痛み
「昔から、そういう醒めたとこがうざかったんだよ、お前は」
昔から。そう言われて、僕はようやく思い出す。
もう、僕が奥底に沈めた記憶。どうしようもなく、陰惨な記憶。もちろん、彼の顔をセンテンスとして、あるいは画像として憶えているわけではない。そもそも、時間が経ちすぎている。特徴が変わってしまえば、僕には誰なのか判らない。
だから、僕に彼の正体を教えたのは、本能と呼ばれるものだった。この雰囲気が、僕の記憶の中で、もっとも凶暴な人物にスポットを当てた。
「まさか、そんな」
ありえない話ではない。ここは、僕の家のそばにある学校なのだ。一人や二人、小学校の同級生がいても不思議ではない。
彼は僕を馬鹿にしたような笑みを浮かべ、腕をぷらぷらと揺すった。
「そうだよ。柏木だ」
イジメの主犯格。僕が、間違えて話しかけてしまった少年。あの頃はまだ、活発な印象があったが、今では見る影もない。ただ陰険で、凶暴な少年に成り果てていた。
彼は拳を振り上げると、容赦なく僕の顔面に叩きつける。なんとか身をよじるも、頬に当たって口内が裂けた。よろけた僕に、彼は続けて二、三発食らわせると、腹を蹴り飛ばした。僕は後ろに倒れる。
「まあ、いいんだ。お前のことは。でも、どうして、お前みたいなクズが、あの桜城と仲良くしてるんだよ。ええ?噂に聞いたが、お前ら、休みの日にも遊んでるらしいじゃねえか」
彼は僕に近づいてきて、髪の毛を掴むと、また僕を殴りつけた。鼻血が出た。久しぶりの痛みに、胸が苦しくなる。
「なあ、あの女、見た目が良いからって気取りやがってよ。ちょっと強引に押せばすぐにヤれると思ったのに、人をコケにしやがって。それを、お前ごときが、簡単に」
右から蹴りが飛んでくる。それを肩で受けながら、僕は笑った。笑うしか、なかった。
「コケにしてんのは、どっちだよ」
お前みたいな人間のせいで。僕は、どれだけ苦しんだと思っている。
柏木は多分、人に拒絶されたことがないのだろう。小学校の頃からクラスを牛耳って僕をいじめていた。きっと、中学校でも似たようなものだったに違いない。だから彼は、人に傷つけられるということを、ほとんど知らないのだろう。だが、高校では馴染めず、こんなふうになった。容易に想像できた。
「あ?」
柏木の動きが止まる。
「何笑ってんだ?」
僕は笑うのをやめて、柏木を睨みつけた。
「お前みたいなクズどものせいで、僕みたいな人間が、どれだけ苦しんだと思ってる!身勝手に人を決めつけて、話を聞くこともしない。人を傷つけるばかりの人間が、人に愛されるわけないだろ!」
僕の怒声に、彼が殺気立つのを感じる。好きにすればいい。もう、僕は一人じゃない。凛香たちがいれば、僕は生きていける。
「てめえ、調子こいてんじゃねえぞ」
また拳が飛んでこようとした。その時だった。
「やめろ!」
僕は背後から聞こえた声に、涙が出そうになった。彼の動きが止まる。
「僕の、友達を、殴るな」
「…工藤か。お前も、よくこんなやつと一緒にいるよな。…あ?なんだその目は。文句があるならお前もぶん殴ってやろうか?」
柏木はヒートアップし、もうすっかり理性を失っていた。彼はゆっくりと陽向の前へ歩いていく。僕はその動きを目で追った。
彼は、陽向を殴りつけようとしたはず、だった。しかしその拳は、陽向の手のひらによって、いとも簡単に受け止められる。柏木は慌てて拳を戻そうとするが、ビクともしないらしい。代わりに蹴りを繰り出そうとした時、陽向がわけの解らない動きで彼を投げ飛ばした。柏木はしたたかに地面へ打ちつけられ、声にならない悲鳴をあげていた。僕は呆然としているばかりだった。
ややあって、未だに悪態を吐き続ける柏木の腹に、陽向は拳をめり込ませた。今度こそ柏木は黙り、ただ、地面でのたうっていた。
陽向は僕のもとへ駆け寄ってくると、僕に肩を貸してくれた。
「奏陽。大丈夫?ごめん、最初から、ついて行くべきだった」
「あ、ああ、大丈夫。…陽向、喧嘩強いんだね」
「…中学の頃に、護身術、みたいなもの、を、習ったから」
