。

 察するに、僕は陽向たちと友情を育んできた、その過程を、すっかり忘れてしまっている。これでは、幻滅されても仕方ないのかもしれない。ただでさえ感覚が鈍かった、らしい僕に、これは致命傷となるはずだから。

 僕はどうやって、これまで生きてきたんだろう。たしか、死にたいと思い続けていた、はずだ。それを、友達に救われた。事実として憶えている。だが、僕は一体何を見て、何を思ったのだろう。それが解らないということは、とても寒くて、心細いことだった。なんだか、全てを失ったような気がした。

 だが、一つだけ。僕に希望を与えたのは、胸のうちにある、まったく制御できないけれど、温かく、確かに僕のものだと思える何かだった。こんなものを感じたことは無い、はずだ。僕が事実として憶えている限りでは、だけれど。

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