それだけで、あんな動きができるものなのだろうか。僕はいま一度、ヒーローの横顔をじっと見つめた。やはり男前だった。
と、そのとき、スマートフォンに着信があった。陽向に目配せしてから、電話に出る。凛香からだった。
「もしもし?」
「かな、た?たす、けて!いま、駅に、いる」
凛香は息を切らしながら、切羽詰まった声で言った。僕は陽向に「ついてきて!」とだけ言うと、駆け出した。身体が勝手に動いていた。早く行かなければ。
何があった?凛香があれほど慌てていることなんて、これまでなかった。とにかく、僕はがむしゃらに走った。陽向は黙って追いかけてくれた。僕らはすぐに、駅にたどり着いた。
不幸は続けて起こる。いつかのことを思い出して、胸が苦しくなった。
僕らは駅の構内で凛香を探した。しかし、向こうが先に僕らを見つけたようだった。凛香はふらふらと歩いてきた。僕は駆け寄り、彼女を抱きとめた。凛香は力なく僕にもたれかかった。まだ息が荒い。
「凛香?どうしたの?」
僕は凛香を支えながら、できるだけ穏やかな声で訊ねた。問い詰めてはいけない。凛香を怖がらせたくない。
隣を見遣ると、陽向も困惑気味に眉を曲げていた。とにかく今は、凛香を休ませなくてはならない。僕らは両側から彼女を支え、ゆっくりと、人の少ないほうへ移動した。
座るにはちょうど良い段差があったので、凛香をそこに座らせた。未だに肩で息をしている。これはただ事ではない。救急車でも呼んだ方がいいのではないか。
僕がそう提案しかけた時、凛香が話し始めた。
「帰り道、誰かに、追いかけられて、…たぶん、あの、ストーカー、だと思う。それで、距離、詰められた、から、必死に、走ってきて」
なるほど、状況は解った。しかし、この息の乱れ方はおかしい。
「陽向、救急車を呼ぼう。凛香を頼む」
陽向が頷き、僕は電話をかけた。大袈裟だと言われたなら、僕が謝ろう。けれど、凛香は身体が弱いんだ。躊躇している場合ではない。
僕は電話で事態を伝えた。
戻った僕の顔を見て、凛香は目を見開いた。
「どうしたの、それ」
「ちょっと、色々あって。後で説明するよ。今はあまり話さない方がいいと思う」
凛香は息を乱しながらも怪訝な表情を浮かべた。けれど、素直に言うことを聞いてくれた。ただ、一つだけ、僕に頼み事をした。
「手、握って、くれる?」
僕はためらわず、彼女の右手を握った。その手は驚くほど冷たくて、胸が痛かった。
救急車はすぐにやってきて、凛香は連れていかれた。
残された僕らは、ベンチに座って、ぼんやりとしていた。どうしてこうも、変化は急激なのだろう。いまさらに、殴られた傷が痛み始める。
「陽向、ありがとうね。二回も助けられた」
「僕は、二人とも、好きだから。僕の、ために」
つくづく善良な陽向の隣にいると、安心する。興奮も徐々に落ち着いてきた。
凛香のことが心配だ。しかし、今の僕にできることは、ほとんど何もない。運動はできないのだと言っていた。もし、あれが引き金となって、凛香の容態が悪化したら?考えると寒くなって、ひとまず止めることにした。
「…とりあえず、今日は帰ろうか」
陽向は気を遣ってくれて、僕を送ると言ってくれた。だが、さすがに気が引けて、一人で帰ることにした。駅のトイレで鼻血を流し、口をゆすいだ。薄赤い水が、くるくると吸い込まれていく。鏡に映った自分の顔は、酷いものだった。
翌日、僕と陽向は職員室に呼び出され、あれこれと話を聞かれた。どうやら、ことの一部始終を見ていた者がいたらしい。僕らの主張はあっさりと認められた。あそこには監視カメラが設置されていて、暴行の現場がしっかりと記録されていたという。人が少ないからこそ、学校も警戒していたのだろう。陽向の行動は正当防衛とみなされ、無罪放免となった。柏木は停学処分となったらしいが、自主退学する予定だそうだ。もともと学校も休みがちで、卒業の見込みが消えたらしい。
なんとも都合よく話が進み、僕らも半信半疑だったが、なんら変わりない日常が戻ってきた。殴られた痕はすぐには消えてくれず、幾人かは心配もしてくれた。僕は曖昧に答えた。特に洋子は、大袈裟に心配してくれた。僕は陽向の武勇伝を、こっそりと教えてやった。
しかし僕にとっては、柏木も僕の怪我さえも、どうでも良かった。気になるのは、ただ凛香のことだ。今日からしばらく入院することになったと聞いている。気が気でなかった。
放課後、僕は陽向を連れて、見舞いに行くことにした。洋子もついてきた。僕らはあまり話さなかった。下手なことを言うと、凛香の死を予感してしまいそうで、話せなかった。
「あ、三人とも。ごめんね、心配させて」
そこには、昨日とは打って変わって元気な凛香がいた。僕は膝から崩れ落ちそうになる。想像以上に、僕は凛香を大事に思っていたらしい。こんなことがあってから、初めて自覚した。
僕らはゆっくりと彼女に歩み寄った。
「凛香。心配、してた、よ」
「ほんとだよ。大丈夫?ストーカーがどうとかって」
凛香は微笑むと、病室の隅を見つめて、ゆっくりと答える。窓から柔らかな初夏の光が射し込んでいる。
「そう、奏陽には言ったけど、嫌がらせをされてたんだ。でも、安心して。犯人も、とうとうおかしくなったみたいで、わたしの家に押しかけてきたんだって。そこで、捕まったらしい」
人を
凛香は静かな声で続ける。
「で、それで、ね。わたし、昨日、無理したのが良くなかったみたいで。寿命、縮んじゃった」
僕は愕然とする。なんとなく予感していたことだけれど、実際に起こると、何がなんでも信じたくない。恐る恐る、訊いてみる。
「…どれくらいに、なったの?」
「きっぱりとは判らない。でも、一年はもたないかもって。それまでに、移植ができれば別だけど」
頭のなかが真白になるとは、こんなふうなことを言うのだろう。僕は思考を放棄し、ただ俯いた。
死ぬ?嘘だろう?
『わたしは、今を生きる』いつかに凛香が言っていたことを思い出す。解っていたこと。移植ができなければ、彼女は死んでしまう。でも、希望はあった。まだ猶予があったから、安心していた。そのうちきっと、移植もできるだろうと。
「ま、まあ、そんな暗い感じにならないでよ。言ったでしょう?移植できれば話は別だって。希望はまだ、ぜんぜんあるよ」
凛香は努めて明るい声で言う。たしかに、そうなのかもしれない。絶望するにはまだ早いのかもしれない。
でも、違う。そういうことじゃないんだ。僕は彼女に、少しのリスクだって背負ってほしくないんだ。注射の一本だって、代わってあげられるのなら、僕が受けてあげたい。死ぬかもしれないなんて、言わせたくない。理屈じゃない。彼女が大切だから。
「陽向くん、洋子。ちょっとごめん。二人きりにして。すぐ終わるから」
凛香はそう言ったが、二人は訳知り顔で、かぶりを振って返す。
「すぐになんて、いいよ。私たち、凛香の顔が見たかっただけだから、このまま帰るよ。ごゆっくり」
「…凛香。また、ぜったい、会いに来る、から」
二人は病室を出ていった。僕は凛香の意図が解らず、ただ彼女の言葉を待った。
凛香は僕のほうへ手を伸ばしてくる。それを僕の手に重ねた。僕は手のひらを上に向けて、彼女の手を握った。
「奏陽。わたしね、これからどうなるか判らない。生きてるかもしれないし、死んでるかもしれない。だから、わたしの命に免じて、一つだけワガママを聞いてほしい」
僕は一も二もなく頷いた。凛香の瞳は変わらず澄んでいて、僕を真直ぐに貫く。
「わたしね、ずっと、君のことが好きだった。あ、違うよ?たぶん奏陽にはよく解らないと思うけど、男の子として、ね。病院で出会った日から、どんどん君に惹かれていった。ずっと気になってた男の子は、やっぱり素敵な人だった」
わけが解らない。いや、それはオーバーな表現だ。言っていることは解るが、まるでおとぎ話か何かに聞こえるのだ。僕には、恋が解らないから。
「わたしの秘密を、話すよ。…ふふ、なんだかわたしたち、みんなが秘密を持ちあってたんだね」
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